空洞のかくしごと「ほな、明日な」
「はーい」
ぱたん、と呆気なく閉じる部屋の扉。少しの緊張をため息をつくことによって解す。部屋に備え付きのベッドに腰掛け、たった今部屋を出ていった男の足音を耳をすまして聞くと、階段をゆっくり降りる音がした。
「……あの女の人のところかなあ」
考えても仕方の無いことが世の中にはたくさんある、この星では特に。同行者の夜の事情なんていくら考えても不毛に違いないのになぜこうも心が揺さぶられてしまうのか。感情なんて二の次のこの星で、自分はアイツに、ウルフウッドに恋をしてしまった。たとえ利用されていようとこの熱が冷めるようなことは無く、駄目だと理解はしても感情というのは厄介なものでろくに言うことを聞いちゃくれない。
どうしたもんかなあ、と思いながら周囲に変わった気配が無いのを確認して赤いコートを脱いでいく。見た目より重量のある防弾性に優れたこのコートは体のラインを瞬く間に変えられる。そう作ってほしい、と自分が希望した。現れたのは見るも無惨な傷だらけの、女の体。
ふと脳裏に先程ウルフウッドと酒を飲み交わしていた女性を思い出す。豊満な胸を強調する様な、真っ青なロングドレスに首元を隠す布地のチョーカー、傷なんて一つもない綺麗な肌。───僕には無いものだらけ。普段隠れている体の傷を一つ一つ撫で、己の腕で抱きしめる。
「…真っ赤な酒、飲んでたなあ」
テーブルで一人食事をとる自分から少し離れたカウンター席で牧師と女性が飲んでいたのは赤い色をしたカクテルだった。それは一夜限りの関係を結ぶ、誘う為のお酒。アイツの口元に傾く赤い液体に閉じ込められるように、飲み込まれてしまいたかった。この空間でなければどこでも良かった、どこか違う場所に流されてしまえれば、それが一番良かったのに。
シャワーを浴びて溜まった砂や汚れを落とす。長袖のスウェットに着替えてシングルのベッドに寝転べばすぐに眠気は襲いかかってくる。枕元に愛用の銃があることを確かめて濡れている髪のまま瞼を閉じた。幼稚な感情が心の奥底にこびり付いているのが自分でもよく分かる。ウルフウッドが女性を買うのが、そんなにショックだったのか。
あの男は今頃、綺麗な女性と唇を合わせて、あの瞳で柔らかい体を舐め回すように見ているのだろう。十字架の形をした特殊な武器を操る大きな手が背中を抱き、分厚い体と密着する。一夜の関係に甘い言葉は不要かもしれないが何だかんだ優しい男だ、聞いたことの無い溶けるような声色で女性を虜にしてしまうのだろう。
『───ヴァッシュ』
「いっ…いやいや! …何考えてんだろ、僕…」
想像したウルフウッドの声が脳内に響いた瞬間、ハッとした。他人の淫らな妄想に耽るだなんて、とんだ変態だ。ほのかに熱くなった体を無視してぎゅっと瞼を閉じることで無理矢理眠りについた。
次の日、いつも通りの早朝に目を覚ます。トレーニングの後、汗を流してコートの袖に腕を通し、この町で一番大きなダイナーへと向かった。不思議と眠気の残る頭をあくびや目を擦ることで強制的に覚醒させ、室内を見渡すと同行者であるウルフウッドはすでに席につき食事を始めていた。彼の目の前の空いた席に腰を下ろす。
「オハヨー、どうしたの、早いね君」
「…おはようさん、オドレが遅いだけやで」
「……へ? …嘘」
自分は確かに時計の音を聞いた瞬間に目を覚ましたはずだ、はずなのにダイナーの壁にかかった時計が指し示す数字は明らかにいつもより遅い時間だった。今までこんなことが起きたことはなかった、愕然とする僕をウルフウッドが心配気に見つめてくる。僕がおかしなことを言い出すまで動いていた手や口は今や止まってしまっている。やけにウルフウッドの手に目がいくのは何故なのだろうか。
「トンガリ、なんや、変やぞ」
「…どうしちゃったんだろ、僕」
「体調でも悪いんか?」
「まさか!」
人間ではない自分が体調不良だなんて、そんなこと起こりうるはずがなかったのだが現状それを持ち出してもなんの説得力もない。先ほどから眠たいのはこの謎の体調不良のせいだろうか、一度シップに戻った方が良いのかもしれない、しかしそうなると今まで来た道を戻らなければいけなくなる、と色々思索をしていると目の前の男からため息が聞こえた。
「移動中に倒れられんのは勘弁やし、さっさと部屋戻って寝とき」
「…なんか、優しくなったなあ、お前」
「気のせいや」
いいや、気のせいなんかじゃないよ、と続けそうになった言葉を飲み込む。眠気だけでなく熱まで出てきたのかもしれない、これ以上ウルフウッドと空間を共にしていたらおかしなことを口走ってしまいそうだった。いつものように笑って場を濁して席を離れた。背後から刺すようなウルフウッドの視線を感じる。言われなくとも理解はしていた、この問題は時間が解決するようなものではないことを。
寝ても治らないものということは分かっている、それでもあの借りた部屋に戻るしか選択肢は残されていない。数十分前に挨拶をした宿の主人と目が合って苦笑する。少し熱っぽいんだ、と零すと医者を呼ぶかと聞かれたが断った。見知らぬ人間に体のことなど聞かれるのは面倒だった、足早にその場から逃げると階段を登り奥から三番目の部屋に潜り込む。
少しの荷物しかない、昨日自分が寝泊まりした部屋だということを確認してコートを脱ぐ。男の視線がこびりついてるような感覚から早く抜け出したかった。
自身の状態が信じられなかった。こんな風になってしまうものなのか、あの一瞬、ウルフウッドの優しさを感じただけで心臓が爆発したかのように痛い。こんな愛は知らない、己の中にある感情を全てぶちまけても見つからない。頭を抱えてしまった、いつまでも体調不良で足を止めているわけにはいかない、いずれはあの男の前にこの惨状を晒さなければならない現実が今の自分に重くのしかかる。
倒れるようにベッドに寝転がった。頬に当たる冷たいシーツの感触が今ばかりは心地よかったが、それもすぐ熱くなる。やめろ、熱くなるな、あんな些事で喜ぶんじゃない、自惚れてはならない、たくさんの鎖で自身を戒める。僕とアイツの関係はビジネスで、利用し利用されの繋がりで、こんな身勝手で他者を尊重しない気持ちを向けてはならない。
眠ろう、ぐちゃぐちゃの思考にこれ以上ハマっていられるか。今はただ逃げたかった。
小さな物音で目が覚めた。室内は暗く、寒かった。朝開けた窓がきいきいと音をたて夜風によって揺られていた。いくらコートを着ているとはいえ、砂の星の夜は冷える。震える体を起こし、窓を閉める。数歩歩くと床が軋む音がした。朝から夜まで十時間以上も眠ってしまった事に対して自分で驚いてしまう。ベッドに腰掛け、ぼーっとしてると人の気配が近づいてくるのが分かった。足の運ぶ音で誰なのか丸わかりだった、当の本人もそれを知らせるつもりで鳴らしているのだろう。
「……トンガリ、起きとるか」
「……ウルフ、ウッド」
扉越しに聞こえた声はひどく優しいものであった。熱に魘されて意識のない状態の僕だったら最悪気付かなかったぐらい、柔らかい声。それに釣られて、僕の声も頼りのない、情けない声で彼の名前を呼んでしまった。
「…どや、体は」
「あ、あー…うん、多少マシ、になったかな」
「メシは、食ったんか?」
「いや、食べてない、けど…」
「これ、食うとき、適当に選んだから、文句は聞かへんで」
「え…」
がさ、音を立てて扉のドアノブに何かがかけられた音がした。その音を最後にウルフウッドから声をかけられることなく、二つ隣の部屋の扉が閉まる音が聞こえた。え、何、どういうこと、と脳内が疑問符で埋め尽くされながらも音の発生源である扉を開けた。
外側のドアノブには袋がかかっていた。誰に見られても困ることなど無いのに、周りを見回しながら袋を持ち、部屋に引っ込む。扉にもたれかかり、緊張しながら袋の中身を見る。サンドウィッチとドーナツだ、適当に選んだと言うわりに僕好みのチョイスである。
「……うれしい」
誰もいない空間に、心底嬉しげな女の声が広がった。思わず、口を抑えてしまった。後悔を、してしまった。それは即ち恋慕の感情を認めてしまう手段に他ならなかった。
自分が心から駄目になっているのがよく分かった。ウルフウッドがなにをしても、心が踊ってしまう。抑え込むことも忘れることさえ出来やしない、なんて厄介極まりないものを抱えてしまったのか。袋を潰さないように優しく抱いて、ずるずると扉にもたれながら床に腰を下ろした。サンドウィッチを取り出し、口に含む。鼻水のすする音が響いた。
その後、なにをする訳でも、中途半端な時間に覚醒した脳は深夜を迎えても眠くなることもなく。流石にウルフウッドも眠っただろうと思い、何の気なしに外を散歩しようと思った。こんな時間じゃ流石に外に出ている人の方が珍しいだろう、と考えていたのだがこの町は夜型の人間が多いらしく、広場は未だ明るく賑わっていた。
このままここにいたらまた騒ぎを起こしてしまうかもしれない。酒を飲み、楽しげな人間たちといるのは好きなのだが如何せん平時よりも頭のネジが緩んでるせいだろうか。そのぶん色んな出来事に巻き込まれやすくなってしまう。やはり宿に戻ろうと、踵を返そうと広場に背を向けた瞬間、少し離れた場所から声を掛けられた。後ろを振り向くと、そこには見覚えのある、顔の綺麗な鮮やかなドレスを身にまとった女性がいた。
「貴方、昨日の牧師さんのお連れさんよね」
「……やあ、こんばんは」
なるべく穏やかに、を心掛ける。例え、目の前にいる彼女が昨夜ウルフウッドと熱い夜を過ごしたとしても。そう己を律しても、羨ましい、だなんて馬鹿馬鹿しい感情が芽生えそうになるのを必死で耐えた。そんな自分の心を知るはずもなく、彼女は流れるような、淀みのない動作で僕の左側を位置取る。ほのかに香る香水は鼻を刺すことなく、より彼女を魅惑的な女性へと引き立てていた。
「暇なの? こんな時間にお散歩だなんて、危ない人に狙われちゃうわよ」
「あはは、そういうお姉さんだって、危ないんじゃない?」
世間話の皮を被った逃げの言葉は、あえて触れられることなく消えていく。今までだってこういった夜のお仕事をしている女性から声を掛けられたことはあった。酒を馬鹿みたいに飲んで寝たフリをしたり、運良く暴漢達に賞金首だと気付かれ、追っ手が美人なお姉さんから屈強な男性に変わったり、などなど。逃げ道はたくさんあるはずだったが今は周囲に誰もいなく、目の前の女性は逃すきもさらさらないのか口を挟むことすらできなさそうな雰囲気を醸し出している。
「ねえ…お暇なら、わたしと一晩どう?」
極めつけに出た一言とともに、壁際に背中をぶつける。横目で確認するとそれは何故か厳かな造りをしたラブホテルであった。うわん、初めてのラブホテルが美人な同性と、か。
しかも、昨日ウルフウッドとセックスした人と。倒錯した気持ちに苛まれ、唇を噛んだ。添えられただけの手を、僕はただ眺めることしか出来なくなっていた。
「ちょ、ちょっと待っ、あの、僕は…っ!」
「ん〜?」
ホテルに連れ込まれた後、彼女は人を変えたように子供のような表情を浮かべた。先程の優雅な姿はどこへ行ってしまったのだろう、もしやこれも彼女の技の一種なのかもしれない。ギャップで相手の心を掌握するとかいう。さすが夜の街で働く女性は違う。
しかしそんな彼女の掌の上で踊り続けることに、僕に利点はない。この赤いコートを脱がされたら全てが終わりなのだ。そう思っていたのに気付けばホテルの一室に連れてかれ、ベッドに転がされている。四つん這いの体勢で迫ってくる彼女は、実に蠱惑的であった。
自分が男性であったなら唾を飲み込み、喉仏を動かしているに違いない。しかし、いくら自分が人間ではないといえ決められた分類はそう簡単に変えられるはずもない。求められているのが自分ではないのに、この場所にいるわけにはいかなかった。どうにか逃げなければいけないのに、彼女の露出された肌から目が離せなかった。
ここを、彼の手が滑ったのかもしれない。
数秒、そう思いながら眺めていると、彼女の指が恐怖で震えることもなくコートやベルトを脱がしていく。自分以外があまり触れたことのない、脱がせにくいはずの服を彼女はいとも簡単にするすると剥いでいった。
「あっ、やめ、脱がさないでー! き、君ねえ! 面白がってるでしょ! 助けてー!」
次第に騒ぎ立てる僕を、彼女は楽しげに笑いながらも手は止めなかった。そうこうしてるうちにコートの前は開かれ、見せたく無かったものが顕になる。
黒いインナーに覆われてもなお分かる。片方の胸が抉れ、格子によって無理矢理治された、傷だらけの歪な体。日々のトレーニングによって培われた筋肉質な硬い体。おおよそ女性のものとは思えない自身の体に、毎度の事ながら目を逸らしたくなってしまう。
その傷に怯えたのか驚いたのか、彼女の動きは止まってしまった。慣れていることとは言え、少しだけ心臓が軋んだ。
「…驚いた、本当にあなた、綺麗な顔なのね」
「なにが…」
「男にも女にもなれるなんて、そうそういないのよ?」
彼女が浮かべた表情は、まるで母親のようにこちらを慈しむものに変化していた。言葉も手も、傷には一切触れていないのに、まるで労わってくれるような言動が僕の心のガードを緩くさせていく。
彼女の反応は予想外であった。まさか優しい対応をされるとは考えておらず、些か呆気に取られてしまう。しかし、これで彼女も服を脱がす不埒な手の動きも止めてくれるだろう。安心して体から力が抜ける。
「これで…分かっただろう? 僕じゃ君のお客にはなれない」
「あら、わたし、女の相手ができないなんていつ言ったかしら」
「えっ嘘、待って!」
それでも止まらない彼女の手と言葉に僕は大きな声を出す。まさか、彼女は傷に驚いただけで、実は最初から性別に気付いていた、ということだろうか。
「…君、僕が女だってわかってたの…?」
「いえ? 分からなかったけど」
「あっそう…」
あっけらかんと言われ、ぽかんと呆けてしまう。数多の人間と関わる彼女にとって僕のような存在はそこまで異端ではないようだ。そしてそれは即ち、彼女の手を止めることはできなかった、と言うことである。
「あ! ぼ、僕お金ないんだって!」
ついに肩から布がするすると下げられ、手首にまで落ちた。抵抗で最後まで脱ぎはしなかった。いよいよベルトにまで伸ばされた手を止めるにはこの手しかないだろう、と大人としての羞恥心をかなぐり捨て、叫んだ。
「財布の紐は、実質あいつが握ってるようなもんなの! 面倒くさいんだよ? ちょおっとお店に寄って減っただけでがみがみ、がみがみ…」
「そう、じゃ、これはサービスってことにしてあげるわ」
精一杯の抵抗はサービス、だなんて普段だったらありがたい言葉で一蹴されてしまう。ベルトに触れていた手はゆったりと上へ移動し、傷だらけの薄い腹に指が這う。触れるか触れないかのところでくすぐるように指先が動いた。たったそれだけの動作で腰から背筋に弱い電気のような刺激が走った。
「ちょ、待っ…あ、んっ」
「イイ反応するじゃない」
「や、やめっ…ひゃうっ、も、う! 痕付けるの、き、禁止! キスもだめ! 性的接触はんたーい!」
「え〜つまんないわねぇ」
感じたことのないような刺激に流され、ついにはベッドに寝転がされてしまう。インナーはそのままに、覆われていない箇所に口付けが落とされていく。一度強く吸われ、赤い跡が残っているのが見えて、焦って体を捩らせる。子供のような抵抗に彼女は眉を下げ、笑って手の動きを止めてくれた。
真っ赤に染まっているであろう顔をなんとか取り繕い、起き上がる。彼女は僕の横に寝転がり、こちらを見据えていた。
「…あの牧師さんとは、そういう関係じゃないの?」
「…あいつと? ないない!」
「ふーん…そうなの…」
ウルフウッドとの関係を疑われ、大きな声が出てしまう。焦っている、と思われなければ良いが。くしゃくしゃになった袖から両腕を脱ぎ、コートをハンガーに掛けて彼女の隣に寝転ぶ。彼女は優しく微笑んだ。まるで友人のような近さに心地よさを感じる。
天井の電気は変わらず、爛々と輝いている。外の喧騒は静かになり、時刻は二時にまで差し掛かっていた。あと数時間もしない内に空は明るくなり、彼女とさよならをしなければならない。それがなぜだか、無性に寂しいと感じている自分がいた。
「わたしには、そんな風に見えないけど」
「え?」
小さく呟かれた言葉は隣に並んだ自分にはよく聞こえたが、その言葉の意味を測りかねて思わず聞き返してしまう。
「案外あの牧師さんも初心なのかしらね」
「あいつが? うーん、そんな風には見えないけどなあ」
「あら、そう思う?」
ウルフウッドのことを初心だと思ったことは一度もない。人懐っこい言動がよく似合う彼は夜のお姉さんどころか酒場のおじさんとすらすぐに打ち明け、肩を組んで飲み明かしていた日もあった。酒との付き合い方も上手い、世渡りも、百五十年生きている自分なんかよりもずっと上手だ。
その分、酸いも甘いも噛み分けている、ように見える。その牙の裏に、たまに見え隠れする幼い心があることを知ってはいた。しかしそれを上手く隠すことの出来る男を初心だとは言えなかった。
「でも、女心が分からないようじゃ、良い男にはまだ遠いわねえ」
そう言うと彼女は瞼を閉じてしまった。シャワーを浴びなくていいの、という僕の小さな声は返事も無く部屋に消えていく。静かになった部屋で、手持ち無沙汰になってしまった僕は、一先ず今日の疲れを癒そうと備え付けの浴室へと向かった。
シャワーを浴びた後、時計を見れば長針は四を刺しており、長時間寝れないことは分かっていたがベッドへと体を倒した。女だとバレてしまった彼女の前で、わざわざコートを着て寝るのは馬鹿らしくなった為、下着姿のままだ。彼女は声を出すことも無ければ体を動かすこともなく熟睡している。仰向けで寝ている彼女の表情を盗み見て和やかな気持ちに浸る。人差し指を彼女の頬に突き立てると柔らかな感触が返ってくる。化粧や格好で勘違いしてしまったがかなり若い年頃の女の子、と呼ばれるぐらいの年齢なのかもしれない。
安眠を妨害されたせいで彼女が小さな呻き声をあげる。急いで手を離し、ブランケットを彼女と自分の体に掛ける。この星の夜は冷える。少しでも彼女が暖かく眠れるように、体のボルトなどが彼女に当たらないよう気をつけながら抱き締めた。名も知らぬ彼女の体は暖かく、柔らかい。触り心地の良い髪に指を通しながら撫でる。穏やかな寝息を立てる彼女を眺めながら僕はいつの間にか瞼を閉じ、眠りについていた。
朝になると、彼女の呼ぶ声で目が覚めた。小さな声は遠慮を含んだ響きをしていたが人間より感覚が鋭い体では容易に聞き取れる、未だ下がりそうになる瞼をなんとか上げて、起き上がる。カーテン越しの朝日が眩しく、欠伸を噛み殺すことが出来なかった。涙が溢れる前に指で擦る、ようやく鮮明になった視界には怒っているのか照れているのか、よくわからない表情をしている彼女がいた。
「……おはよー」
「おはよう、少し、聞きたいのだけれど」
「うん…?」
「あなた、あんなことしない方が良いわよ」
あんなこと、と言われたのが最初、どのことを指しているのか分からなかったがすぐに気がついた。昨夜、彼女を抱きしめながら寝たことについてだろう。さすがに初対面でやることじゃなかったかもしれない、距離感ってやつは難しい。離れることはわかりやすいし簡単だが、近付くとどこで離れれば良いのか、ちょっと分からなくなる時がある。
「えっと…ごめんね? あの方があったかいかなぁって思って…」
「…今まであんなことしたことあるの?」
「えー、っと…うーん…?」
今までの旅路を思い返す。最初は双子の兄と一緒だった、その旅の中で暖かさを分け合うように同じベッドで寝たことは何度もあった。そして抱きついて寝たことも。兄は呆れながらも僕の腕を拒むことはなかった、あの暖かさが今では懐かしくて少し悲しい。
兄と別れてからは一人が続き、シップのみんなと出会った。その時は誰かと一緒のベッドで眠ることすらなかった、はずだ。たまに小さい子がベッドに潜り込んできたことはあったが、これはノーカンだろう。
ウルフウッドと旅を始めてからまだ数ヶ月しか経っていないが、それに近いことをした回数は、一度だけあった。町に辿り着けず、仕方なく岩場の影で野宿をした時。体と体を、ではなく、火の番をしてくれていたウルフウッドに背中をぴったりとくっつけて寝たことが一度だけ。僕よりも高い体温のウルフウッドの腰辺りに密着し、布越しの背中に広がる熱が心地よかった。その時の暖かさを今思い出すだけでも、心臓が高鳴る。
「その様子じゃ初めてじゃなさそうねえ」
「いやっ! えっとぉ…」
「罪な女だわあ」
「エ〜そうなんですかあ…?」
怒っていたような表情が柔和なものへと変化する。彼女は手櫛で乱れた髪を整えるとベッドから立ち上がった。それにつられて畳んであったコートを身にまとい、ほぼいつも通りの姿に戻る。髪を逆立たせたかったが、いつも使っている整髪料が手元に無いため、垂らしたままだ。
扉近くの壁にもたれかかり、こちらの準備が終わるの待っていてくれた彼女の傍に駆け寄る。扉を開けようとノブに手を回した時、彼女の手が額に掛かっていた前髪を掬った。その流れで手の甲が僕の頬を優しく撫でた。
「大変なことになったらごめんなさいね」
「え? なんのこと?」
彼女の言葉の意味が分からず、聞き返しても微笑んで答えようとしてくれなかった。結局、ホテルから出て彼女と別れても、自分の借りた部屋のある宿の前にたどり着いても、その言葉がなにに対しての謝りだったのか、理解が出来なかった。
「あれ、ウルフウッド、おはよう」
借りた部屋に戻ると、何故かウルフウッドがベッドの上に座って煙草を吸っていた。わざわざ自分の部屋から借りた灰皿を持ち込み、かなりの時間を過ごしていたことが分かった。もう何本目か数えられないほど潰された煙草が灰皿に溜まっていた。
「……朝帰りかい」
「え? あー…えっと…」
どこか不機嫌な響きを含んだ声に、思わず返答が遅れてしまう。帰りが遅くなったのはホテルで女性と一緒に寝ていた、なんて馬鹿正直に今の彼に話したらもっと機嫌が悪くなるだろう、容易に想像できた。言葉を濁しているとウルフウッドがいつの間にやら短くなっていた煙草を灰皿に押し付ける音が聞こえた。それと同時にウルフウッドがため息をついた。
「女抱けるんやな、知らんかったわ」
「…ウルフウッド?」
「そない匂いさせて、誤魔化されんぞ」
不機嫌、という言葉は合わないかもしれない。しかし今のウルフウッドの様子を説明するには何の言葉が正解なのか、分からなかった。ウルフウッドは僕に近寄らずとも彼女の香りを感じ取り、ベッドからゆらりと立ち上がった。ただならぬ雰囲気を纏ったウルフウッドから逃げるように後退りをする。ブーツの底面と床に散らばった砂が擦れる音がやけに大きく聞こえた。
「な…なんでそんなに怒ってんの?」
やけに緊迫したこの部屋の空気を和らげようと、わざと笑って明るい声を出す。ウルフウッドは依然として厳しい表情をしたままだった。頭の中が分からない、で埋まっていく。じっとりと、嫌な汗が背中を伝う。まるで拘束されたかのように足がその場に縫い付けられていた。
「ワイと穴兄弟になった感想はどうや?」
「……あ、な………うあぁっ な、なに…言って…!」
目の前の男の、あんまりにもな発言に思わず大きな声が出てしまう。知らないから仕方ないとは言え、女の自分にとって慣れてなさすぎる言葉に叫んでしまう。そんな己の様子を特に気にすることもなく、ゆっくりとこちらに歩を進めるウルフウッド。
どくどく、心臓が音を立てている。───暴かれる、喰われてしまう。
「…逃がさん」
ウルフウッドの低い、唸っているような声が恐怖という形に変わって足元から這い上がり全身を竦ませる。伸びてくるウルフウッドの手を強く叩く。
「やめろ…!」
「……なんや、冷たいやっちゃの」
「…今の君は、冷静じゃない、から」
言葉を吐き出すとウルフウッドの顔が変わった、嘲笑するような顔に目が離せなくなった。大きな歩幅でウルフウッドが近づき、再度伸ばされた彼の手に反応が遅れて、接触を許してしまう。強い力で握られ、体が強張る。何をされるか分からず、逃げ出そうとしても僕の腕からウルフウッドの手が外れることは無かった。
怖くなった、今まで見たことのない彼の表情の変化に疑問が浮かぶ。
「や、めろ! ウルフウッド! お前…っ僕に撃たせたいのか」
「撃てるんか」
「な……」
何を、考えている。何を思ってそんな表情をしている。今のウルフウッドが僕には全く分からなかった。
どうしてそんなことを言うのだろうか。どうして、そんな酷い顔をしているのか。その声は、何を思って出された声なのだろう。
「撃ってみ、ヴァッシュ・ザ・スタンピード、そんなに暴かれたくないモンがあんならな」
息を吸う間もなく、右手が動く。反射的に振り上げられたはずの手は、簡単にウルフウッドの左手に阻まれる。それは分かっていた、そう来るだろうと知っていた。戦いの女神に祝福されたような彼の卓越したセンスを、隣に立って戦う僕はよく知っていた。ほんの少しの隙に義手に埋め込まれた銃を構え、ウルフウッドの手から逃れて彼の首を殴る。ほぼ無理矢理捩じ込んだその行動は彼に気取られた瞬間に執行することが出来ていた。
ずるり、とウルフウッドが僕に凭れかかったが、彼の体を支えることが出来ずに共に床に腰を下ろす。そこでようやく呼吸をすることが出来た。一瞬のようで永遠のような時間だった。お互い殺気はなくとも、逃げる者と捕らえる者のボードを持っていた。こうなることはウルフウッドも分かっていただろう。
重たい体を何とか引きずり、ベッドに寝転がす。きっと彼はすぐに目を覚ましてしまうだろう。これ以上ここにはいられない。荷物をまとめ、部屋から出ようと扉を開けた。
「ま…て…」
ノブから手が離れた。寝息に近いようなウルフウッドの声に後ろを振り向いてしまう。彼の瞼は未だに閉じている、安心した。だが彼の顔を見て、また足が止まってしまう。後ろ髪を引かれてしまう。
ベッドに近づく、僕より浅黒い肌に手を這わした。ここまで無防備なウルフウッドは初めて見たからか、その顔をずっと見ていたい、とさえ思った。徐々に顔を近づけ、額を合わせた。温かい、肌の質感。
ゆっくりと縮まる距離を、まるで他人のように眺めていた。あと少しで、唇が付きそうになった瞬間、前髪が咎めるように流れた。弾かれるように体を離し、部屋から出る。勢いよく扉を閉め、階段を駆けた。店主には、『先に出る、料金はそのままで』と伝え、足早に宿から出た。
───駄目だ、駄目だ駄目だ。このまま暴かれて、アイツと離れがたくなる。一人が当たり前だったはずだ、一時の過ちなんて犯さないはずだった、それを、自ら犯そうとした。狂わされている、ニコラス・D・ウルフウッドというたった一人の人間に。
今はなるべく遠くへ、逃げて逃げて……逃げた後はどうしよう。彼は僕をナイブズの元へと送り届ける案内人だ、辿り着く場所が割れている以上、必ず最後には会ってしまう。
目の前で発とうとしていたバスに無理矢理乗り込んだ。窓際の席に座り、頬杖をついて外を眺める。ウルフウッドはもう目覚めてしまっただろうか。たとえ今、目が覚めても、次のバスが来るまで数日は掛かる。多少は逃げられるはず、だ。大丈夫、大丈夫なはず。村からどんどん離れ、建物が小さくなっていく。強張っていた体の力が抜け、バスの背もたれに体を預ける。
この数分の間に起きた出来事を整理した。ウルフウッドが激昂した理由は、やはり思いつかない。夕食を届けてくれた彼は至って普通だった、それどころか優しすぎる、とまで思った。そこからあった出来事と言えば、彼女とホテルで寝て帰りが遅くなった、ぐらいだ。
まさかと思うが、それだけで。しかしウルフウッドだって朝帰りすることは多々あった、彼にあそこまで怒られる謂れはない。
やはり、いくら考えても理由は思いつかない。本人に問いただす以外に道は無いようだ。体が重くなる。頭を窓ガラスに付けて、外をただ眺めていた。
どうして、どうして僕の形はこうなのか。
幼い頃、レムとナイブズと一緒にいたあの頃。あの頃はナイブズと鏡写しである己の形が普通であった。それがどんどん、離れ、背いていった。ナイブズと違う形になっていくのが悲しく、辛かった。それはナイブズも同じで二人してよくレムを困らせていた。
どうして僕は、ナイブズと同じ男性体で生まれてこなかったのか。形だけが女性体の、使えもしない器官を宿している。レムとは違う、レムのようにはなれない、ちぐはぐで不完全な体。人には見せられない、僕だけの体。
バスに揺られ、思わず涙が頬を伝いそうになった。
「ヴァッシュさあん!」
「わあっ!」
背後から聞き慣れた、明るい声が刺さった。恐る恐る振り向けば想像していた通りの二人組がいて、背丈の高い方の女性、ミリィが勢いよく手を左右に振っている。流石に無視することはできないだろう。こちらも手を振り、ミリィと、その隣にいるメリルの元へと近付く。
人の通りが多い道のせいで、なかなか二人の元へ辿り着けない。他者にぶつからないように気をつけながら歩く。ようやく辿り着いた頃には二人は首を傾げて不思議なものを見るように変化していた。何を言われるか、簡単に想像できてしまう。
「あれぇ?」
「ウルフウッドさんは? 別行動ですの?」
「まあ……別といえば別、かな…」
ウルフウッドと別れたあの日から一週間以上が経っていた。あの後、何日かバスに揺られ、頃合いと懐事情を見計らって降りた。あの村と同じ程度に栄えている集落だ。三件ある内の一つの宿の部屋を借り、筒がなく過ごしていた。宿の主人の子供とその友人たちと遊び、食堂のお手伝いをしたり。“ヴァッシュ・ザ・スタンピード”だと気付かれることもなくそれはそれは平和な暮らしを送っていた。そろそろこの村から出よう、と考え、携帯食料や銃の弾などの消耗品を買おうとしていた矢先に、メリルとミリィに見つかってしまった。ウルフウッドに見つかるよりはマシだが、困ることには違いない。
あれからウルフウッドには会っていない。考えすぎだと思うが教会を見る度に彼を思い出しては、胸が痛んだ。あんな一方的な別れを彼はきっと納得しないだろう。いずれ必ず僕の前に現れる、これはどうしようもできない未来だ。今の僕はただ先延ばしすることだけに賭けている。
「珍しいですわね、あのウルフウッドさんがヴァッシュさんと別だなんて」
メリルの言葉にぎくりと背中が強張った。さて、なんて言い訳をしたら良いだろうか。そう悩んでいると身体中に嫌な汗が流れた。何故だろう、笑顔の二人が、やけに怖く見える。
答えない僕にじりじりと詰め寄る保険屋コンビ。笑顔でゆっくりと後ずさる僕。通行人にぶつからないように気をつけながら両手を上げて意味もなく降参のポーズをする。
「あは、あはは、まあ? たまには、息抜きも大事だと思ってさあ! ちょっとした…お休み? みたいな」
「わあ〜ヴァッシュさんってば優しいんですね〜!」
そう思ってるんだろうけど、本心なのだろうけど。天真爛漫な彼女の表情が、何かを隠しているような違和感を感じた。
顎から汗が垂れた。粒となって離れた瞬間、心臓が掴まれたような感覚が襲った。その場から離れようと足を動かそうとした瞬間、腰に黒い何かが巻きついた。
ヒッ、と息を飲む。視線を下げて正体を見る。強い力で腰に巻きついたそれは、一週間前に無理矢理別れた男の腕であった。
「ほーん…」
自分よりほんの少しだけ上背があるウルフウッドの口元が、僕の耳に近づいた。僕が好きな、低くて優しい声。ウルフウッドはよく内緒話するみたいに僕の耳元で囁くことがあった。それをされる度に震える肩を隠すのが大変だった。それが今は変わって恐怖から体を震わせた。あまりに近いため、振り向くことができない。
「休み、なあ…そらまた、有難い提案ですわあ」
腰を掴む手が、ぎゅうっと強くなる。まるで咎められているように。そろそろ本気で痛い、自分の馬鹿力加減を知らないのだろうか。
「ふざけよって調子乗るのも大概にせえよクソガキが」
わあ、スラスラと綺麗に暴言が出てくる出てくる。
乾いた笑いを零しながら、腰に回った腕を外そうと奮起するがどう頑張っても外れない。汗をかきながら暴れていると、視界に二人の服が映る。そういえば、怪しげな行動をしていたメリルとミリィは今、どんな顔をしているのかと目線を上へとずらす。
「ごめんなさあい、ヴァッシュさん」
「マ、マサカ…君タチ…」
「…うふふ」
「うっ売ったのかー! 僕を!」
全く悪気のない笑みを浮かべてその場に立っていた。ぐぎぎ、と音が出そうなほど腰を強く締め付けるウルフウッドの腕、途中地面に転がったり変な体勢になったりしながらもその場で逃れようとするが全く効果がない。
「失礼ですわね、売ったのではなく一緒に貴方を探していただけですわ!」
「ほぼ同じじゃ無いのかそれー!」
ウルフウッドの顔を手で遠ざけてどうにか腕と腰の間に隙間を作る。僕の腕が見たことないくらい震えているのに対し、ウルフウッドは全くと言っていいほど取り乱した様子はない。おかしい、おかしいって。なにこいつ。なんでこんな涼しげな表情を浮かべていられるのだろうか。涼しげ、というよりか無表情に近いが。
「あ、あの…ウルフウッドさん…」
「ほな、おおきにな嬢ちゃんたち、今度なんか奢らせてもらうわ」
「はぁ〜い! 二人ともお気を付けてー!」
「詳しいことは知りませんけど正直になった方が身のためですわよ〜」
先ほどの様子はどこへやら、清々しいほどの笑顔で会話をするウルフウッドとメリルとミリィ。彼と共犯者だった二人と、全く逃げられない現実に頭を抱えていると足首を蹴られ、視界がぐるっと変わる。抱え方が俵抱きへと変わった。驚きの声をあげる間もなく、ウルフウッドの足が動いた。その足取りは焦りを感じさせないゆっくりと落ち着いたものであった。振動も少なく、抱えられていて不快な気持ちはない。しかし、これなら走って砂煙を浴びた方がマシかもしれなかった。
絶対に逃さない、逃げたら殺してやるからな、と言われているかのようだった。真綿で首を絞められるかのような、この星では貴重な真水でゆっくりと溺死させられているようだった。
「う…」
「うわあーん!」
誰一人として味方のいない状況下で、僕にできることは悲痛な叫びをあげる、それだけであった。当然のように、効果は砂粒よりも小さく、僕を抱えた男の手はぴくりとも動かなかった。
「じゃ、なんで逃げたか、洗いざらい話してもらおか」
「……え、えーと」
ウルフウッドの借りた宿は、僕の宿より遠く離れた集落の端っこに位置するものだった。宿の女将さんは特に驚いた様子を見せることもなく『汚すんじゃないよ』と僕たちに言い放った。それに軽い返事をするウルフウッドは廊下を進み、部屋へと入った。愛用の武器を静かに壁に立てかけると、反対の腕に抱えられた僕は荒々しく雑にベッドに投げられた。
ろくに受け身も取れなかったが、あまり硬くないマットレスのおかげで背中も頭も痛くなかった。しかし、このまま寝転んだ状態でいるわけにもいかない。恐る恐る、起き上がるとウルフウッドは部屋に備え付けられていた椅子に腰掛け、こちらをじっと見つめていた。
ウルフウッドの言葉に、視線が右左に動く。本当のことは言えるが、本音を告げることにならないかどうか、それが心配であった。間違っても心の内は晒さないように努めようと決心して、口を開く。
「君が…その…一緒にね、寝た女の人、いるだろ…あの子と、ホテルで…」
「一発ヤッたんやろ? そこはまあ…ええけど」
「やっ、やって、ないってば! そもそも、やれないんだから! 僕…僕は、だって…」
「…不能か?」
「ちっがーう!」
見当違いのウルフウッドの発言に僕は息を切らして答える。僕がここまで取り乱しているのがウルフウッドは全く理解できないからだろう、頭上に疑問符が見えるかのような表情を浮かべていた。
仕方ない、と思った。もうここまで来たら説明するしかない。これを隠し通すことはもう不可能だ。彼から逃げ回るのも、正直辛い。
「…信じろ、よ」
ベッドから立ち上がり、ウルフウッドから少し離れた位置に立つ。外から見えないように窓にカーテンを掛けた、緊張で鼓動が早くなる。震える手を首元に添えた。大丈夫、大丈夫だ。なんて事のないように説明すれば、ウルフウッドだって受け入れてくれるはず、だと思った。
一番上の留め具から順番に外していく。ぱちん、ぱちんと小さな音が淡々と部屋に響いた。ウルフウッドの視線が分かりやすくそこに注目する。ただの知らない男に裸を晒すのはなんて事ないが、ウルフウッドとなれば話は変わる。そこでふと、とある記憶を思い出した。
それはリィナとシェイルばあちゃんと三人で暮らしていた時。フィフス・ムーン事件の二年後、目の前の男が自分を見つけ出したあの日。確か自分は裸に、なった。いや、裸どころか犬の真似事をした。よく確認していなかったが病院で裸を見られているのではないか。もし今の己の行動が全くの無駄で、もう周知の事実だとしたら。それってものすごく恥ずかしい。しかし頭を抱える僕と違って、ウルフウッドは固唾を飲んでこちらを見ていた。
「…僕の本来の性別は女性に分類されていて」
「……は?」
するりするりと布を取っ払っていく。ばさばさと床に赤が散らばっていく。趣味の悪いストリップショーを演じているみたいだ。もちろん、そう思っているのは僕だけだろう。身に纏うものがなにも無くなると詰まっていた呼吸が少し楽になった。ウルフウッドの痛いくらいの視線を無視して息を吐く。
「あと子宮も存在してて」
「……ちょお待ってや」
自ずと手が臍の下を撫でる。この肉の下に、形だけを真似た子宮がある。自嘲の笑いが溢れる、きょうだいのように何か生み出す力もない僕。かと言って子供を作る気なんて毛頭ないのだが、それならいっそのこと出した方がいいのかもしれない。
手のひらを肌の上に滑らすと赤く色づいた箇所が見つけられた。その赤をなぞれば何の跡かは明白だった。
「色々と面倒だから男として生きてるんだけど、あ、これお前のせいだろ」
「〜っ、一回黙ってくれんか あと脱いだままでいるのやめい!」
椅子から勢いよく立ち上がり、着ていたジャケットを投げつけられる。頭に被せられたそれを大人しく羽織ると、ウルフウッドは舌打ちをしながら前のボタンを全て掛けてくれた。なるほど、ここまでしなければご期待に応えたことにならなかったのか。
少し余った袖を眺めてぷらぷらと眼前で振る。ウルフウッドは目を抑えながら僕の背後にあるベッドに腰掛けた。サングラスを外すと、困惑、それと少し熱を感じる瞳と視線が絡まった。どき、と心臓が締め付けられる。
「えと…ウルフウッド? どうかした?」
「……ワイは今猛烈に混乱しとる」
「それは……まあ、そうだろうね」
ウルフウッドの隣に腰掛け、彼の横顔を盗み見る。特徴的な鷲鼻を視線で撫でた。あぁ、ウルフウッドだなぁ、ただそう思った。本当は指を伸ばして触れたかったが、そこまで高望みはできない。小さく笑いを溢すとウルフウッドの怪訝な視線が向けられてしまった。逃げるように咳払いをする。
つまり逃げたのは君の様子があまりにおかしかったから、ということを少し早口で説明をする。僕が君を好き、ということは伏せて。ウルフウッドは聞きながら呆然としたり、ため息をついたりと忙しないリアクションを取った。
ようやく説明を終えると、部屋には静寂が満ちた。膝の上で手を組んで、彼の言葉を待った。数分の間を置いてウルフウッドの口が開いた。
「…嫌んなる」
ぽつり、と零れたウルフウッドの言葉に疑問を返す前に、更に彼の声が続く。
「オドレが女って分かった瞬間、あぁワイにもチャンスはあるんやなあ、って思ってまう自分が…」
「え?」
「な、臆病モンやろ、男のお前じゃ手ェ出せへんってのたまうんやで」
…ん? どういうこと?
「手を、出す?」
「まあ…別に男でもええから食ったろとは何回も思ったけどなあ」
…食ったろ? …え? んん? ちょっと、ウルフウッドの言っている言葉の意味がよく分からない。
「……僕は、食べられないよ?」
「んなテンプレな聞き方あるか? セックスの話やがな」
セックス、性行為、性欲に基づいた行為。それはもちろん知ってる。人間同士が行う繁殖のための行いだ。それがどうして今出てくるのか。え、もしかして、嘘、ウルフウッド、もし、かして、あ、え、僕と。
「…せっ、〜〜〜っ あ、わ、ま、な…」
「なんつー反応や…」
どんどん熱くなる顔をそのままにゆっくりとウルフウッドの方へと向けた。驚きで見開いた目でウルフウッドの表情を見る。困ったように眉を下げながらも、その表情は楽しげだった。ウルフウッドの目が細められて、まるで、まるで…なにを見るようだと言ったら良いのだろう。分からない、答えが出ない。
いや答えは知っていた。ただそれを認める勇気が無いだけだった。まさか、そんな、ウルフウッドが僕のことを。信じられない、という気持ちが心を占領している。
「……手、出したかったのかよ」
「そら…白状してええんか」
「別に…もう今更、でしょ」
「……出したかった、近寄る男も女も全員ブン殴って、壁のうっすい部屋で、コイツはワイのモンやって、主張したかったわ」
「んな、な、な…っ!」
ギシ、とベッドが鳴いた。音の正体はウルフウッドが体を動かした時に生じたものだった。ウルフウッドの手が僕の肩を押してゆっくりとベッドに押し倒されるのを、声を上げることも体を震わすこともなく受け入れた。頭を守るよう、頸に添えられたウルフウッドのごつごつとした指の存在を実感する度に、ぼんぼん、とまるで爆発するかのように脳が茹っていく。
数週間前はこの指で触ってもらう幻想を抱いていた。頸を触られただけでこの有様じゃ、あの妄想のようには上手くいかないことが一瞬で理解できた。まずい、こんな手で腰とかむ、胸とか触られたら。僕、気絶しちゃうかもしれない。それぐらいウルフウッドの手は、僕と違う。
「目印の赤脱がせてな、真っ裸になったオドレがワイの下で泣きながらよがるん、なんべん想像したと思う?」
「し、るかよ…そんなこと…」
「せやな、知らんでええ」
さらりと言い放つウルフウッドの目が僕の目を見つめていた。まるで、信じてくれというような黒い瞳。そのウルフウッドの瞳に僕だけが映っている、僕だけを、ウルフウッドが見ている。
その事実だけで心臓がぎゅうっと、痛くなった。耐えていた感情が、必死に堰き止めていた想いが、溢れてしまう。
「…簡単に、っ勝手に、言いやがって…っ」
目尻から水が出た。小さな水を皮切りに、ぽろぽろと僕の頬を流れる。鼻の奥がつんと痛み、ウルフウッドがぼやける。やだ、もっと見てたいのに。目が赤くなるなんて気にもせず、溢れ出る涙と共に目元を擦った。滲んでいた視界が多少マシになると、驚いた顔の、間抜け面のウルフウッドが見えた。
「僕が、どれだけ、っ、ふ、ぅぐっ…えっ、えう…っ」
「あー! あー! ワイが悪かった、悪かったから! 泣くなや、もー…」
涙が溢れて止まらない。呼吸が乱れて上手く言葉が出ない、熱い水がひっきりなしに流れて、シーツに染みていく。そんな僕の様子にウルフウッドは慌てて涙を拭うために頬に手が添えられた。優しく涙を撫でるウルフウッドの指の動きを肌で感じる。暖かく、ただ僕を慰めてくれる。
「好きだ」
涙と一緒で、溢れ出た言葉は止まらない。でも、もういいや。いいよな、ウルフウッド、僕が男だろうとセックスしても良い、って思ってくれたんだもんな。ウルフウッドがあんな大胆な告白をしてくれたんだから、僕だって、何か言わないと。
おかしくなってしまった思考回路を止める術はもちろん無く、小さく折りたたんでいた想いがぽろぽろと開き、言葉になる。少しでもウルフウッドに伝わればいいと、僕に触れた彼の手とは反対の手をウルフウッドの頬に添えて目を合わせる。
「絶対、お前じゃなきゃ、やだ、嫌なのに、だけど、どうしよう、怖い、大好きなのに」
ウルフウッドの目が徐々に、愛おしげに細められる。切れ長の瞳が閉じると、ウルフウッドは僕の手を握り、そのまま隣に寝転がった。シングルサイズのベッドは大人二人が寝るにはだいぶ狭く、落ちないように僕もウルフウッドも横向きに寝た。目が合うと柔らかく微笑むウルフウッドにまだ慣れなくて、視線が右往左往してしまう。
「…ほんま、世話のかかるやっちゃで」
彼の手は僕の手を包み込むように握っている。たったそれだけで、涙は緩やかに止まり、乱れていた呼吸も落ち着いた。
「怖いんは、ワイにはどうもできへん、ただの人間やからな」
なんて事ないように、ウルフウッドは言う。少しだけ歪んだ眉が見える。
「きっとオドレに傷を残す、こんなんよりもっとひどいもんを」
彼の手が肌に残った傷跡や手術痕を服の上から優しく触れる。一つ一つが見えているかのように触れてくるウルフウッドの手が無性に嬉しくて、この時ばかりは己の体が嫌だと思えなかった。
「…けど、だからって諦められん」
「ウルフウッド…?」
「口先だけじゃ信用できんやろし」
ウルフウッドの表情がよりいっそう柔らかくなる。妙案でも思いついたかのように明るい声色で彼は話し始めた。
「とりあえず今日は、怖いのなんとかしよか」
「う、うん…? でも、どうやって…」
あら? なんだか、雲行きが怪しいような。
「トンガリはどうしたらええと思う?」
「えっ あ、う、うーん、と…えぇ?」
突然の問いかけに驚いて口がもつれる。怖いのをどうにかするなんて、そうそう出来ることじゃない。きっとそれを理解しながらも彼は僕のために行動しようとしてくれている。そう考えてくれるだけで、もうとてつもなく嬉しい。だから、期待してしまう。ウルフウッドが、僕の提案を受け入れてくれるかもしれない、という現実を。
「…く、っついて、寝るとか…?」
「ん、ほんなら、それしてみよか」
それは、あの日の夜、彼女から苦言を呈された行い。前から抱き合って、包み込むように腕を回して相手の体温を感じる行い、それをウルフウッドとしてみたくなった。正面から抱き合った彼の体温、体の硬さや厚み、確かに生きてここにいることを実感できる。それが出来るから、ウルフウッドとハグがしたいと思った。いつか必ず、僕より先に死んでしまう者の生をこの手で、体全てで感じられる。いつか記憶の中でしか会えない者になる前に、刻みつけて欲しかった。思い出すなんてことの無いように。一瞬でも忘れることの無いように。
そんなことを考えているとバレないようにウルフウッドを見る。ウルフウッドが広げた腕の中はとても魅力的に見えた。贅沢にも数秒迷った後に、彼の腕の中に忍び込む。ゆっくり、だけど少しだけ彼の肌に触れないように。胸の前で腕を組み、体を縮こまらせる。ウルフウッドの香りしかしないこの狭い空間で、すでに余裕のない僕はウルフウッドの手が今どのように動いているのかさえ分からなかった。
布の擦れる音がしたと思ったら強い力で押され、気付けば目の前にはウルフウッドの首元があった。瞬時に理解した、ウルフウッドが背中に回した片腕を使い、僕を抱き締めたのだ。今まで想像でしか無かった感触を不意に突きつけられて、僕は狼狽するしか無かった。
「うっ、あ、うぅ…」
「…なんや、かわええ声出してぇ」
それはまるで、昔アーカイブで見た恋愛映画のようだった。レムやナイブズに隠れて一人で鑑賞しては、胸を高鳴らせていた。結局その一人だけの秘密は六回目の鑑賞を始めようとしていたところ、レムにだけ見つかってしまった。何故か悪いことをしていた気持ちになってしまった僕は羞恥心から焦って少ない言い訳を並べた。そんな僕を見ていたレムは画面をじっと見つめていたと思っていたら『あー!』と大きな声をあげた。驚いて固まった僕にレムはやけに嬉しそうに語り始めた。どうやら僕が見ていた映画はレムも昔好んで見ていたものらしい、久しぶりに見て思い出すのに時間がかかったわ、と笑いながらレムは言う。そこからは二人でここが良い、あのシーンが好き、と二人で語り合った。
引っ張られて今と関係ないことをたくさん思い出してしまった。何が言いたいかというと、先ほどからウルフウッドの仕草に心臓がバクバク、鼓動が早くなってしょうがないのだ。それもそのはず、好いた存在に抱きしめられて頬を撫でられるなんて、少し前の僕に説明したって「大丈夫?」「変なもの食べた?」と言われてしまうだろう。生憎とここ数週間は少食で、変わったものを食べる余裕すら無かったと思う。
またいらないことを考えてしまった。はっと意識を目の前に戻すとウルフウッドがじい、とこちらを覗いていた。なんだ、なんだろう。あんまり見ないでほしい。お前さ、かっこいいんだから、そんなお前に見られてると変なとこないかな、とかどんどん恥ずかしくなって赤くなっちゃうんだから。ほら、現に今も顔が熱くて仕方がない。
「…なあ、触ってもええか」
「……う、ん」
少し熱を帯びたウルフウッドの声が体をなぞり、溶けていく。間近で見つめられ、断れるはずもなかった。頬に触れていた無骨な手が下へ移動する。首筋を撫で肩に触れる、それだけで身体中に刻まれた傷が疼いた。
「ひゃっ…」
「…大丈夫か」
「あっ、あ……うん、ごめ、ん…」
「謝らんでええから、楽にしとき」
ぐるん、と仰向けに転がされる。え、と呆けてる間にウルフウッドが僕に覆い被さった。僕を見下ろすウルフウッドの瞳には分かりやすく欲が灯っている。そんな視線を向けられただけで体は震え、背筋から首にかけて走る未知の感覚に僕はただ翻弄されるしかなかった。
熱かった。ただひたすら熱い体を自分ではどうすることもできずウルフウッドに助けてもらうしか手段は他に無かった。額や口の横にキスをしてくれるウルフウッドの腕になるべく優しく手を添えると、ぴたりと彼の動きが止まった。こちらの意図を汲み取ってくれたようで少しだけ顔の距離が離れる。ウルフウッドの顔が遠くなる一瞬、唇にかざる彼の吐息で全身が震えた。
「ん…ふ、ぁ……あ…のさ…え、っち、する…?」
「……いや、今日はやめとく、その代わり」
「ひ、あぁ…っ」
「めいっぱい、触らせてくれや、お前のこと」
長い沈黙の後、返ってきた拒否の言葉に少なからず驚く。女ならウルフウッドの熱を存分に味わえるだろうと愚かにも考えていた自分が恥ずかしい。なんで、と視線で訴えると子供に言い聞かすようにウルフウッドは微笑みを零した。少し動いて彼の鼻頭と僕の鼻頭がくっついた。動物がするような可愛らしい仕草に乗って、彼の香りに包まれる。
「なあ、ヴァッシュ」
「あ…っ!」
縋るような声が身体中に響く。肩にウルフウッドの顎が置かれて彼の唇の動きが肌に伝わってこそばゆい。他の人間より鋭い犬歯、少しだけ生えた髭。体全体でウルフウッドを構成するものを感じて、どこか深い場所に沈んでいくような感覚がした。怖くなって彼のシャツを強く握る。それを一瞥したウルフウッドの手がジャケットの裾から内側に入ってくる。
「もう、どこにも行かんでくれ」
「あ、あぁ……っ」
普段の彼からは考えられないような、弱々しい声が聞こえた。じっとりと濡れた肌の上をウルフウッドの指が走る。見られていないはずなのに、恥ずかしくて情けない声が出てしまう。そんなこと言ったらだいぶ前から情けない声を出し、情けない表情を浮かべているに違いなかった。
そんな僕の反応を見たからなのか、ふ、と笑う彼の吐息が首にかかる。急に今の格好が恥ずかしくなり、素肌を少しでも隠せるようにジャケットの裾を伸ばす。
「ホンマ、肝冷えたわ、あんなん、もう勘弁やで」
「あ、ごめ、ウルフ、あ、ぁ…っ、ウルフ、ウッド…っ」
謝るのはだめだ、彼は悲しそうな顔をしてしまう。違う、違う言葉を言わなきゃ。
探してくれて、ありがとう。また僕を見つけてくれて、ありがとう。そう伝えたいのに、嬉しい気持ちばかりが先行して涙が出てしまう。そのせいで鼻水も出てしまい、もはや他人に見せられる顔をしていない。鼻水をすする音がしてもウルフウッドが特に気にする様子はなかった。
「腰が細すぎて心配や」
「ひ、あ…っ、な、なんで…心配…?」
彼の手がそっと腰を掴む。普段の力任せな戦い方を見ているから彼の繊細な動きを見ると、少し不安になる。僕、なにかしてしまっただろうか、と。思い返してもどれが彼の気分を阻害したか、思い当たる節が多すぎる。
「ちゃ、ちゃんと立ち回れてる、よな…?」
「ん? …あぁ、ちゃうちゃう、そういう意味やなくて」
「ん、ん…?」
あー、とかうー、とか歯切れ悪そうにウルフウッドは唸っている。少し顔が離れて、二人の間に溜まっていた熱い空気が散る。ほっと息をつくと彼の手が服の上から僕の腰を掴んだ。ウルフウッドが僕の腰を掴むその様にあまり人様には言えない、良くない想像が頭をよぎった。
「ワイの挿れて、揺さぶったら折れてまいそう」
「んなっ…!」
あまりにも明け透けな物言いに呆れて言葉も出ない。挿れただけで腰が折れるわけなんて有り得ない、彼も本気で言ってる訳ではないとは分かっている。だがここまで言われて、こんなに昂らされてそんな言い方をする彼に、もう我慢ができなかった。怒る気持ちと、ウルフウッドも僕と同じこと想像したんだ、と嬉しい気持ちが混ざった。
「おっ、まえさあ! ヤリたいなら、い、いれればいいだ、ろ」
「はあ?」
「さ、さっ、さっきから、その、いろんなとこ舐めるし、挿れるとか言うし、な、なんだよぉ」
大きな声は部屋に響き、隣部屋からの叱咤に怯えたが反応が無かったことに安堵する。ウルフウッドを見れば彼はなにかを考えながら僕を見つめていた。相変わらず手は腰を掴んだまま、力が少しだけ弱まる。
「さっきから思っとったが、なんや、その処女みたいな反応」
「しょ! しょっ…処女っ、です…けど……」
「………はあ?」
僕の答えにウルフウッドの低い声が更に低くなる。ひく、と喉が引きつった。聞いたことの無いウルフウッドの声色に驚いて何も言えないでいると、彼は己を落ち着かせるように目を閉じて深呼吸をした。彼の足に挟まれた己の両足の膝を擦り付けるように動かせば、ウルフウッドは片目で僕を見下ろした。
「…ほんまかい」
「う、うう嘘つけるかぁこんなことで!」
なんて不躾な返答だろう。信じられない。君は言われて嫌なことは人に言ってはいけないと習わなかったのだろうか。童貞かどうか人に聞かれたら嫌な気持ちにならないのか。…ならないんだろう、だって彼は童貞では無いのだから。さも当たり前のように『はい、違いますけど』とか抜かしやがるんだろう。
泣き叫ぶ勢いで言う僕に対して、ウルフウッドの表情が一変する。やけに嬉しそうな表情をしていた。
「…なら、なおさらヤれんくなったわ」
その声に、肌が粟立つ。僕が普段食べているドーナツなんかより、もっとずっと甘くてどろどろとした、欲に塗れた声。
「初夜はもっとロマンチックにいきたいもんなぁ」
「しょっ!」
初夜。何言ってんだこいつ、何言ってんだこいつ。からかうような言い方はやめろ、とか。本気でそんなこと思ってるのか、とか言ってやりたいことは山ほどあった。なのに。
下腹部がきゅう、と蠢いた。機能しないはずの子を宿す器官が疼いた。そんな状態になるのは初めてで、混乱してしまう。どうすればいいのか、分からない。目をしばたたかせていると、ウルフウッドの目と合った。
「…な、今日はこれだけで頼むわ」
「あ、な、う、ああ、わ、ぁ…」
腰を掴んでいたはずの手が上へと移動し、僕の心臓があるであろう場所に手を乗せた。鼓動が早くなっていく。それを隠したい一心でいると、唇にカサついたものが押し当てられる。可愛らしいリップ音の後に真一文字に引かれた僕の唇をウルフウッドの舌がつついた。これから感じるであろう感覚に震えながら唇を開くとゆっくりと彼の舌が口内へと侵入してきた。
初めてのキスも、初めてのディープキスも、ウルフウッドにされるとは思いもよらなかった。閉じそうになる瞼をなんとか頑張って開く。誰が僕に触れ、キスをしているのかよく見ていたかったからだ。瞳に獰猛な欲を宿しながら僕に乱暴しないよう、堪えている彼が愛おしくて。
愛、しても良いのだろうか。こんな想いを、彼に触れさせても良いのだろうか、と思ってしまう。散々隠していたものが、今まさに溢れようとしていた。
「はっ、んぅ…あ、ぁ…ふ、っ…」
「…あー、もう、アカンて…」
「ふ、あ…? なん、なに…なに、が、あかん…?」
ウルフウッドの口調を真似て疑問を言葉にする。口から力なくはみ出した舌を吸われて、少しパニックになった。そんな僕の心を知ってか知らずか、すぐウルフウッドの口は離れていく。舌先が痺れたのは一瞬ですぐさま舌を引っ込める。
「あ、うぅ…」
「……かわええなあ、ヴァッシュ」
「っひ、やぁ…っ」
耳にウルフウッドの声が流れ、首筋にウルフウッドの鼻が擦り付けられる。嗅がれてる。今、僕の匂いがウルフウッドだけに。
分かっていたはずの事実を突きつけられ、いよいよ僕は物事の処理の許容量を超えてしまった。
「み、みみ…」
「耳?」
何もわかっていないウルフウッドの表情に苛立ちが募る。たったそれだけで僕の感情を爆発させた。
「見るなっ! この馬鹿ーっ!」
「んがっ!」
ウルフウッドの目に居た堪れなくなった僕は、彼の頭を両手で掴んで胸に抱えた。呼吸がしづらそうとか、好いた人間の頭を胸に当てるとか、非常識なことは分かっているがこれしか方法が思いつかなかった。彼の手がもがく様に空を切った。
「もうおしまい! は、はやく寝よ!」
「もががが」
ウルフウッドの抵抗する声を聞きながらも、あえてそれを無視して瞳を閉じる。意識が微睡んでくると、腕の中のウルフウッドも静かになっていった。
明日だ、積もる話は明日しよう。今日も疲れた、色々なことが起きたから。ウルフウッドから逃げる毎日は辛く、今彼に捕まって喜ばしいと思う自分の変化に驚くばかりだ。意識が落ちそうになる中、彼の頭をゆっくりと撫ぜた。黒い髪が流れる様を眠る瞬間まで見つめていた。
「っ…嘘やろ、ホンマに寝とる…」
ヴァッシュの胸に埋もれていたウルフウッドが起き上がる頃には、胸の持ち主の彼女はすっかり眠り込んでいた。普段逆立っている髪はところどころ崩れており、あどけない寝顔をより幼くさせていた。
先程まで彼の手に翻弄されていたせいか肌は少しだけ汗ばんでおり、ウルフウッドの煩悩が舐めたい、と囁く。しかし手を使って体を撫でただけであの反応だ、どうせならあれよりももっと激しい反応を見ていたい、と考え邪な想いを落ち着かせた。
「まあ…ええか、これはこれで役得やろ…」
薄くはあるが確かに感じる柔らかさにほくそ笑みながらウルフウッドも瞼を下ろし、呼吸を落ち着かせた。硝煙と血と、それに混じって神経に届くヴァッシュの香り。ようやくこの手で捕えることができた喜びを噛み締めながら眠った。
朝、目が覚めたヴァッシュはウルフウッドとのあまりにも近い距離感に驚き、反射的なスピードで拳を握り、彼の頬を思いっきり殴ってしまった。寝ていた彼がその拳を避けられる訳もなく無情にも『なんでや!』と叫んだ声が長閑な村にただ響いた。
「トンガリ〜またあれで寝させてくれ〜」
「い、や、だ!」
「えぇ〜、いじわる言わんといてぇな〜」
「ぜえってぇ、やだ! かわい子ぶんな!」
バイクの整備をしながら男は世間話のように軽い調子で話す。傍らに立ったまま、手持ち無沙汰の男───にも見える女が喝を入れるかのように厳しい口調で答えていた。
今朝、彼の頬に刻まれたはずの赤い痕はまるで最初から無かったかのように消えていた。真っ当な人間では決して手に入れることの出来ない彼の力を彼女は少なからず理解していた。それこそ、シップでの戦いを終えた後から。ウルフウッドの後頭部を見下ろしながらヴァッシュは何も追及しなかった。
昨夜、想いが通じ合ったはずの二人であったが彼と彼女の関係性に明確な変化は生まれなかった。しかし両者共に外側では完璧な旅の同行者を演じているつもりであったが、カップルのような痴話喧嘩を繰り広げていることに二人は気付いていない。現に通行人から微笑ましい視線を向けられていたが、お互いに夢中な二人が気付くことは無かった。
片やプラント百五十年目の家族愛しか知らなかった者と、片や外見年齢だけを重ねた恋愛初心者の本命童貞である。最早昨日の夜、口付けまで進んだのが奇跡であった。現に、二人の会話はまるで幼い子供のような調子でされていた。
「じゃあ、腕枕と交換はどや」
「……」
「今なら膝枕も付けたる」
「お前の太もも硬いから却下」
よくよく聞けば会話の内容も恋人同士がするにはどこか色気が足りない。ヴァッシュの胸で抱いて寝る代わりに、ウルフウッドは己を売り出している最中なのだが、彼女にはまるで響いていない、ように見えた。しかしウルフウッドの口から腕枕、と出た一瞬、『…ちょっと良いな』という表情に変化したことを気付く者はいなかった。
彼女の拒否の言葉の後、ウルフウッドは肩を落とし、まるで捨てられた子犬のような表情をしていた、とはヴァッシュだけの感想だ。内心、ウルフウッドはこの顔で絆されてくれと打算なことを考えていた。彼がそんなことを考えているとは露知らず、彼女はうんうんと腕を組んだり首を傾げたり、唸って悩んでいた。そんなヴァッシュの様子をウルフウッドは眺めながら笑いを堪えるのを我慢する。静かにお行儀よく彼女の答えを待っていると、目元をじんわり赤くしたヴァッシュが小さく呟いた。
「……抱き着いて寝てもいいなら…許す」
地面を見つめ、決してウルフウッドを視界に入れないようにして出された答えを、彼は手を止めることなく聞き届けていた。
「いくらでも付き合うたるわ」
「ほな、行こか」
「うん」
準備を整え、二人は村から発った。バイクの運転は今まで通り、ウルフウッドが務めるがこれまでとの大きな違いはヴァッシュが乗るはずのサイドカーが無いことだ。ヴァッシュはそのことを不思議に思いながらも口にはせず、ウルフウッドの背後に腰を下ろし、ジャケットを纏った彼の腰に腕を回した。もっと近づくように、とウルフウッドに言われ、ぎゅうと力強く抱きしめれば上半身に感じる彼の熱に、ヴァッシュは思わず口端が上がるのを理解しながらふと思った。
この感覚、もしや。彼はとある思惑があって二人乗りにしたのではないだろうか、と。
「……もしかして、君…」
「よぉく捕まっとれよ〜練習みたいなもんやねんから」
「やっ、やっぱりそういう意図か…!」
「ウブでかわええトンガリにはこうやって慣れてもらわな」
「人のこと馬鹿にするな、っうわあ!」
彼女の文句に怯むことなく、ウルフウッドは左ハンドルのレバーを握り、キックレバーを勢いよく蹴った。難なくかかったエンジンに驚き、ヴァッシュは腕の力をより強くする。服の下に隠された、びくともしない彼の体に変に緊張し始めてしまった彼女はそれ以降自ら言葉を喋ることは無かった。ウルフウッドはそんな同行者の反応に気を良くして運転を続けていた。