朝チュン鳴夏「……夏海、夏海」
あれ、部長の声がする。昨日泊まったんだっけ、泊めたんだっけ。
寝覚めが悪いほうではないけれど、こういう風に人に起こされたときは中々起きられなくて、頭がぼんやりしてしまう。
「ん……んん……?」
「おはよう。食パン焼いたから呼びに来たよ。」
「あ……ありがとうございます」
部長を無視するわけにもいかないのでとりあえず体を起こすと、最後まで準備が終わった後に呼びに来たのか、バターを持った部長がベッドのすぐ脇に立っていた。たしかに部長自身やドアの隙間から香ばしい匂いが漂ってくる気がする。
おはようと言われたときには分からなかったけれど、カーテン全開の窓から朝日が部屋中に満ちていた。この日差しの強さは多分七時から八時。日光を浴びたことで少しずつ頭が冴えていくのを感じた。
「顔洗ったりするだろ?僕は先に食べてるから。」
あたしが完全に起きたことを確認した部長は、すたすたとリビングへ向かって行った。お腹は空いたけれどもう少しぼんやりしてようかなぁと外を見ると、頭が揺れたせいかつきっと鋭い痛みが走る。
「いっ……つ」
この痛み方には覚えがある。たいてい、お酒の飲み過ぎで引き起こされた二日酔いだ。社会人になってからは派手に飲むのも控えているけど、部長の前ではつい羽目を外してしまう。毎回帰るつもりで遊びには来るものの、結局甘えてしまうのはあたしも部長も薄々勘づいている。だから昨日も同じように散々飲んで寝こけてしまったのだろう。
でも、何だろう。なにか違和感がある。難しい言葉をど忘れしてしまったときのような、昨日見た夢を思い出せないときのような違和感。たしかここ、このベッドで何かがあった。肝心なその何かは思い出せないのに、感覚だけはなんとなく残っている。体の熱で汗がびっしょりと吹き出て、痺れたように力が入らなくなって、思わず目の前の体にしがみついてしまうほど気持ちよくてーーーーー
「……………〜〜〜っ!?」
あれ、しがみつくって誰に?とふと考えた瞬間、記憶の欠片が繋がって映像となって溢れてきた。部長だ。そりゃあ部長の家なんだから誰かと何かしたなら部長しかいないはずだけど、思い出し始めた今でも信じられないほど突飛であり得ないことだった。だって昨日までただの先輩と後輩だったはずなのだ。
けれどたしかに浮かぶ映像ではあたしと部長が裸で抱き合ってて、熱っぽい吐息が伝わるほどの距離で互いを見つめ合ってる。これが本当なら、あたしは長年の片想いを叶えた幸せ者か、酔った勢いで先輩に手を出した最低野郎かのどちらかになる。ただなんとなく後者の確率の方が大きい気がして最悪だ。そう思うと居ても立ってもいられなくて、とにかく部長に確認したくてたまらなくなった。
「ぶちょーーーー!」
「んー?」
内容的に走って行くわけにもいかず、大声で部長を呼びつけた。先程から一人ベッドで寝こけるし朝ご飯は作らせるし、なんなら今もご飯を食べていたところだろうに呼び出して、失礼ばかり重ねている。これよりとんでもない失礼……というか無体を働いた可能性もあるのだから恐ろしい。そんな風に震えるあたしとは裏腹に、部長は怒る様子もなくどうしたんだい、なんて呑気に言ってドアを開けて入ってきた。
「あ、あの、あたし昨日のことほとんど覚えてないんですけど……」
「うん」
「もしかして何かえっちなことしました!?」
勢いのままに放って、もう何を言われても耐えられるようにぎゅっと口を結んで力を入れた。できれば何のこと?とか夢でも見たのかい?とか言って笑ってほしい。笑うか、怒るか。どちらかだと予想した部長の表情はなぜか呆れ顔へと変化した。
「……そういうのって普通それとなく聞いたり、無かったことにしたりしないかい?」
「えっ……すみません、気になっちゃって……」
そう言われてたしかに、とは思ったもののもう言ってしまったのだからどうしようもない。というか今さらっと流されたけど部長にとってはその程度のことなの?いやいやまさかそんなわけ……なんてぐるぐる考えていたら、部長が近づいてきてベッドの端にすとんと腰掛けた。
「…………」
「な、何ですか?」
普段から考えてることが読めないのに、真顔でいられるとさらに分からない。なんにせよこの状況で同じベッドに座るのは絶対に良くないしドキドキしてくるからやめてほしい。
「いや……ただ、証拠があるから見せようと思って」
そう言ってくすりと笑った部長は、自分の着ているシャツの首元を掴むとぐいっと下に引っ張った。こちらに胸元を晒すような仕草に心臓が跳ねたのも束の間。
「〜〜〜〜っ!?」
見えたのは、白い素肌に広がる真っ赤な鬱血痕だった。一見すれば虫刺されのようにも見えるそれが違うとわかったのは、赤い痕に紛れて犬に強く噛まれたように綺麗に並んだ点もあったから。部長は犬なんて飼ってないからこれをつけた犯人は一人しかいない。
「これ、全部あたしが……!?」
「そう」
薄っすらとしか残っていない記憶であった昨晩の情事が、こうして目に見える形で現れると途端に生々しくなる。思わず頬が熱くなったが、ふとある事に気づいた。部長にこうして痕があるってことは、主導権を握っていたのはあたしのはず。それはつまり手を出したのはあたしの方、ということ………
「すっ!すいません!あたし部長にとんでもないことを……!」
「あー……待って待って」
さっきまで熱かった顔からさっと血の気が引いた。思わずベッドの上で正座をして頭をつき、手はお行儀よく肘が直角に曲がるように揃えた。まさか自分が人生の中で土下座をすることになるとは思わなかったが、これは流石に丁重に謝罪すべき案件だ。そんな風に殺される寸前のような勢いで謝るあたしを、部長は手で制した。体勢はそのままで顔を上げると、部長はいつものように薄く笑ったままでさらりと言った。
「手、出したの僕の方だから」
………………えっ何て?
あまりにもさらりと言われて思わず聞き逃した。いや、聞き逃してはないけど何か足りない単語があるんじゃないかと思ってしまうくらい嘘のような話だ。手を出したのが部長ならばあたしは出された側ということ。いやいや、だとしたら部長が痕だらけなのはおかしいし、部長に襲われたというのも信じられない。あたしがこんなに焦っているのに平然としている部長も訳が分からないし、やっぱりこれはあたしがあんまりにも真っ青なものだから気を遣って嘘をついたのでは……。
と、そこまで頭が回ってふと気づく。そういえば起きてから自分の体を見ていない。部長と同じようにあたしにも痕が残されていれば、本当に部長に手を出されたという証拠になるのではないか。そう考えて自分の寝間着の首元をそっと開くと色鮮やかな鬱血痕がーーーーなかった。ちょっと落胆して、どういうことですかという意思を込めて部長を見ると、ふっと笑いつつまたもや爆弾のような発言が落とされた。
「つけていい?って聞いたけど意識トんでたから」
「………ひぇ………」
思わず情けない声が漏れてしまったが、ようやく昨晩の様子がなんとなく把握できた。部長の記憶がここまではっきりしているということは、手を出したのは本当で最中もしっかり意識を保っていたのだろう。それで、あたしは多分お酒と快感のせいで訳が分からなくなってて、意識が朦朧とするなか目の前にいた大好きな人に痕をつけまくったんだ。そんな好意やら独占欲やらが丸出しになった様子をしっかり見られて記憶されていると思うと恥ずかしくてしょうがない。
てか、両想いなんじゃん。部長がお酒を飲むと性に奔放になるタイプでなければーー今までそんなこと一度もなかったしーー理性の蓋が緩くなってあたしへの恋心がうっかり出ちゃった、とかではないだろうか。それにしては平然としすぎな気もするけど。
まだいまいち実感が湧かないけれど、今こそが長年の片想いを叶える一世一代のチャンスのような気がした。今日を逃せば一夜の過ちとしてなあなあになって、関係は変わらないまま再び何年ももどかしい気持ちで過ごさなければならないのだ。バレないように唾を飲んで、部長の方を向くように体勢を整えた。
「っあの、部長、あたし……………!」
声の震えを抑えながら『すきです』の四文字を伝えようとした途端、空気を読まないお腹がぐうぅと鳴った。しかも結構なボリュームで。ここ一番の真面目な顔で一世一代の告白をしようとしていたのに。思わず言葉を失って、気まずい沈黙が訪れる。
「…………ぁ、の」
「ふっ」
限界まで熱を持っていたはずの頬がさらに発火していくのを感じつつも、間をもたせるためになんとか口を開いたあたしを見た部長が、堪えきれないといった風に吹き出した。だめだ。もうどう取り繕ってもかっこ悪い。
「お腹すいたね。夏海。」
「……はい」
「僕も途中だし、先に食べてしまおうか。」
「……はい」
立ち上がった部長に合わせてあたしもベッドから降りた。冷静になって考えると、寝床でーーしかも寝起きに告白というのもすでにかっこ悪いな。まだ歯磨きもしていないし、髪もぼさぼさのまま。せっかくならちゃんとお化粧とかして、おめかししてから伝えたかった。
ただ、かっこ悪さで言えば部長も同じだ。平気な顔してるけど行動だけ見れば結構ひどい。そりゃほぼ合意みたいな空気だったのだろうけど、お酒に酔ったあたしを襲うし朝になっても知らんぷりしてるし両想いって分かってるはずなのに何も言わないし。あたしが部長を好きだから許してるものの、知らない女の子だったら愛想つかれてるはずだわ。
「夏海」
「っはい!?」
あたしばっかり慌てて見た目もボロボロのままなのが気に入らなくて、悪口をちくちく思い浮かべていたものだから、突然呼ばれて大げさに反応してしまった。相変わらずこちらの心を読んでいるかのようなタイミングで声をかけてくる人だ。
「味わって食べようね。ご飯。」
「えっ……な、なんでですか。」
「だって、ただの先輩後輩の関係で食べる最後のご飯だろ?」
……あぁずるい。しょうもない冗談のはずなのに、部長が言うだけでかわいいしかっこいいんだから。
そんな風に迎えた朝食は、結局びびったあたしがのろのろ食べて先延ばしにしようとするのに部長が焦れて、食パンをくわえたままの姿で先に告白されてしまうという最後までかっこのつかない結果になってしまった。