かん、かん、かん、と古びた階段を登る。この先、安アパートの一室が私の担当作家の自宅であり、今日の打ち合わせ場所だ。なんでも学生時代の下宿にそのまま住み続けているらしい。服装はいつも上等そうなスーツなのに、見栄があるのかないのかよくわからないひとだ。
仕事とはいえ男の家に私のような女性がひとりなんて危険だと思われるかもしれないが、そもそもこれは私から提案したもの。作家と編集者の打ち合わせ場所としてありがちな喫茶店では、周りの話ばかり気を取られてこちらの話に耳を貸してくれなかったのだ。私に手を出すような欲求も気概も、彼にあるとは思えないし。同僚も「本投げつけられないように気をつけろよー」と笑うくらい。
「先生、入りますよー」
不用心なことに先生はいつも鍵をかけていない。曰く、合理的な理由とやらがあるらしいが。そのままドアノブを捻って室内へ入れば、本とコーヒーが混じりあった匂いがふわりと鼻をくすぐる。先生の偏屈ぶりに耐えかねて2ヶ月で担当替えを申し出た前任者は、古書店の匂い、なんて言っていたっけ。私はそんなところに行かないから、抱く感想としては職員室の匂いみたいだな〜といったところ。
敬愛すべき我が作家先生はというと、優雅に本を読んでいらっしゃった。
「進捗は――順調そうですね」
「ああ、五大くん。来たのか」
先生は本を閉じて顔をあげる。読書をしているのは原稿が進んでいないサインだ。筆がのれば私が来たことなんて気にもとめずに一心不乱に机に向かっているはず。だがそこに触れるのは虎の尾を踏むのと同じ。なるべく新作に関することに話題が及ばないようにしつつ、打ち合わせ――こうなってしまえばほとんど雑談だが――を始めた。
話すのは専ら私の方だ。編集部のこと、私生活のこと……気が散らないよう環境さえ整えてやれば、先生はよい聞き手になってくれる。彼の方でも、自分と違う私の日常についての話はよい刺激になるらしい。
ひとしきり話し終えて、ふと先生が先程まで読んでいた本が目に入る。タイトルと発行者のみが表紙に書かれた簡素な装丁のそれは論文集のようだ。
「心理学ですか? 珍しいですね」
「ああ、新作の参考にな……」
まずい。やってしまった。まだ大丈夫そうだが慌てて話題を変える。
「そ、それでどうなんです? 例の……妙な同好会で知り合った子とは」
「奴か。変わらずメールのやり取りをしているな」
「は!? いや、会ったりとかしてないんですか!? 2ヶ月くらい経ってますよね!?」
「わざわざ会う必要もないだろう」
「嘘、マジか…………」
朴念仁ぶりに思わずため息をつきそうになる。前に話を聞いたときは先生にもついに春が……! と思ったのに、まだまだ先は遠そうだ。しょうがない。
「そうだ、次の打ち合わせなんですけどー……」
12月24日。もちろんその日は彼氏と過ごす予定だ。直前になって打ち合わせの日付を変更しても、先生は少し嫌味を言うくらいだろう。そのくらいなら甘んじて受け入れよう。ちょっとだけ背中を押してあげるのだ。新作のためにも!