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    伊波もの

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    伊波もの

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    本編パラレルの葬台

    君とずっと二つでいたい はやく、はやく会いにきて、と彼女たちの声がする。


    『自分の住んでいる村のプラントが赤く染まると“癒しの神様”が現れるらしい。』
     孤児院の食堂に置かれた古ぼけたラジオから、本気で信じていないことが分かる声色でDJの声が響く。誰かが切り忘れたラジオは視聴者もいない静かな部屋で勝手に盛り上がっていた。食事の時間でもない今、食堂にいるのは自分と弟分であるリヴィオだけだ。
     食堂に来たのは、ただの暇つぶしだった。昼食を終え、洗濯物を取り込む手伝いをするにはまだ早い時間であることは時計を見なくとも分かる。外からは共に孤児院に住まう少年少女らの楽しげな声、走り回る足音、ボールが弾む音が聞こえる。のどか、ただその一言に尽きる。
    「癒しの神様、かぁ」
     隣に立っていたはずのリヴィオはいつの間にかラジオのそばに移動しており、流れている音楽と同じリズムで頭を揺らしている。自分は毛ほども興味のないトークテーマだったが、刺さる者には刺さるのだろう。現に彼はDJのわざとらしいほどの恭しい言葉に一喜一憂と忙しない。そんな彼を眺めながらラジオからそう遠くない位置にあるソファに腰を下ろす。
     自分は、神様なんてもの、信じていない。もし神様がいたら、なんて考えたくもない希望を抱いてしまうから。そのもしは生きるための光にもなるが、ある日突然自分を暗い闇の底へと引き摺り込む何かに変貌してしまう。あ、と小さな声をひとつあげて全てが終わってしまう。だから、最初からそんなものは信じない、考えもしない。己の世界に全知全能の神なんてものは必要ない。

     それなのに、あの男は現れてしまった。プラントが真っ赤に輝くあの日に。


     あのラジオが“癒しの神様”の話をしてから、そう日は経たない内にこの町のプラント達が赤く染まり始めていった。噂をすればなんとやらだ。買い物に行った帰り、酒場にいた普段飲んだくれの大人たちが言うには“寿命“が来たのだと。
    「……プラントにも、寿命はあるんやな」
     思わず呟いた言葉は誰の耳にも届かずに消えた。それもそうだ、我々人間はプラントなしではこの砂の世界を生きていけない、弱い生き物。自分たちより強い生き物の生死など、考えたくもないだろう。
     この町のプラント工場は高い丘に位置する孤児院のすぐ近くにある。この騒ぎだ、日中はプラント技師や町のお偉い人間、または野次馬でひしめき合っているため近づくことは叶わなかった。孤児院の中からその群集を眺めること数日、ついに野次馬はいなくなり、あの工場に向かうのはプラント技師ただ一人となった。メラニィおばちゃんに聞いてみれば、早い話、打つ手ナシ、らしい。まるで血が流れるようにプラント達の水槽はどんどん赤へと染まっているようだ。技師も諦めかけているのか日に日に工場への滞在時間は短くなっていった。

     町の人間は早々に見切りをつけ、違う集落へと移り始めていた。半分以上は残っているがそれも時間の問題だろう。町に寄るバスを見て、いつも苦しい気持ちに苛まれる。孤児院にいる子供たちはきっとここから出て、新しい場所へ移り住むことはできない。プラントと同じで朽ちていくのをただ待つばかり、それどころかどこかに売買されるか。
     そんな自暴自棄になっていたからなのか、単に興味本位からか。日が傾いた頃、自分はおばちゃんの目を掻い潜ってプラント工場へと向かった。やけに高鳴る心臓を抑えながら鉄骨でできた階段を駆け上がっていく。ここまで遠かったやろか、と思ったが、プラントを見にいくのはこれが初めてやろがい、と頭の中で嫌に冷静な自分がツッコミを入れる。静かな空間にカン、カン、と自分の足が階段を踏みしめる音だけが響く。ようやく辿り着いたそこには、二つのプラントから漏れる仄暗い赤い光が漂っていた。
     初めて見たプラントの水槽は想像よりも巨大で、自分とは違うその存在感に圧倒されていると、背後からある音が聞こえた。勢いよく振り向く。もちろんそこには誰も、何もいない。だがその音は徐々に大きくなり、その存在を主張していた。たら、と頬に冷や汗が垂れる。隠れようと考えたが何故か足は縛り付けられたようにその場から動かすことができなかった。どうする?最悪…撃たれるかもしれない。そしたらこの真っ赤なプラント達を見ながらお陀仏か。悪く無いな、なんてふざけながらその音の正体を待ち構えていた。
     最初に目に入ってきたのは月の光を受けて輝く金色。その次は真白の肌、オレンジ色のサングラスが重なる青色の目、そして何よりも目立つのは真っ赤なロングコートだった。突如として現れたその人物は相対した人間の緊張感なんてものはいざ知らず、呆けてしまうほどの呑気な声で言葉を紡いだ。
    「君、ここのひと?」


     小さな町に突然現れた赤いコートを纏った人間、男は『ジョン』とおおよそ本名ではないだろう名前を使い、瞬く間に町に馴染んでいった。刈り上げた後頭部だけ暗い色に染まっている男は自らの職業をプラント技師だと名乗り、町長にこの町のプラント達の様子を見させてほしいと頼み込んできた。もう後がない為、それに異議を唱える者は誰一人おらず、最後まで町に残ると声高らかに宣言した老人が苦難の色を示していただけだった。
    「それともう一つ、あ、いや二つ…」
    「正直な話、払える金額は期待しないでくれ」
    「いやいや! お金はいいよ、僕がやりたいだけだから」
    「な、そりゃあ助かるが…二つとは?」
     彼が提案した二つの条件は“眠る場所の提供”と“自分がプラントを見てる間は誰も工場内に入らないでほしい”とのことだった。最初の条件は当然だが、その場にいた全員が首を傾げたのは二つ目の条件だった。とある一人は『結局はよそ者だ、何かしでかそうとしているんじゃないだろうか』と疑惑の目を向け、とある一人は『誰にも見られたくない隠された技術を持っているに違いない』と興奮した面差しでそう語った。…後半は孤児院や町にいる子供たちの総意だ。
     町長はその二つの条件を訝しむことなく承諾し、ジョンは颯爽とプラントがいる工場へと向かっていた。彼を追いかけるべく数十人の子供たちが砂煙をあげながら走る。母やおばちゃんからの叱責する声を受けながら。
    「本当に、来たね…ひと」
    「…なんや、リヴィオはあいつが神様やとでも言うんか」
    「……そう、だったらいいなあとは思うけど、ニコ兄は違うの?」
    「あんなんが神様なわけないやろ」
     神なんて、存在してはならない。あいつがプラントを癒せるはずがない。例え、初めて会ったあの時、人間離れしたような輝きをこの目にしていたとしても。
     しかしそんな自分の意思とは正反対に、あの赤かったプラントは元の綺麗な青色に戻りつつあるらしい。リヴィオから聞いた話だから、どの程度直っているかは詳しく知らないが町の人間の騒がしさから見るにほぼ元通りと考えていいだろう。この町でただ一人、切り離されたみたいな気持ちになった。きっとあの老人はあの時こんな気持ちで、そして今はきっと浮かれた気持ちであの酒盛りに混じっているのだろう。
     自分の気持ちは変わらない、神なんてものはいない。神がプラントを直すものか。
    「あかん…なに考えとるんや…」
     堂々巡りの思考回路を無理矢理切断した、はずなのに未だ頭の中はあの男のことばかり。出会って間もない存在にここまで苛立ちを覚えるのは何故だ?
     結局、その自問の答えはベッドの中に潜り込んで、朝になっても出ることはなかった。



     寝ぼけ眼のまま、ベッドから這い出でる。完全に寝不足だが、いつまでも年長者がベッドに根を張っていてはいけない。体を起こし、普段着に着替える。お下がりの黒いシャツとズボンは最近になって裾を折らなくてもよくなった。自室の扉を開いて食堂に向かう。なるべく足音がしないよう静かに歩いて食堂を覗けば食事当番の子供たちがもう仕事を始めていた。
     挨拶をしながら食堂に入れば次々と明るい声で返ってくる声に安心して自分も朝食の手伝いをする。それに集中していれば時間はあっという間に過ぎる。自分の席について食事を終え、食器を洗っていると隣にリヴィオが並んだ。やけに急いで動く手捌きを不思議だと思い、なんの気無しに声をかける。
    「なんや、えらい楽しそうやな」
    「今日ね! ジョンさんが遊んでくれるんだ、ニコ兄も来る?」
    「…んー」
     脳裏に真っ赤なコートを羽織った男が人の良さげな笑みを浮かべていた。ため息がつきそうになるのを奥歯を柔く合わせることでなんとか耐える。必死に頭を回転させて間を繋ぐ。
    「いや、確か今日はダリルじいさんに呼ばれとるんやったわ、すまんな」
    「えっ、そうだったの?」
     嘘だ。ダリルじいさんは今日も元気に近所の友人たちとゴルフに興じている。だが孤児院から離れたじいさんの家ならリヴィオやジョン、他の子供たちに気付かれる可能性が低いと思った。嘘をついてまで同じ空間にいたくない存在ができるとは思ってもいなかった。
     嘘をついてるとはちっとも思っていないだろう。リヴィオはただこちらを見つめるだけだ。安心させるように笑って言葉を吐き出した。
    「おん、だからワイのことは気にせず、遊んでき」
    「…うん、分かった」
     少しの時間を使ってリヴィは頷いた。玄関から走っていく数人の子供たちに手を振って見送る。それをどこかつまらないと思っている自分がいた。

    「ニコ兄、お客さんだよ」
    「や、こんにちは」
    「………はあ?」
     苛立ちの原因がのほほんと、腑抜けた笑顔を貼り付けて目の前で突っ立っている。思わず踵を返したくなったが自分と正反対の位置、つまりはジョンとかいう奴の傍にいるリヴィオの視線が自身の足をその場に縛り付けていた。
     両者共にニコニコと文字が見えるほどの笑顔で見つめられ、なにも悪いことはしていないのに何故か居た堪れなくなってしまう。彼にそのような意図は決してないのだろうけど、プラント技師から避けていたことを咎められているような気分だった。
    「いきなりごめんね、リヴィオから君の話をよく聞いてたから、会いたくなって」
    「…別に、初対面やないけどな」
     喉から出た声は自分が思っていたよりも硬い音だった。リヴィオだけがその言葉に気付いたようだったが追求されることはなかった。ちょっとの間が場を凍らせる前にわざとらしいほどの明るい声で空気を変えた。生憎と空気を読むのは特技の一つだった。
    「ほんで、用件はなんや?」
    「えっと、その」
    「良ければこの町のことを聞かせてくれないかい? 工場に篭もりっぱなしで、町長さんの名前しか知らなくってね」
     そんなん、リヴィオに聞けや、と喉まで出かかった言葉を良い子ちゃんの笑顔のまま、なんとか抑えた。

     そこからはもう流れに身を任せるだけだ。孤児院から始まった町紹介はそのほとんどが必要のないものであった。なにが、町長の名前しか知らない、だ。
     食事処のおばちゃんと笑いながら明日の昼食の約束を取り付けたり、広場の子供と遊んだり。あの柔らかな口元から並べられる名前の数々は自分がこの数年で聞き馴染んだものだった。リヴィオの手を繋いだままの男の前を歩き、最後の家族の紹介をする。町の入り口に一番近いこの家族は旅人が最初に訪れる場所だからか雑貨店を営んでいる。父親、母親、兄と弟の四人家族だ。笑顔で挨拶をすれば全員から元気な挨拶が返ってくる。流石と言うべきか、愛想の良さはピカイチだ。
    「ほな、これでしまいや、ワイは帰るで」
    「え、ニコ兄、もう帰っちゃうの?」
     未だ手を繋いでいる二人を一瞥し、手を振る。頼まれごとはきっちりこなした、これ以上自分がこいつと行動を共にする理由はない、そう結論づけてその場を後にしようとした時。この平穏な町に似つかわしくない、大きな音が聞こえた気がした。

    「───ニコラス!」

     手首を強い力で引かれ、誰かに抱きしめられる。誰に? 視界が一面黒に染まり誰の体に抱き留められているのか確認することも叶わないまま動けずにいると一つの銃声が轟いた。最初はそれが銃声だということに気付かず、近くで何かが崩れたのかと思った。だがその後に男の呻き声が聞こえ、音の正体に気付いた。そして発生源も。周囲のざわめきが耳に入らなかった、呆けたまま見上げるとあいつが───ジョンが、銃を構えたまま前を見据えていた。
    「……大丈夫かい? ニコラス」
    「……おん」
    「リヴィオも、突然ごめんね、腕痛くなかった?」
    「う、うん…ありがとう…ジョンさん」
    「ぁ」
    「え?」
     ジョンの後ろにリヴィオがいるとは思わず、大きな声が出てしまう。もしや、今の見られていたか? 先ほどまであんなツンケンしてたくせにちょっとチンピラから守られただけで大人しくなってしまうなんて、とぐるぐる、いろんな言葉が頭を駆け回る。いや違うねん、あれは違うねん、とにかく違うんや!
     言い訳は声になることなく、顔が熱くなるだけで終わってしまう。そんな自分の様子に首を傾げる二人。そうこうしてる間に保安官が到着し、力を持たない子供を狙った悪烈非道なチンピラは綺麗に縄で縛られ引き摺られるように連れて行かれた。シクシクと涙を零す男をじっと見る。目を、疑った。信じられなかった。慌てるばかりで何も言えないでいる自分に微笑み、優しく手を引くこいつが。一発にしか聞こえなかったあの銃声でチンピラの手から銃を弾き、二発目の銃弾が足の指先のすぐ近くを撃っていた。戦い慣れていない人間だったのだろう、それだけで戦意喪失したのは不幸中の幸いであった。
     もう一度、見上げて男を見つめる。もはやそれは睨みに近い視線の理由に気付いているのか先ほどから眉を下げて微笑むばかりだ、そしてそんな自分たちを心配そうに見つめるリヴィオ。その様子はメラニィおばちゃんが銃声を聞いてこの場に駆けつけるまで続いた。


    「いただきまーす!」
    「いただきます」
    「……いただきます」
     元気な子供たちの声が食堂に響く。自分たちは現在、暴漢から子供らを救ったヒーローで、プラント技師であり凄腕のガンマン・ジョンと食卓を共にしていた。
     あの時、現場にいた人間たちは多くはなかったが決していない訳ではなかった。あの雑貨屋の家族を筆頭に『プラント技師さんが助けてくれたの』『気付いたらあいつ倒れててよ』『撃ったんだから殺されたっておかしくないのに、あの人は優しいんだね』等。賞賛の言葉は瞬く間に広がり、メラニィおばちゃんがそれを聞き逃す訳もなく、本人に会いたい子供達の希望とお礼も兼ねて孤児院に来ているということだ。
     それなのに、何故かジョンはリヴィオと自分の間の席に座っている。もっと違う席に案内するとか、誕生日席に座らせるとかあっただろうになんでわざわざここに、とか聞いたってきっと答えちゃくれない。リヴィオが喜んでいるから良いかと無理矢理納得させる。パスタをフォークで巻きとる、いつもより楽しげな子供らを見るとささくれだった心も落ち着いてしまうのだから自分が簡単な人間であることを実感した。
    「ニコラス、肘っ、顎っ…」
    「んあ? なんやっちゅうねん…」
    「後ろ後ろ…!」
     肘をテーブルに付き、手の平で顎を支えながら食事を進めていると隣の男から小声で注意を受ける。なんだと言うのだ面倒くさい、と本気にせずそのままにしていると背後から頭に重い衝撃が加わった。この痛み、この叩き方、後ろを振り向かなくとも分かる、メラニィおばちゃんである。
    「っ…たぁ!」
    「こぉらニコラス! 行儀悪いよ!」
    「あぁもうだから言ったのに…」
     愛ある鉄拳により、テーブルへと突っ伏した自分にかけられる心配した声。恨みがましい視線を向けたって仕方ないのだが八つ当たりをするには一番適した存在であった。衝撃に耐えきれず手から離れたフォークはジョンの鮮やかな不思議な色の義手に包まれていた。涙目で睨む自分を見て穏やかに微笑むと、生身の手で目の縁を沿う水分をなぞった。
    「はい、フォーク」
    「…もっと大きな声で言ってくれたってええやろ」
    「もう、君がお行儀悪いのがいけないんだろ」
    「…………」
     正しいのはこいつの方だ、だから何も言い返さないで差し出されたフォークを受け取る。隣からの生暖かい視線を感じないように目の前の食事に集中する。そうすればジョンの視線はリヴィオに向き、甲斐甲斐しく世話をし始める。穏やかな時間が流れた。ふと彼の方を盗み見ると、子供より多くよそられたはずの食事は未だに手付かずであった。



    「なんでワイの部屋やねん」
     孤児院の中でも年齢が上の自分にはありがたいことに個室を与えられており、ベッドを一つ置いてもスペースができる広さの部屋である。そのスペースをジョンの寝るところにしよう、と言い出したのは一体誰だったろうか。いや、幼い子らと同じ大きな部屋で寝たらええやん、とか考えれば出るはずの意見は口に出す前に自分の部屋に来客用の簡易ベッドが作られていた。なんで?そしてこいつも何故こうも楽しげにベッドに寝転んでいられるのか。普通、一人で寝たいはずだろう。必死の抵抗をしている自分の方がおかしいのか、と思ってしまう。…ふと振り返って、何故ここまで抵抗するのか、自分でもよく分からない。
    「なんか楽しいなぁ、こんなの久しぶりだからさ」
    「…さいでっか」
     この男、もしかしたら酔っているのかもしれない。ふにゃりと力の抜けた表情が先ほどから腑抜けた笑みばかりを浮かべている。夕食の時に酒でも飲まされたのだろうか?だとしたらこんな男の言葉に付き合う必要性はない、早々にブランケットを被り、彼に背を向け寝る。流石にここまで露骨に『邪魔するな』アピールをすれば話しかけてはこないだろう。そう願ってやけに高鳴る胸を抑えつつ、彼からの反応を待った。
    「あれ、ニコラス…寝ちゃった?」
    先程より小声で放たれる彼の言葉に、作戦が上手くいった喜びを覚える。身動ぎしそうになるのを瞼を強く閉じて耐える。電気を消す音がしたと思っていたら布が擦れる音が聞こえて、ようやくあいつも寝たか、と少し張っていた肩の力が抜ける。しかしその音は想像していたよりも長く続いたかと思ったら自分の背後にジョンの存在を感じた。
     一体なんだと身構えていると、「おやすみ」と言う声と頬に柔らかな感触がした。驚いて目を開けてしまうのを耐え、ジョンが自分のベッドに戻るのを待った。先ほどと似たような音が届き、やがて静かになる。
     なんだ、今の?
     体を少し起こして振り返り、彼を見る。予想通り、瞼を閉じて穏やかに寝息を立てている。確信もなく、自然と彼の口元に視線が吸い寄せられる。ぴっちりとカーテンが閉められた部屋に光源はなく薄暗い空間が広がっていた、だが暗闇に慣れた視界はものを簡単に把握できる。
     薄く開いた口元から微かに空気が吐き出されている、間違いなく男の口元だ。凝視するようなものではない、のに。高鳴る心臓を服を握り締めることで落ち着かせようとした。いくらやっても静かにならない己のエンジンが、壊れてしまったのではないかとあり得ない心配を抱えてしまう。これ以上彼を眺めていたら頭までおかしくなってしまいそうだった。今度はブランケットを頭まで被り、強く瞼を閉じた。
     違う、嬉しくなんかない、ときめいてなんかいない、だってあいつは神様のはずだ、たった一人の人間だけに洗礼や加護なんか与えない、だから、違う、違う、違う! ───そんな必死に否定して、何を恐れているのか? 頭の中の、どこか冷静な自分の言葉がざく、と音を立てて刺さった。



     朝、いつも通りの時間に目が覚めた。隣を見れば昨夜と同じくベッドが置いてあったが、その上で寝ていたはずの存在はいなかった。ほとんどの孤児院の子供が起きていないほど早い時間帯に彼はどこへ行ってしまったのだろうか、と心配になり、そっとベッドから降りて身支度を整える。扉を開けて廊下を見回す、が目的の人物の姿はおろか影すら見当たらない。仕方ない、と未だ眠い眼を擦りながら己を奮起させ廊下に身を滑らせる。キッチンではおばちゃんが朝食の準備をしており、声をかけるのは憚られたが先に行動を起こしたのは彼女の方だった。
    「おはよう、ニコラス」
    「…おはよ、おばちゃん、あんな…」
    「ジョンさんなら談話室にいるよ」
    「…な、なんで…」
     知りたいことを聞く前に出された答えに一瞬目を見張る。おばちゃんは変わらず料理を続けており、自分の表情なんて見えないはずなのにどうして分かってしまうのか。自分の心意が分かったのだろう、おばちゃんの横顔は微笑みながらまた言った。
    「あんた、ジョンさんが来てからソワソワしてたからねぇ、気になってしょうがないんだろうと思ってさ」
    「ソ、ソワソワしてへんわ!」
    「はいはい、ごめんねぇ、あ、ニコラス」
    「……なんや」
     こちらを向いたおばちゃんの顔が、微笑ましいものを見るような柔らかい表情を浮かべているのがなんだかむず痒くて、ついそっけない声になってしまう。そんな自分の様子を気にしていないのか、おばちゃんはパンがいくつか乗った皿二つを押し付けてきた。
    「これはアンタらの分! 一緒に食べてきちゃいなさい」
    「…なんでワイも」
    「話したいことあるんだろう?」
     おばちゃんは事も無げにそう言って、料理を再開していた。あまりにも普通に言うから反応が遅れてしまう。驚きで目を見開く自分を気にする様子はなかった。見透かされ、恥ずかしさから頭をかきながら感謝の言葉を述べる。思っていたよりも小さくなってしまった声がおばちゃんに届いたかはよく、分からなかった。

     長椅子が並んだだけの談話室の扉を開けると、ジョンは一番後ろの長椅子の通路側に腰を下ろしていた。自分が入って来たのは分かっているだろうに、金色の頭が動くことは無かった。真ん中の道を歩き、ジョンの隣に立てば流石にこちらに視線を向けてくる彼をジェスチャーで『横にずれろ』と行動を促す。彼は見慣れた笑顔を浮かべ、横に体を動かした。空いたスペースに勢いよく座り、託された皿の一つを渡す。最初は目をまん丸にしていたジョンであったが、わざと手から力を抜くと慌てて皿を受け取る彼に思わず吹き出してしまう。隣からの不服そうな視線を受けながらパンを食べる。そこから少しだけ無言の時間が続いたが、ふとこの部屋では嗅いだことのない香りが鼻を掠めた。発生源はもちろん、彼だ。
    「なあ、どっか行ってたんか?」
    「え?」
    「なんか、変な匂いするで、なんや…菓子みたいな…」
    「お菓子? プラントの様子は見に行ったけど…」
    「プラント…直ったちゃうんか?」
    「うん、まだ、ちょっと心配でね」
     そう話すジョンの横顔には微かに疲れが見えた。一体何時からプラント工場に向かったのかは分からないが、短時間で終わる作業でも無いだろう。昨日、寝てからすぐに直しにいったのだろうか。気になったが、素直に彼が答えてくれるとは限らなかった。
    「…調子、悪いんか?」
    「…そんな風に見えるかい?」
     あえて主語は付けなかったが上手く伝わったらしい。食べる手を止め、こちらに顔が向けられる。いつもと違って、距離が近い。角度も少しだけ上を向かなくとも見える顔は苦笑いを浮かべていた。
    「ありがとう、ニコラス」
     窓からから入る光が彼の金糸を輝かせる。まるで天使のように、頭上に光の輪を携えているように見えた。
    「僕、頑張って治すから、君達のために」
     呟いた言葉は、まるで懺悔のような響きを伴っていた。


    「ジョン、電気消すで」
    「……」
     昨日と同じく、ジョンは自分の部屋で寝る。談話室での話のあと彼は町長に会いに行き、現時点でのプラントの事情を説明しに行っていた。『あと一基が不安定なのでもう少しだけ滞在させてほしい』と伝えたようで、町長はもちろんと了承していた。まあ、断るはずも無い。馬鹿高い修理費がかかることもなければ、直したお礼に修理費以上の金銭を強請られることのないジョンを邪険にする必要性はどこにも無かった。
     その後も彼はプラント工場に篭もりっぱなしで、その姿を見せたのは夕食が終わってすぐだった。孤児院の子供たちは朝から見当たらなかった彼の姿を見ることができて大いにはしゃぎ、なかなかベッドに入ろうとせずそれはもう大変だった。
     ようやく騒ぎが落ち着き、寝る準備が終わる頃には二人とも疲れ果て倒れるようにベッドへと寝転がっていた。そのまま寝落ちせずにいられたのは彼の存在があったからだろう。だが早朝から動いていた彼は限界だったようで、壁掛けのフックにコートをかけた後サングラスをしたまま寝落ちていた。
    「ジョーン…」
     わざわざ起こすのは忍びなくて小さな声を出す、もちろん返ってくる言葉はおろか音すらない。ゆっくりと起こさないように近づいてサングラスに指をかける。かちゃ、と音を立て外し、サイドテーブルに置く。開いたままのカーテンを閉めるため、ベッドから立ち上がる。カーテンに触れ、ふと隣を見る。すぐ、後悔した。
     月夜に照らされるこいつの首筋から、目が離せなかった。心臓は高鳴り、口内に唾液が溢れる。甘い香りが、した。おかしいんかな、ワイ。こいつ、見とると、目が離せなくなって、むかついて、ぐちゃぐちゃにされて、美味そうに見えて、早く、はやく───。
    「ッ、い、た………ニコラス…?」
    「あっ…ちが、なんで…」
     痛がらせてしまった、起こしてしまった、自分の行動のせいで。サングラスを外したジョンの瞳に青ざめた顔の自分が映る。体を起こし、彼から距離を取る、ジョンは未だ寝惚けているようだが次第に意識がはっきりし、その目が青々と輝く。自分を追うように彼も体を起こす、いつものサングラスと赤いコートを身につけていない彼は何故だか弱々しく見えた。
    「…ほら、おいで、ニコラス」
    「…聞かへんの、なんで…」
    「君の表情を見れば、分かるよ」
     それは、一体どこまで?自分でもどうしてこんな事をしてしまったのかよく分からない。理由は分かれど原因は分からない。こいつが美味しそうに見えたのは何故だ、どうしてそう感じた。分からないけど、分からないから行動に出てしまった。己の中で燻る疑問を本人にぶつけることで無理矢理解決してしまいたかった。結局、そんなこと叶うわけもなかった。
     上半身を起こしたジョンは右手を差し出し、自分が彼の腕の中へと移動するのを待っていた。どうしてそんな幼子のような扱いを受けなければいけないのかと不満足な気持ちだったが期待の眼差しを受け、数秒悩んだあと彼の隣へと寝転がる。動き回り、ブランケットを被る自分の様子に、ジョンはただ微笑み、彼も同じくして布に包まれた。中は程よく暖かく、冷えた体にはちょうど良かった。
     ベッドの上で見つめ合う二人、自分は罪悪感から来る緊張を抱えながら、男がなにを言うのか待ち構えていた。視線があっちこっちに飛ぶ自分を彼は極めて穏やかな表情で見つめていたのに気付くのは意識がだいぶ微睡んでからだった。
    「なんだか…オオカミみたいだね、君」
    「おお、かみ?」
     聞いたことのない名称を繰り返し口にすると、ジョンはそのオオカミ、とやらの説明を始めた。こうしてみると彼はプラント以外にも詳しく、まるでそのものを見てきたかのように説明をしている。
    「地球にいた生物でね、君みたいに鋭い牙を持ってて…犬の祖先、みたいな生き物なんだ」
    「それって……ドーブツ扱いやんけっ」
    「あいてっ、もう、すぐ殴っちゃだめじゃないか」
     軽く相手の体を叩くと柔らかな声が体に沁み渡る。こうして軽く触っただけでも弱弱しく見えた優男の体はあの動きに釣り合う体格をしていたことが分かる。それと、一瞬だけ感じた硬い、皮膚では無い何らかが彼の体に張り付いていることも。
     ───こんな、優しい奴なのに、傷を負わされたことがあるのか。睡魔に支配された脳は普段の自分では考えないようなことを浮かべてしまう。
    「ニコラス、もう、寝よう?」
    「…ん…」
    「おやすみ」
     そう呟かれたのと同時に近づく彼の体、そして頬に触れる柔らかいもの。昨夜知ってしまった感触に一瞬で目が覚める。突然開いた視界には少しだけ驚いた表情のジョンがいた。自分の一挙一動にどれだけ自分が揺さぶられているかなんて、知りもしない男の顔に苛ついてしまう。思わず舌を打ちそうになるのを、奥歯を強く噛み締めることで耐える。
    「昨日も、なんで、こんなこと」
    「やっぱり、起きてたかあ」
    「…質問に答えろや」
     なんてことないように答える彼に苛立ちは更に募る。もう一回噛んでやろうか、と思いながら睨んでもまるで効果は無い。むしろ何故だか微笑みさえ浮かべていた。ジョンの変わらない余裕が己を暴走させた。
    「誰にでも、するんやろ、あーいうこと」
    「え、ええ? なんか悪いことしたみたいだなぁ、ただのおやすみ前のキスだよ」
    「なら、ワイもしてええんか」
     ベッドの中でジョンの胸ぐらを掴み、体を上へと滑らせる。彼の動きがゆっくりと動いたように見えた。両方の瞼を閉じて口は少しだけ開いている。赤く熟れた肉が見えただけで頭が沸騰した。感情に任せて唇を近付けたとき、先程自分が噛んだ痕が見えた。何を思ったのか、その痕の上にくちびるを落とした。やはり、甘い香りがした。
    「…クソ、もう寝る!」
     ブランケットを頭まで被って布の中へと逃げ込む。これ以上はもう喋らない、という姿勢の表れだ。それを正直に受け取ってくれたらしく、ジョンからはなんの反応もない。ただ小さな困惑する声だけが耳に届いた。
    「…え、えぇ〜…?」


     ───今日は、絶対入っちゃだめだからね。
    朝食を食べた後、ジョンがそう声を掛けてきた。おそらくプラント工場についてだろう、あれからたまに工場に忍び込んでいることは彼には丸わかりだったらしい。何も言い返せない自分の様子を肯定と受け取ったのか彼は颯爽と孤児院から出て行った。食器を洗いながら、そんな彼の言葉を反芻していた。
     …別に返事してないしなぁ。あいつが勝手に勘違いしただけやもん、ワイまだ「おん」の一言も言わなかったし、返事待たんあいつが悪いなぁ、うんうん、そうやそうや。いつの間にか脳内に増えたもう一人の自分が合いの手を入れる。
    「…ニコ兄、なんか悪巧み考えてる?」
    「シツレーなこと言いなや、悪巧みやあらへん」
    そう、悪巧みではない。プラント工場に行くれっきとした用事を作るため、これから町を奔走する。そのルートを考えているだけであった。まずは町長のところだろうか、やはり権力に適うものはなかなか無い。そうと決まれば食器を早く片付けてしまおう、と普段よりも意気込んでスポンジを握った。

     あれから一時間、町長から始まった用件づくりは町の端から端までに及んだ。町長からは『お金の代わりと言ってはなんだが』と大量の携帯食を、広場にいた子供たちから『遊んでくれたお返し』とドーナツ一つ、酒場のオッサンから『寂しい一人旅のお供にしな』と明らかにやらしい雑誌、これは捨てておいた。なんか、無縁そうだし、というか仮にも子供の自分に託すものではない。旅人ということも考慮してか食べ物の贈り物が多く、プラント工場に着く頃にはもう膝が笑うぐらいへとへとになってしまい、転ばないようにすることだけを気を付けていた。
     鉄骨を踏みしめる高い音が響く、きっともう気付いているだろうに咎める声はいつになっても聞こえない。このままではプラントの水槽が並ぶ場所まで辿り着いてしまう。本当に、良いのか?と漠然とした疑問が思考を埋め尽くす。迷いを残しつつも足は進む、階段を登りながら視線を上げると、水槽の前に誰かが立っていた。顔を見ずとも分かる、ジョンだ。
     プラント技師が、工場の中でなにをしているかなんて自分は知らない。だから最初ジョンの姿を見た時、違和感なく受け入れた。その行いがプラントを直すものなのだ、と。あと一段を残したところで足は止まった、水槽に両手を付けたまま彼は動かなかった。寸分違わず、彼はその位置を守った。そして彼の背後越しに水の中でなにかが浮いていた。───まさか、あれが、プラント?不思議な模様が刻まれた肌は白く、人間よりも細く長い指は水槽越しにジョンと手を合わせているように見えた。驚きで目を離せないでいると、プラントと目が合った。
    「入っちゃだめって、言ったのに」
    「な、んやそれ…?」
     プラントの水槽に手をつけ、ジョンがこちらを振り返った。いつもと変わらないはずの顏には発光した模様が刻まれていた。プラントと、同じ模様だ。
     心臓が外に出て耳元で鼓動しているみたいに、どくどくと鳴る音がうるさかった。まさか、まさか。自分は、見てはいけないものを見てしまったのではないだろうか。そう思った。
     極度の緊張で動けないでいる自分とは裏腹にジョンはいつもと変わらない様子で話し始める。彼の口が動くのと同時に嫌な予感が芽生える。水槽の中のプラントは、どこか寂しげな様子に見えた。
    「ちょっとこの子が、えーと、おねだり上手っていうのかな、なかなか目が離せない子でね」
    「……」
    「でも、それも今日で終わり」
     水槽に付いていた手はゆっくりと下がり、そして離れた。次第にあの不思議な模様も消え、彼は”普段のジョン”へと戻っていった。それなのに未だ心臓は痛いほど動き、汗が体中を滑る。
    「僕の我儘を通してもらったんだ」
    「……それで、おどれは、どないするんや」
     聞いてはいけない、でも、話を終わらせてはいけない。その矛盾した思いを抱えながら震える口を開く。ジョンは変わらず、笑顔だった。いっその事、無表情であれば人間ではない存在のようで安心出来たろうに。人のようでなければ。
    「いつもと同じだよ、また違う集落に行ってプラントたちの様子を見る、そうやって僕は君たちに寄り添っていく」
     一人ぼっちで。
     声にはならなかった彼の本心が聞こえたような気がした。そう、思うのはおこがましいだろうか。でも誰がどう見たって彼は、ジョンと名乗った男は一人でいるのが辛いように見受けられるだろう。
     己の中になにかが芽生えていく。
    「そない寂しそうな顔して、一人でおるっちゅうんか」
    「……」
     次に黙るのは男の方だった。しかし己と違って言葉が見つからないから黙るのではなく、言葉を掛ける必要性が無いから黙っている、それだけであった。そんな様子すらも自分をやる気にさせた。
    「…ワイがおどれの隣に立ってみせる」
    「…君には君の人生がある、おすすめできないよ、その選択」
    「なんで、そないなこと、言うんや」
     ほんの少しだけ、期待をしてしまった。ジョンだから、ちょっと苦笑いをしたあとに「しょうがないなあ」と呟いて受け入れてくれるのではないだろうか、と。そんな、柔らかな妄想。
    「僕は、君が思っているほど良いやつじゃないからさ」

     そう言ってあいつは次の日の朝、消えた。呆然と立ち尽くす自分と綺麗な青の水槽に漂うプラントだけを残して。本当の名を知らぬまま、本当のあいつを知らぬまま、砂の向こうに消えてしまった。
     プラントを治したお礼も、チンピラから救ってくれた感謝も、あの日残した夕飯も、なにもか渡せず自分の手に抱えたままなのに。アイツは受け取ろうともせずに背を向けた、向けてしまった。そうか、もう、良いのか。
     良い子ちゃんの真似事は、もう終わりだ。




     葬儀屋という商売を始めて数年が経った頃、とある大きな町に訪れた。行商人で賑わう町は四基もあるプラントのおかげで大多数の人間がまともな生活を送っていた。圧倒的なピラミッドは目立たず、虐げられるものは少ない。このノーマンズランドでは珍しい真っ当な形をした町であった。
     そして命の循環は滞ることなく、順当に天へと登っている。その際、必要となるのは葬儀を行う者の存在で、自分はその恩恵を受けていた。町にいた最後の葬儀屋は数日前、眠るように死んだらしい。そこに現れたのは大きな大きな十字架を抱えた怪しげな男、自分な訳だが職を聞くなり、頼みの綱は貴方しかいないと懇願されてしまった。報酬も十分に払うと約束されてしまえば頷かない者はいないだろう。
     葬儀屋の葬儀を終え、じゃあ自分は探しものがあるからと早々とサヨナラするつもりが今度は宿屋の元女将が、うちのマイクが、と予想を優に超える依頼が募り、気付けばこの街の滞在日数は五日目を迎えていた。ちなみに最後のマイクは犬の名前だ。

     十字架を抱え、煙草を口にくわえる。慣れ親しんだ味と暖かい懐のおかげで気分は良かった。さて今夜も普段より良い飯にありつけそうだ。なにを頼もうか、とりあえず肉だな、酒もいつもより頼んでしまおうか。それとも───

     ふわりと、視界にあの赤色が飛んだ。

     瞬間、全身の血液が熱くなり、両足を動かしていた。太陽の暑さも仕事の疲れも今はまるで気にならなかった。それよりも、今ここであの手を掴まなければ、あいつは確実に消えてしまう。そう、あの時のように。

    「ヴァッシュ!」

     その名は旅を始めてから、数ヶ月経った頃知った彼の本当の名前だ。六百万ダブドルの賞金首、人間台風のヴァッシュ・ザ・スタンピード。ふざけた笑顔のポスターを見たときの驚きを今でも覚えている。本人の口から聞くはずだった本名は拍子抜けするほどあっさり知れてしまった。
    「ニコ、ラス?」
     彼の口から出る、久しぶり呼ばれたファーストネームに、昔の記憶が鮮明に蘇る。忘れたつもりはない、未だに彼と過ごした数日間は自分の奥底に根付いている。だが蘇る、と言う以外どう説明したらいいのか、自分には分からなかった。
    「久しぶり、大きくなったね」
    「オドレ…やっぱり…」
     久しぶりに出会ったヴァッシュはあの頃と同じ、虫酸の走る笑顔で存在していた。やっぱり、と声に出たのは奴が人間ではないことに。それと、昔一方的に叩きつけた約束をたった今無かったことにされた、その二つに対してだ。
     それだけでこの身を激情によって突き動かすのは一瞬だった。生身の方の腕を引っ張り、狭い路地裏に身を滑らせる。抵抗されるに違いないと想像した体は思いのほか簡単に動かすことができ、背中を壁に押し付ける。
    「わ、あっ! いっ…てて…なに、どうしたの、ニコラス」
     大袈裟な反応で場を凌ごうとしているのは丸わかりだった、いつもそうやってへらへら笑って、逃げ続けて来たのだろう。だがそんなやり方も、己の前では無意味だということを分からせなければいけないと思った。彼の顔の横に押し付けた両方の手首を、最大限の力を持って握りしめる。
    「無かったことになんか、させへんぞ」
    「………なんのこと?」
     纏う雰囲気が変わったのを肌で感じた。建物の間から刺すような日差しがサングラスのレンズに反射し、瞳が見えなくなる。未だ口元は笑みを携えていたが、脳内ではきっと困惑しているに違いない。何故、自分がこんなことをするのか、しっかりと考え、悩ませた上で受け入れてもらわなければ割に合わないと言うものだ。
     あの日、ヴァッシュが町からいなくなった日から彼を追いかけるため、我武者羅に努力を続けた。そう、全ては目の前の男を捕まえるために。
    「後悔させたるで、その選択」
    「…え…?」
     右手首を押さえていた指の力を抜き、人差し指で緩く開いた手のひらを撫でる。その触れ方の意味を測りかねているのか、彼からの反応はない。
    「オドレから手ェ伸ばした方が良かったって思うぐらいメチャクチャにしたるわ」
    「なに、を…」
    「おおきになァ、”癒しの神様”はん、オドレが放ったおかげで、あのクソガキが立派なケモノに育ったんやで」
     黒のタートルネックから覗く首元に噛み付く。当然、抵抗しようとヴァッシュの両手が動くが負けじとこちらも手首を強く握り、肌を食い破るつもりで顎の力を強めれば彼の体は痛みによって停止する。
    「い、た…ぃ、離してっ、ニコラス…!」
     ヴァッシュの焦ったような声、力を失いつつある手、首から皮膚の破ける音、そして興奮しきった己の呼吸の音。その全てが混ざりあったものが行き場を無くして二人の間に留まる。ぶち、と肌が破れた。血の味が舌先に触れ、全身が電流を受けたように震えた。これがヴァッシュの味、きっと死んでも忘れることは無いだろう。盛りの付いた獣のように、なにも考えられない。
    「はな、せっ!」
    「がっ…!」
     突如、腹部に鈍い痛みが走った。勢いで反対側の壁に背中を叩きつけられ、腹を蹴られたことに気付く。腹と背中の痛みに耐えながら前を見据えると赤いコートを翻してヴァッシュは路地裏から滑り出ていた。己の馬鹿さ加減にはほとほと呆れる、あれほど逃がしてはいけないと誓ったくせに、すぐ頭に血が上ってしまった。
     通りに出た彼を追いかけるも、往来の少ない道だ。遮るものもなくヴァッシュの背はどんどん小さくなってしまう。走っても追いつかないだろう、悪あがきで逃げ出すヴァッシュに叫ぶ。
    「いつまでもジョン・ドゥのまま逃げ切れる思たら大間違いやぞ!」
     こちらに振り向くことなく、赤は消えた。


     あの邂逅から二日、町の中でヴァッシュと会うことは無かった。それでもこの町から出なかったのはプラントが未だ治らないとの情報を手に入れたからだ。自分が来るより数週間前にプラントの調子が悪くなり、町のプラント技師たちがいくら手を尽くしても青色に戻らないと絶望していたところにあの男は現れたらしい、故郷と同じパターンというわけだ。それならプラントが治るまではこの町にいるだろうと考え、闇雲に探すことはしなかった。
     逆に自分の情報が人伝に彼の元に届いてしまった時のことを考えたくは無かった。ヴァッシュを探すついでに気ままな一人旅をしていると言っても過言ではない、今すぐ捕まえたいのは山々だがまた逃げられるに違いない。チャンスはあと一回のみだろう、そこを逃せば今度こそ本当に消える、そう確信していた。プラントの情報は人に聞けばいい、それのおまけでヴァッシュの動向も窺い知れる。
     たまに来る葬儀の依頼を受け、夜は酒場や食堂に入り浸り情報収集に励んだ。たまに二日酔いで使い物にならない日には何も起きないことだけを祈った。

     そして今日は、依頼も無く、子供達から遊びの誘いも無かったため、昼寝でもしようかと、借りた部屋のベッドに寝転んだ時、それは起きた。
     大きな爆発音の後、プラント工場から黒い煙が上がっていたのが視認できた。次いで聞こえる住人たちの声。十字架を抱え、急いで工場へと向かった。

     工場付近はプラント技師や建設業者と思われる人間が大勢いた。そのほとんど人間が程度の差はあっても怪我を負っていた。一番の目当ての男がいないことに焦りが湧き上がる。近くにいた医者と思しき男に近付いた。
    「なあ! 赤いコートの男見てへんか!」
    「え いや…悪いが見てないな、すまない」
    「…いや、気にせんといて、自分で確認してくるわ…」
     この騒ぎを彼が見過ごしているはずがない、工場の中で救助活動でもしているのかもしれない。爆発や火災はもう鎮まったようだが内部は崩落の可能性が大いにある。
    「スーツの人、アイザックさんを探してるのか?」
    「ワイの知ってる名前とちゃうけど、多分その男や」
    「…言っても聞かなくてね、彼はプラントルームに行ったはずだ」
     頬が多少汚れた程度の、怪我を負っていなさげな男が声を掛けてきた。どうやらプラント技師のようで首から身分証明書を掛けていた。パニックにも陥っておらず、この喧騒の中、淡々と言葉を交わす。しかし目の色は陰っており、心配していることが伺えた。
    「おおきに、しばいてくるわあのドアホ」

     クソ

    「心配ばっかかけさせよって」
     恐怖が全身を包む。どうか無事であってくれ、と工場を睨みながら走った。


     工場内に人間の気配はほとんど無かった、無事に救助は済んでいるらしい。途中瓦礫などに気を付けながら、プラントルームにたどり着くと四つある内の一つにヴァッシュは両手を付け、立ったままだった。あの時の光景と同じだ。違うのはこちらを振り向く様子がないことだけ、声を掛けるべきか、行動を起こしてもいいのか迷っていると少しの振動のあと、頭上から軋む音がした。
     嫌な予感ほどよく当たる。上を見ると亀裂の入った部分からパラパラと砂粒が落ちて来たと思えば、ゆっくりと天井がずれ始めている。
     十字架のベルトを取り、持ち手を握り振り回す。今は布を手で取る時間すら惜しい。ヴァッシュの元へと走りながら、落ちてくる瓦礫に照準を合わせる。手は震えていた、緊張している、ヴァッシュは未だ目を瞑ったままだ。このアホ、終わったら酒でも飯でも煙草でも、奢って貰うからな。

     瓦礫を撃つ、いくら小さくなったとはいえ当たった場合、ダメージは残る。ヴァッシュを庇うように自分の体と十字架で瓦礫を遮った。音が止んだのを確認し、ヴァッシュから離れる。ぽとぽと、と小さな瓦礫が髪や服の間から落ちていく。腰を下ろすとゆっくり彼が振り返った。
    「…ごめんね、ニコラス」
    「感謝の一言も言えんのかい、このアホが」
     顔にはあの模様が刻まれている、最早驚かないがそれよりも特筆すべきことがあった。
     こいつ、顔色、悪すぎとちゃうか。
    「なぁオイ、ヴァッシュ」 
    「ごめん、ニコラス」
    「あ?」
    「肩、貸して」
     て、と言い終えた瞬間に頭が揺れ、体が傾いた。落下地点に滑り込みなんとか体全体で受け止めれば、ヴァッシュはまるで死んでいるかのように瞳を閉じて意識を失っていた。間に合ったことへの安堵により、ため息をつく。視線を前にするとそこには花開いたプラントが、こちらを心配そうに見つめていた。
    「ああ、平気や、気ぃ失っとるだけ、すぐ起きるやろ」
     こちらの言葉が通じるとは思わなかったが、あまりにも悲愴な視線を無視することは出来なかった。なるべく穏やかな表情になるよう気をつけるとプラントは柔らかく微笑んだ、ように見えた。どこか、似ていると思った。腕の中で眠るこの男と。
    「…なぁ、こいつが起きるまで、話し相手になってくれや、運ぶ元気もないしな」
     水槽の中のプラントはゆっくりと頭を動かした。どうやら受け入れて貰えたようだ。なにから話そうか、ヴァッシュ絡みの話をするには己の幼少期まで遡らなければならないが、良いだろう。途中で彼が起きたらあの時自分がどんな気持ちだったか、存分に教えてやろうと思った。



     誰かの声がする。逃げろと言ったのに、誰かが戻ってきたのかもしれない。瞼は重く体は指一本すら動かせないのに感覚などは生きている。だから、その誰かの手が頭を撫でる感触と第三者に話しかけているような声がよく聞こえた。男性の低い声の中に幼い声が、煙が空気の中に溶け合うように混じり始める。
     彼と出会ったのはたった十数年前のことだ。プラントの工場で会った、あの町の一番最初に会話をした人間。仲良くできると思ったのだが彼は僕の何かが気に要らなかったようで、避けられる数日が続いた。変わったのは彼と親しい男の子と話したことから。紹介、だなんて自分には必要なかった、あの町に着いた二日で全員の顔と名前は覚えていた。彼本人もそれは気づいていただろう、そうだとしても何故だか彼と色んな話をしてみたかった。自分でも不思議であった。

     人間みたいに、恋がしてみたくなった、とでも宣うつもりは、ない。線引きはしたはずだった、ずっと。自分に許されるポジションは袖幕で、彼らを見つめ、寄り添えればそれでいい、と。

     彼との関係が変化したのは、町に泊まった最後の日だろう。『ずっとここにいて』と言う彼女をなんとか諦めさせて違う町へと行こうと考えていた。駄目だと言ったのに、工場へ入ってきてしまった彼は僕を見て驚愕の表情をしていた。プラント反応の出た肌の治め方は未だに不明で、しまったなぁ、なんて思いながらもその実、焦ってはいなかった。潮時だった。きょうだいの為とはいえ、少し長居をしすぎてしまった。これ以上この町に停留しすぎていると彼らに迷惑がかかってしまう。
     そのはずが、彼の言葉は決意を少しだけ揺るがした。『寂しそう』なんて。『隣に立ってみせる』だなんて言われたことは無かった。生まれて百五十年、初めての経験だった。
     人間から感謝を述べられることも、罵倒を吐かれたこともあった。喜びも怒りも悲しみも、憎しみさえ、この心は知っている。それなのに、対等でいる、と言われ心が揺さぶられることを知らなかった。
     どうして、どうしてなんだ。何故、君はそんなことを言える。僕は君と対等で居られるような存在じゃないのに。そんな当たり前のこと、自分でも理解しているのに。
     なぜ、そんな未来を欲してしまうのだろう。

     君なら、分かるのか?ニコラス。


    「…ん、ようやっと起きたか、ねぼすけ」
    「……え…?」
    「プラント治したいんは分かるけどな、事故が起きた時くらい逃げろや」
     目を開けると煙草を銜えたニコラスが僕を見下ろしていた。瞬時に理解した。彼の膝に頭を乗せて、寝させられていたのだ。顔が赤くなる、パッと飛び起きて彼の近くに座り込んだ。
     きょうだいを見れば花は閉じており、青い光を放っていた、無事であることが一目で分かる。ほっとしたのもつかの間、頭にニコラスの拳が叩き落とされる。結構、痛い。
    「あだっ!」
    「ちなみにこれはプラントの嬢ちゃんの分」
    「え?」
    「これはプラント技師のおっちゃんの分」
    「あいたっ」
     頭を抑えていると今度は額を指で弾かれた。先程より衝撃は無いがじいん、と小さな痛みが残る。そろそろ涙でも出そうだ。
    「ほんでワイの分な」
    「まだある、の…」
     今度はどこだろう、頬でもつねられるのか、それとも腹部へのパンチか。痛みに怯え、色んなところを抑えているとニコラスの手が伸ばされた。
    「………え?」
    「起きたならぼちぼち出るで、自分で歩けるやろ」
    「あ、あぁ、うん」
     少し離れたところに置かれていた十字架を抱え、僕に背を向けニコラスは歩き出す。彼の後を着いて、工場の出入り口を目指した。道中会話は無かった。ゆっくりと歩く彼の背中を見ながら、先ほどの行動を振り返る。
     あの十字架を纏う布を固定するためのベルトを持つ手が、目元を撫でた。一瞬すぎる出来事でニコラスに行動の理由を追求することすら出来なかった。どこか浮き足立った感覚のまま、荒れ果てた工場内を進み、外へと出た。なんだか、心がふわふわして落ち着かないな、彼女と繋がったせいだろうか。顔も熱い気がしてきた、両手で頬に触れる。想像通り熱かった。そこでふと気付く、ニコラスは一体どこへ向かっているのだろう。
    「ニコラス?」
    「あ?」
    「どこ行くの?」
    「医者に決まっとるやろ」
     こちらを振り向くことなく、ニコラスは答える。その足は迷うことなく、病院へと向かっているようだ。ここ数週間、プラント工場に篭っていた僕には知り得ないルートだった。数秒、無言でいるとニコラスの歩みが止まる。表情こそ見えないが、彼の背中が雄弁に語っている。
    「ぼ、僕は平気だから」
    「平気な訳あるかい、駄々こねんのもいい加減にしいや」
    「大丈夫だから! 本当に…」
    「医者か、ワイんとこか、拒否権はないで」
    「……ワカリマシタ」
     ついにこちらを向いたニコラスの表情は、自分のテリトリーを荒らされたトマのように怒りに満ちていた。本当はもっと恐ろしい表情をしていたがこの星ではこの表現でしか伝わらないだろう。着いてくるか心配になったのか、彼の手が僕の右手首を掴んでずんずんと歩き出す。掴む力はあくまでも弱い、振り解けない程ではない力に、笑みが溢れる。
     僕の右手首を引いてくれるニコラスの左手が暖かくて、ほんの少し汗をかいているのが愛おしくて、少しだけ涙が滲んだ。



    「だーれもおらんみたいやな」
     病院は閑散としていた。入院患者のいない病院に勤めている医者は全員プラント工場へと向かったのだろう。看護師の存在すらそこには無かった。病院に入ろうとニコラスが足を動かすが、左手で握った右手首から伸びる体が動こうとしない。数回、軽く引っ張ったが頑なに足を動かそうとしない。この頑固者、よっぽど治療を受けるのが嫌らしい。
     目を合わせるとヴァッシュは眉を下げながら笑った。こいつ、ほんま。それに負けじとニコラスもニッコリ笑ってやれば、何故だか困ったようにひくつく口端。
    「…ええ加減にせい!」
    「えっちょ、ニ、ニコラス?」
     ニコラスは十字架を脇に抱え、左手を力強く引っ張り、相手を転けさせ腹に腕を通した。男性の平均身長を超えるヴァッシュの体は重かったが、それよりも遥かに重いものを抱えているニコラスにとっては関係のないことだった。一番近くの治療室と思われる部屋の扉を足で蹴り開ける。
     抱えられた時点で静かになってしまったヴァッシュを治療室の簡素なベッドへと転がす。「ぎゃん」とか言う声を聞き、少しだけニコラスの苛立ちが解消された。部屋から治療に必要なものを見繕い、ベッドに戻ればヴァッシュは観念したように行儀よく座っていた。
    「じゃ、脱げ」
    「…え、え〜」
     言われることは分かっていただろうに、律儀にノーの姿勢を取るヴァッシュ。両手はしっかりと自分の体を抱きしめており、いつものあの困った笑みを振りかざす。しかし、そんなもので懐柔されるほどニコラスはヴァッシュのことを甘く見ていなかった。
    「無理矢理脱がされたいんか」
    「わあエッチ! …ぬ、脱ぐから! ごめんって!」
     赤いコートを脱ぎ、黒のタートルネックの裾に手が伸びるのをニコラスはじっと見ていた。ぱさ、と小さな音を立ててヴァッシュの肌が露わになる。昔、彼が服越しに感じた傷は、概ね想像通りであった。肌では無い何かで補填された箇所、金属だろうか、細いものが見える。凄惨なその様はヴァッシュの語りきれない人生を謳っているようだと思った。
     そして分かっていた通り、彼の腹部には擦過傷があった。落下物から人を庇い負った傷のように見える。ニコラスと違い、体を守る大きな獲物を持っていない彼は必要最低限な動きで頭だけは守ろうと動いたに違いない、とニコラスは考える。
     自分で手当てをしようとするヴァッシュの手を掻い潜り、ニコラスは破片などを確認しながらピンセットで取っていく。普段ならこんな丁寧に施さない処置を黙々とこなした。それほど深くない傷だが、ずさんな手当てをすれば跡になることは間違いなかった。無言で手当てをするニコラスを眺めながら、ヴァッシュも静かにそれを受け入れていた。外から聞こえる音も少ないこの部屋で、まるで二人しか存在していないような錯覚をニコラスは受けた。死んだって叶わないことだ、とどこか冷静な自分が言う。
    「なんで…助けてくれたの、僕のこと」
     先程まで抵抗して騒いでいたとは思えないほど静かな声でヴァッシュは吐露する。ニコラスが答えようと口を開きかけるも、先にヴァッシュの言葉が空気に溶けた。
    「僕より、他の人たちを助けるべきだった」
     沸々と、怒りが沸いて震える指をニコラスは抑え込む。可能であれば今すぐ吠えて頭でも殴ってやりたい、そんな酷い気分だった。この男はいつまでたっても理解をしてくれない、自分がここまでする理由を、本当に、心底分からないのだ。
    「君の関心も、僕なんかより」
    「それ以上言うたらぶん殴る」
     だから、全ての殻を破って、恥も外聞も捨てた、加工のされていない言葉を彼に伝えなければいけなかった。それから逃げてきたのはニコラスであった、だって怖かった。また逃げてしまうと思った。いつ死ぬかも分からないこんな土地で、一度、『好き』だなんて伝えた次の日の朝、そこに誰もいなかったら。自分は耐えられないかもしれない、そんなことを考えてしまうのもニコラスは嫌だった。
     しかしこれ以上、逃げるのは無理だと思った。傷口に被覆剤を貼りながら、口を開く。緊張のせいで少し喉が痛む。
    「ヴァッシュ、あんな、ワイな…オドレのこと好きやねん」
     その苦痛を感じる優しさが。その手も届かない強さが。その殺したくなるほどの理想が。すべて、あの時のような輝きを放っている。思えば、己はあの時捕らわれてしまったのだろう、と。ジョンと名乗ったヴァッシュと過ごした数日は、今思い返せば夢のような日だったと言える。最初は救世主のように扱われていたジョンが幼いニコラスは嫌いだった、次に自分とリヴィオを助けた、強いのにお人好しの変な大人だと。同じ部屋で眠ったあの日、祝福のような口付けを受けておかしくなった。無意識にヴァッシュを神聖視していたニコラスにとって総毛立つ出来事であった。
    「成長したんは体だけっちゅうことかなあ、オドレのこと、軽ぅく扱われるとなぁ、アカンねん、脳みそすぐぷつんとキレてまう」
     ニコラスの目の前にある体は動かなかった。ただ静かに言葉を聞いている。ニコラスの体とは違う、作り物だらけの体に手を伸ばした。数日前、彼の首筋を噛むなどという蛮行を起こしたのに、ヴァッシュは逃げずにニコラスの腕の中に留まっている。腰を抱き、刈り上げ部分を撫でる。あの時嗅いだ甘い香りがほのかにニコラスの鼻をくすぐった。今ならこの香りがなぜ甘く魅力的なのか、よく分かった。
    「頼むわ、ヴァッシュ」
     ニコラスはわざと弱々しい声を出した。幼い時のニコラスを知るヴァッシュにとってそれは、さらに自らの動きを止めるものとなった。
    「神様なんてならんでくれ」
    「僕は…神様なんて大層なものじゃないよ」
    「オドレはそう言うやろな、でもな、ワイにはそう思えへんのや」
     現にヴァッシュを神様だと思った人間がここに一人いた。ヴァッシュが考えてるほど、あり得ない現実ではなかった。
    「一人で旅して、プラント治して感謝されて、いつか、ほんまに崇められるで」
     本物の彼に出会うまで、ニコラスの脳内には何度も嫌な妄想がよぎった。遠く、たどり着けないどこかで汚い人間に崇め奉られるヴァッシュの姿を。本当に人間では無くなってしまった彼を、心に思い描けば描くほどそれは現実と混同し、ニコラスの足を動かした。何度も願った、願いたくもない神にさえ縋り着いた。
    「なぁ、ワイがオドレの特別になったら、あかんか」
    「……なって、どうするんだい」
     今まで芯の通っていないような、弱い音を出していたヴァッシュの声に徐々に感情が込められていく。分かりやすく境界線を引こうとするヴァッシュは、ニコラスの肩を押して離れようとした。ゆっくりと距離をとるヴァッシュをただ眺めているだけのニコラス。そんな彼の様子を見てヴァッシュは安心したように息を吐く。諦めてくれた、と思ったのだろう。
     ニコラスは静かに考えた。どうやらを自分を、きょうだいであるプラントと同じであると思ったのか、優しい言葉で嗜めることができる、と。
     その割にヴァッシュの表情は暗く、視線はずっと下を向いている。
    「君も分かっているはずだ、僕は君の特別になる資格なんてない、僕は人間を、特別、なんて」
    「なりたいから、そう思うんやろ」
     はっと、ヴァッシュが息を飲んだ音がした。体から力が抜けた瞬間に、ニコラスはヴァッシュの体をベッドへと押し倒した。ヴァッシュの表情は呆然としており、現状が把握できていない様子の彼を見る。何層も奥底に落とした感情を言い当てられたことによる驚きと、押し倒されたことに対しての形容し難い感情、その二つでヴァッシュは言葉すら紡げない。傷を負いながらもなお美しいヴァッシュの腹筋に触れ、ニコラスの指がゆっくりとなぞった。震える筋肉を指に感じながら上へと動かす。だんだんと赤くなっていくヴァッシュの体と顔に、ニコラスの口元が緩んだ。
    「ワイの特別になりたい、思てくれるから悩んでくれてるんやろ? しゃあないやっちゃでほんま」
    「……あ…っ? え、ぁ、いや、ち! 違う! そ、そんなこと悩んでない!」
    「オドレの顔見たらぜーんぶ分かるわ、はぁ〜、ほんま面倒やな〜」
     顔を真っ赤にしたヴァッシュが苦し紛れの言い訳を叫ぶ。数秒前まで冷たい空気の中でいたはずだが、気付けば安穏とした雰囲気に変わっていた。ニコラスは自分の顔がニヤニヤと意地の悪い表情をしていることを理解していた。ヴァッシュは己を押し倒した男の、そんな様子が気に入らないようで、なおも言葉にする。
    「う、ぐっ…二、ニコラスだって! 頬っぺにキスされたぐらいで怒っちゃってさあ!」
     それはウルフウッドにとって今一番触れられたくない、己の最も恥ずべき過去であった。あの頃の自分はいくら幼いとはいえ、素っ気なさすぎる態度を取っていた。同じベッドで寝られるとかご褒美すぎるやろ、とはヴァッシュへの気持ちを自覚した今だからこそ思えることだった。思うだけで現在のニコラスも昔と同じ状況に陥ったなら、顔を赤く染め睡眠を享受するしか選択肢はない。
     ヴァッシュは鍛え上げられた腹筋で起き上がる。そんな彼を押し返そうとニコラスは再び肩を押そうとするが逃げるヴァッシュに翻弄され、中々上手くいかない。ベッドの上で成人男性が二人、謎の攻防戦を始めてしまった。
    「…ッハァ い、ま言うかそれェ! てか、あんな…っ! こ、子供やぞ! 純粋な少年誑かしたんはオドレやろ!」
    「誑かすなんて! そんなやましい気持ちあるわけないだろ! 君じゃあるまいし!」
     あ、言わなくてもいいこと言ったな、とニコラスとヴァッシュは同じことを思っていた。視線を逸らすヴァッシュと今まで押し倒そうと動いていた手でズレたサングラスを直しながらヴァッシュを見つめる。
    「……ほぉ〜ん」
    「……………」
    「ワイがやましい気持ち持ってるんは気付いてんのか」
     ニコラスの言葉にヴァッシュはただ黙っていた、が突如として立ち上がり、着ていた服に腕を通した。あまりにもてきぱきと迷いなく行動するものだから、ニコラスも何も言わずただ見つめていた。
     赤いコートを着た瞬間に、呆然としていた意識を戻す。てっきり逃げるものかと身構えていたニコラスであったが、ヴァッシュの行動は彼の思惑から外れ、再びベッドへと腰掛けた。それと同時に扉が開かれると、そこには白衣を着た若い女が緊張した面持ちで立っていた。
    「誰かいるんですか…って、アイザックさん」
    「あはは、どうも…」
    「良かった、みんな心配してたんですよ、怪我は…ああ! 葬儀屋さんがやってくれたんですね!」
    「お、おう」
     白衣を着た女性はこの病院に務める医師の一人で、ヴァッシュの顔馴染みであった。誰もいないはずの病院の一室から何か揉める声が聞こえ、恐怖で身を竦ませていたがヴァッシュ─彼女にとってはアイザックという名の青年─の姿を確認した途端暗かった表情がパッと明るくなる。
     ニコラスは彼女の名前はおろか職業すら知らなかったが、彼女の方はそうでは無かった。命に関わる者として葬儀屋であるニコラスの存在は当然聞いており、それがまだ年若い青年だと町ではちょっとした噂になっていることを、当の本人が知らないだけであった。
    「でもアイザックさん、一人で工場に戻るなんて危険なこと、もうしちゃダメですからね」
    「いやぁ、申し訳ない…」
     和気あいあいと会話をする医者とヴァッシュを、ニコラスはただ眺めていた。本人は自覚していないが、つま先は先程から床を叩き、一文字に結ばれた口の奥では歯を噛み締めていた。先程まで二人きりだった空間を、第三者の登場によって邪魔されたのが彼は気に食わなかった。可能であれば、ニコラスは今すぐこの場から脱して、自分の借りた部屋に行きたかった。だが人間と話すのが好きなヴァッシュが簡単に付いてきてくれるとニコラスには思えなかった。だから今の彼ができるのはお行儀良く、二人の会話が終わるのを待つだけだった。
    「───じゃあ、マリナ、僕達はこれで…」
    「あぁ、ごめんなさい、引き留めてしまって…二人ともお気をつけて」
     数分も経たないうちに二人の会話は終わり、治療室から退出する。ニコラスは想像より早く終わった二人の会話に驚いて、ヴァッシュの後に付いていくのが一拍遅れた。病院から出るまでの短い距離の間、会話はなかった。ヴァッシュは口を開かないニコラスを不思議に思ったが、二人の間に揺蕩う重くも軽くもない空気に身を任せていた。ヴァッシュはそれが心地よく、もっとその空気を肌で感じていたかった。
    「ヴァッシュ」
    「…ん? なんだい」
     病院に入る前よりも幾分か賑やかさが戻った道を歩いているとき、ニコラスの声がヴァッシュの背中へと届いた。ニコラスの通常のトーンで放った音だったが、ヴァッシュには聞き慣れないものであった。ニコラスに再会してからというものの、怒った彼しか見てこなかったヴァッシュにとって自分の名を呼ぶ低い声は、ニコラスが成長した、という証拠に他ならなかった。
    「ワイのことは、ウルフウッドって呼びい」
    「それは…どうして?」
     ニコラスの提案にヴァッシュは疑問を浮かべる。もちろんヴァッシュはニコラスの名前を覚えているため、その六文字が彼のファミリーネームであることは知っていた。
     首を傾げるヴァッシュにニコラスは振り向き、口の端を釣り上げ意地の悪そうな笑みを浮かべた。治療室で繰り広げた言い争いの時に浮かべたものよりも、更に恐ろしい表情にヴァッシュは一瞬歩み止めた。ニコラスはそんな彼の様子にふっと力を抜き、表情を元に戻して歩き出す。ヴァッシュはすぐさまニコラスの後を着いていく。
     自分の心は、当に決着を迎えていた。
    「ニコラスじゃ、オドレの中のワイがいつまで経ってもガキのまんまやろ」
    「…えぇ、っとぉ」
    「それじゃ、埒開かんしな」
     空は深い青色と橙色が混じり始めていた。冷たい風が吹き、ヴァッシュは少しだけ身震いをした。そんな風景を進むニコラスの背中が無性に愛おしく、抱きしめたくなった。鼻の奥がつんと痛み、視界の端がぼやける。涙として頬を伝う前に右手で拭う。
     夜はすぐ近くまで迫っている。


    「あぁ、おかえり、ウルフウッドさんにアイザックさん!」

    「「………」」

    「いやおんなじ宿かい」
    「そんな気はしてたけどね…」
     更に隣の部屋同士であることを知り、再度ニコラスが叫ぶことになるとは、流石のヴァッシュも思いも寄らなかった。

     三階の角部屋とその隣の部屋を借りていたヴァッシュとニコラスは宿の隣にある食堂で早めの夕食を食べ終わったあと、各々の部屋で一人の時間を過ごしていた。
     生活のリズムが違ったのか、今まで隣の部屋から音が聞こえたことは両者共に無かった。それが、今は気になって仕方がない。金属片の音、部屋に備え付けのシャワーの音、衣擦れの音、その全てを拾おうと、二人とも聴覚が鋭くなっていた。唾液を飲み込む音さえ聞こえてしまうのではないか、と二人の鼓動が早くなる。だが隣の部屋にいる人物も己と同じであることは知り得ない。
     扉をノックする音が響いたのは、ニコラスの部屋だった。



     夕食を食べた後、ヴァッシュの部屋から聞こえる銃の整備する音や時たま聞こえる床の軋む音に体をびくつかせながら過ごした。シャワーを浴びた後、窓を開けて煙草を吸い、己を落ち着かせた。砂の星の夜は冷えるが、様々な要因で火照った体を冷ますにはちょうど良い冷たさだった。灰皿に吸い殻を擦りつけ、新しい煙草を箱から出そうと指を添えた瞬間、隣の扉が開いた音がした。思わず、指の動きが止まる。どくどくと心臓が音を立て、血液が巡る。震える指と熱が集まりだす顔、扉の向こうの床が軋み、部屋の前で音が止まった。一拍置いて、扉が静かに叩かれた。───驚きのあまり、持っていた煙草の箱を愚者、と勢いよく握りつぶしてしまった。
    「……ニコラス、入ってもいいかな」
     呼ばれた名前に冷静さを取り戻す。まだファーストネームを呼ぶ彼の頑固さ加減には呆れて声も出なかった。扉の前で律儀に待っているであろうヴァッシュの姿を想像して即座に体を動かした。無造作にベッドに置かれた黒のジャケットをハンガーに掛け、窓際に置いてあった灰皿と畳んであるサングラスをテーブルに揃えて置く。苦し紛れの行動が彼の目に入り笑われないかと心配だった。ゆっくりとドアノブに手を伸ばし、回す。扉を開けた先にいたヴァッシュはコートを着たまま、なぜか荷物を持った状態でそこにいた。
    「なんやその格好」
    「あはは、いやー、ちょっとね」
     困ったように笑いながらヴァッシュはその場から動こうとはしなかった。数秒見つめあっていると、ヴァッシュが伺うようにこちらを覗き込んでくる。こちらの了承が得られなければ境界線を越えようとはしないのに、許しを求める顔をする彼に胸が痛くなる。…いや、別に、可愛いとか、思ってませんけどね。
     顎をしゃくることで入ってきても良いを表すとヴァッシュは優しく微笑み、後ろ手に扉を閉めた。ラジオ一つも無い静かな部屋に響くその音がやけに大きく響いた、ような気がした。ヴァッシュは荷物を扉の横に置くなり、自分が使っているベッドの隣のものに腰を下ろした。用があるのは彼の方に違いないのに、先ほどから一言も発さない様子に緊張感が走る。砂蟲の色と空の色を混ぜたような色合いの義手が月夜を反射して美しく輝いた。
     視線があっちこっちに行って定まらない、ヴァッシュはそんな己の様子を気にしておらす、サングラスを取るとそのままベッドに寝転がりこちらに背を向けた。
    「それじゃあ、おやすみ」
    「オウ……? …ってオイ! なに寝てんのや!」
    「え? 駄目だった?」
    「いや、駄目っちゅうか……」
     普通、あんなこと言った相手の部屋に夜訪れて隣のベッドで寝るやつなんかいるか?…いや、ヴァッシュ・ザ・スタンピードを一般人と同じ尺度で考えることのほうが非常識であったか、と自己完結する。そうだとしても数時間前には好きと伝え、数日前には逃がさないと物騒な行動で示したつもりだったのだが、もしや目の前のこの男はそれが友愛やら親愛からくるものだと思っているのではないだろうか。あり得る話だと思った。
     静かになった赤い背中に大きなため息が出る、こんな無防備にされたら逆に手が出しづらい。明日朝起きたら、お前がしたあの行動は愚かで信じられないものだと叱ってやろうと心に誓った。どんな腑抜けた顔をされても仕返しとしてそれだけは言ってやろうと、そう思いながら自分のベッドに寝転がる。薄い布を掛ける前に窓が開いたままなのに気づき、窓に近づく。
    「……おやすみのキスは、もういらない?」
     ヴァッシュのいる方から、ヴァッシュの声でそう尋ねる言葉が聞こえた。声は掠れておらず、寝ぼけて放った言葉ではないことが分かった。身じろぎ一つない背中を見つめる、愚かにも寝ぐらに飛び込んできた獲物が自分から食べてくれとねだっているようにすら見えた。
     窓を閉め、ゆっくりとヴァッシュに近づく。まるで先ほど呟いた言葉は妄想で彼は今も寝ているかのようだった。横に向いた彼の眼前に手を置いて、覆い被さるようにベッドに乗り上げた。古いベッドが悲鳴を上げる、だが今はそんなものに構ってやれるほど心に余裕が無かった。
    「……ヴァッシュ、やっぱ分かってへんやろ、ワイが、どういう気持ちで、オドレを追いかけてたか」
    「え、や、あの……ちが、ニコラス………」
     ヴァッシュの声が震える、仰向けの体勢になったヴァッシュと視線が絡む。両足を動かし、ヴァッシュの腰を挟み込むようにする。彼の両手が己の腕に触れる。熱を持たない手とじんわりと暖かい手が左右の腕に触れたのが嬉しくて、じっとヴァッシュの目を覗き込んだ。うろうろと視線を彷徨わせているのを顎を掴んで無理矢理、目を合わせる。拒否の色が薄らと現れた目に、仕方ないと思った。
     強情で、頑固で、世話の焼ける───初恋で、一目惚れの相手。手が掛かってもしょうがない。なにしろ人間ではないのだから。
    「まあ…しょうがないわな、人間台風サマやもんなあ、ワイかてそこまで期待はしとらん、寧ろ、俄然ヤル気出てきたわ」
    「そ、そういう意味、じゃなくて…っ!」
    「オドレ追いかけてたんは、ちっこいトマやなくて、盛りのついたオオカミやっちゅうこと、体に叩き込んだるわ、覚悟せえよ、このアホが」
     にっこりと、これ以上ないくらい優しく微笑んでやれば「ひえ」と情けない声が聞こえた。犬のように首元に鼻を擦り付け、ヴァッシュの香りを胸いっぱいに吸う。あの時香った甘い菓子のような香りと共に、爽やかな空気に少しの甘さが乗った香りがした。タートルネックと肌の境を舌で舐め、位置を上へずらして耳輪を噛む。顔どころか首元も真っ赤に染めあげたヴァッシュに思わず口元が緩む。嘘やん、自分より歳食ってるくせにそんな反応するの、詐欺やん。と心の中で逆ギレすることでぎゅんぎゅんと高鳴る心臓を誤魔化した。
    「なあんも変わらんのやな、オドレは…」
    「あ、や、やだ…ッ、は、わ、っちょっと…!」
    「このピアスもなあ…懐かしいわ」
    「わ、あぁ! な、なめっ、舐めないでよそんなとこ!」
    「…あーもー」
     ぺろ、と耳たぶを舐めると返ってくる反応があまりにも初心で心配になってくる。自分も決して経験が豊富なわけではないが、そういう雰囲気に持っていこうとしている自分と相反してヴァッシュにはそういった、性的な雰囲気が感じられなかった。それが不思議と悔しくて、服の裾から手を入れて傷だらけの腹にそっと触れる。汗が滲んでいる、暖かい。つうっと臍付近をゆっくりとなぞると、ヴァッシュが小さく甘い声をあげた。その声に驚いてヴァッシュも己も動きが一瞬止まった、合図するわけでもなく目が合って沈黙の時間が少しだけが流れた。お互い赤い顔を誤魔化すこともできずに。
     先に行動したのは自分だった。服を捲りあげ、主張のない左胸に触れたり、太ももを撫でたりしていると意識を戻したヴァッシュから非難の声が上がる。
    「や、っ、だ…! っニコラス! んぁ、っ…や、だって、言ってるだろ!」
    「いっだぁ!」
     快楽によって出た声を聞いて良い気分に浸っていると突如として頭に鈍痛が広がった。あまりの痛みに頭を両手で抑え、体が起き上がる。ヴァッシュも体を起こし、ベッドの上で顔を突き合わせた。ようやく痛みが引いたのと同時に、頭を殴った張本人に噛みつく。
    「なんってことするんやワレェ!」
    「それはこっちのセリフだよ! いっいきなり…なにするんだ!」
    「好いた奴が隣のベッドで寝ようとするわ突然チュー強請ってくるわ…こちとら想い拗らせて十数年やぞ! ていうか返事聞いてへんけど」
     必死に服を元に戻しているヴァッシュにがなりたてる。涙目になっているヴァッシュを見て、少しだけ罪悪感が募りそうになる。それ以上に、彼に触れて、触れられて二人でどうにかなってしまいたい気持ちが強かった。
    「わ、分からない…」
    「……あぁ」
    「こんな、気持ち…なったことないから、分からない」
     ドクン、と心臓が鳴った音が体中に轟いた、そんな気がした。
    「ね、え、ニコラス…君は、なんて言われたら嬉しい?」
     幼い頃に出会った、神のような存在だった金色の男が、不安げな様子で聞いてくる。あの頃と何一つ変わらない双眸で、こちらを見詰める。荒くなる呼吸を悟らせないように、必死であった。
    「君の、喜ぶ言葉を、言いたいのに、分からない、どう言ったら、君は笑顔になってくれる?」
     目が溶けてしまうのではないのかと心配になるほど涙を溜め込み、他者の幸せを望む儚い生き物。彼の言葉は簡単に己の身を喜ばせた、だがそれを易々と叶えてもらって受け取ってやれるほど己はもう幼くなかった。望むのは、誰もが欲して座らせなかった、後生大事に抱えたヴァッシュの隣を陣取ること。それだけだった。その後は───自分でどうにかする。
    「…子供扱いは辞めろ、言うたやろ、ヴァッシュ」
     孤児院で暮らしていた頃の記憶が蘇る。斜に構えて、生きていければそれで良かったあの頃の己は孤児院のきょうだい達とおばちゃんだけが世界の全てだった。そんな所に現れたこの男は、己の初恋や憧れを全て奪って行った。
    「もう小さないねん、そろそろ認めたってや、なあ」
     皆に好かれた、神様みたいな存在。そんな男が、己だけが喜ぶ言葉を言いたいと言う、笑顔にしたいと、言った。そんなの、自惚れない方がおかしい。
     片方の手で頭を支え、ヴァッシュをベッドに横たわらせる。抵抗はされなかった、それどころか身を任せられていることが腕にかかる重さで分かる。
    「…ウルフウッドって、呼べ、まずは、それでええ」
    「……ウルフ、ウッド」
     たどたどしく呟かれたファミリーネームに、笑顔で答えるとヴァッシュはついにその大きく開かれた両目から貴重な水分を流した。ぽろぽろと落ちる涙を眺めて、思わず美味そうだな、と思ってしまうぐらいには己の頭は湯だっていた。
    「ウルフウッド、ウ、ルフ…ウッド…」
    「おん、上手やで」
    「あっ、な、んで服…っ」
     ヴァッシュが名前を呼ぶことに集中している間に、戻された服を再び捲りあげる。赤ん坊に触れるみたいに優しく触れることを心掛けた、傷の多い体だ、優しく扱って損は無い。そんな感覚がこそばゆいのか、ヴァッシュの腹筋が微かに震えた。
    「傷つけた奴にはムカつくけど…お前の体は、その…嫌いやない」
    「へ、あ、ぁ…っ」
    「この傷は知らんな…いつ付けた」
    「わ、わかんな…も、そんなの、覚えて、ない、ぃ…」
     傷口一つ一つに唇を付ける。気障ったらしい己の行動に、火が灯っているのではないかと思うほど顔が熱くなる。照れたら負け照れたら負け、と祈りのように心の中で呟く。
    「ウルフウッド…ッ、ウルフ…っあ、ウルフウッド…」
    「ヴァッシュ、ヴァッシュ…かわええ、ヴァッシュ…」
     ベッドの上で、狂ったように相手の名前だけを呼び続けた。全ての感覚が鋭いのだろうか、名前を呼ぶ度に溶けた声を漏らして、体を震わせた。
     首に回された両腕の存在にほくそ笑み、いよいよズボンを脱がそうと手を伸ばした。

     その時───

    「ヴアァッシュ・ザ・スタンピィードオォォッ ここにいんのは分かってるんだぜェ! 町ぶっ壊されたくなかったら、さっさと出て来なァ」

     外から聞こえた、男の声に手が止まる。呼ばれたのは目の前の、組み敷いた男の本当の名前だ。この町の人間があんな言葉で叫ぶはずもない。
     流れ者の、チンピラ風情がどこかで情報を手にして意気揚々と現れた。こんな夜更けに、信じられない。人様の迷惑考えろや、考えへんか。考えてたら人間台風など狙うはずがない。だからあのチンピラをなじるのはやめてやろう。
    「…あ、っと」
    「……あの荷物、もしやその為か…!?」
    「え、えへへ…」
    「ふざけんなよオドレェ…!」
     信じられないのは、チンピラが襲ってくるかもしれないと気配を感じながらも自分には何も話さずにいた賞金六百万ダブドルのこの男の方だった。入室した時点で話してくれれば、宿を変えるなり、どこかに潜むなり出来たに違いないのに。この宿に裏口はない、真正面に立たれてしまえば逃げ道は塞がれたも同然だった。しかしこのまま息を殺していたら同じ宿に泊まっている人間に危害が及ぶかもしれない、とはヴァッシュも考えているだろう。
     未だ抱き合った体勢のまま、思案する。外で待ってる男を蹴散らすのはきっと容易だ。気配からして複数人いるが大した差ではないだろう。だが、ここから離れたくない気持ちの方が強い。ようやく柔くなってきた男を置き去りにして、むさ苦しい(であろう)無法者と対峙するしんどさを想像しながらも、ヴァッシュを見やる。
    「? …ウルフウッド…?」
    「ー…ええか、ヴァッシュ! 絶対部屋から出んな、窓覗くんも無しや! すぐ戻ってくるさかい、寝落ちんなよ!」
    「え、あ、うん、あれ…外の人は…」
    「ワイがなんとかしてくるから気にすな!」
     とろんとふやけたヴァッシュの返事も待たずに壁に立て掛けた十字架を持ち、階段を駆ける。ジャケットを羽織るのを忘れてしまったが部屋に戻ると朝が明けるまで出られる気がしないので、忘れたままにしておく。一階に下りるとカウンターに隠れていた店主が泣きそうな表情でこちらを見上げた。
    「う、ウルフウッドさぁん…」
    「おっちゃん、騒がしくなるけど堪忍な」
    「大丈夫だけど…任せちゃって良いのかい?」
    「おん、めっちゃエエ気分やねん、任しとき」
     ぱちぱち、とベルトをゆっくり外す。外からは待ちかねた男どもの騒がしい声が聞こえた。布とベルトを纏めて床に置けば、黒い重火器が現れる。持ち手である髑髏を握りながら、煙草を咥える。火をつけて紫煙を燻らせれば、湧き上がる苛立ちが少しは散った。扉を開けて各々の愛銃を構えたクソみたいな存在もといチンピラ共を見やる。
     ああ、本当に、エエ気分やったのになぁ。


     あの後、五分で片を付け、保安官達に後片付けを頼んだ。愛銃に布やベルトを巻くことすらせずに部屋に戻ると、今まさに窓から現場へと向かおうとするヴァッシュと目が合った。言葉にできない怒りを唸り声に乗せてあげる自分と口元をわななかせたヴァッシュ。
     そのあと、お楽しみに持って行ける訳もなく、言うことを聞かなかった男を簀巻きに、両手両足を用いてぐるっと彼の体にまとわりついて寝た。たまに嬉しそうな笑い声が上から聞こえた、髪にかかる息がこそばゆかったが悪い気はしなかった。



    「待ってよニコラス」
     サンドスチームへ続くタラップを歩く自分の後ろに続くヴァッシュから声が掛かる。乗船客の数が多いこの場所では小さな声は通りにくい、彼の声はそこまで大きく張り上げたものではない、それでもこの耳は簡単にその声を拾い上げてしまう。少しだけ歩くスピードを緩めながら後ろを振り向けば、幼子に手を振りながらヴァッシュが小走りで向かってきた。
     言葉通り、ベッドを共にしたあの夜が明けると寝起きのヴァッシュはすぐさま『サンドスチームに乗ろう』と言い出した。昨日あんなことがあったから、遅かれ早かれこの町からは離れるだろうとは予想はしていた。まさかここまで早いとは思っていなかったが。そんなことより驚いたのは自分にそのことを伝えたことだ。なんて素晴らしい学習能力、素直さだろう。今までのヴァッシュとは思えず、寝惚けた彼の頬をつねってしまった。
     世話になった町民たちに挨拶をして、昼前に停船したサンドスチームに乗った。出発するまではあと一時間弱はある、二人の財布から出した金で個室を見に行くのも案だ。当日に乗船すると決めたのに難なく乗船券が買えたり、更には個室の予約が取れたりしたのは、保安官や町長の存在があったからだ。『あいつらよく調べたら指名手配されてたみたいでね、助かったよ』『お二人とも町を救ってくれた神様みたいなものですから、頼み込んでみますよ』と、どちらもずいぶん良い人間であることに感謝した。
    「ワイはウルフウッドや、ファーストネーム呼ぶな言うたやろ」
    「……照れてるの?」
    「じゃ! かしいわアホ!」
     昨日は素直に呼んだくせに、一夜明けるとヴァッシュは再びニコラス、と呼ぶようになってしまった。それを咎めてもこのように躱されてしまう。やはり一度痛い目に合わせるべきか、できるのだろうか。今度こそ本気で殴られてこちらが痛い目に遭わされるのでないだろうか、と様々な疑問が飛び交う。歩みが遅くなっていたせいか後ろにいたはずのヴァッシュが隣を歩いていた。
    「……ニコラス?」
    「お、んどれぇ…っ! いっぺん泣かす! 絶対泣かす!」
    「…それって、どっちの意味で?」
    「なっ! がっ…!」
     睨みながら言った言葉は容易く、やんわりと返されてしまう。隣に立てたはずなのだが、いかんせん、掌の上で可愛がられている気がしてしまう。嫌じゃないからそれを突っぱねることもできない、ヴァッシュに伝えるつもりは毛頭ないが。
     しかし、いくらなんでもその発言は看過できなかった。心の深い所からヴァッシュにとっては良くないものが燻った。
    「なんてね、へへ、ごめんごめん、なんか…嬉しいんだ、あんなに幼かった君が大きく育って、こんな…僕と一緒にいてくれるのがね…ウルフウッド? どうかした?」
     違う状況であれば、大喜びしてしまうような言葉が今はよく耳に入らない。足を止めた自分とは反対に少し前へ進んだヴァッシュが後ろを向いて首を傾げた。
    「…ほんならお望み通り鳴かしたろか」
    「えっ? あれ?」
    「ええ機会や、個室やし、思う存分できるなァ、オイ」
    「ちょっ…ちょっと! 離してよ!」
    「おやすみのチューも嫌ってほどしたるわ!」

     雲ひとつない、綺麗な青空を背景にウルフウッドの声が響く。背丈程の十字架を携えながら、ヴァッシュを小脇に抱える。暴れても離す気がないと彼の思いを理解したヴァッシュは大人しく脇に抱えられる役目を全うした。病院に連れられた時と同じ状況だ、と二人は同じことを考えていた。そんな彼の様子にウルフウッドは笑った。ガハハ、と笑い声はまるで悪人のようだったが、笑顔は年相応の形をしている。

     一緒に旅をして、背中を合わせて戦い、美味しいものも不味いものも共に食べる。ウルフウッドはそれを望み、ヴァッシュも同じスタート地点に立つことを選んだ。喜びも悲しみも、ウルフウッドは分かち合いたいと考えていたが、ヴァッシュがそう望むにはまだ時間がかかることを、ウルフウッドはよく分かっていた。
     違う形をしている二人は、隣に立ったお互いのあるがままの形を認め、砂漠の星を歩いていく。

     二人きりの旅は、今始まったばかりであった。
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    💖💖💖💞💞💞💞💞💞☺☺
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