あたたかい地獄「地獄って、案外いいところなんですね」
父、瑞雪の隣に腰かけて雪緒は言った。
目の前には手入れの行き届いた庭が夕日に照らされている。
「…お父さんと、こうして会話できると思わなかった」
生前はずっと父が恐ろしかった。自分に向けられる、諦めたような視線も、あたたかいと感じたことのない表情も、抑揚のない声も。
だからだろうか。その正反対に見える将暉に余計に懐いていたのは。
「地獄、ねぇ。…つまり俺ぁ地獄に落ちてるってことかい?雪緒」
「え…」
父の質問に呆気に取られてから
「いや、お父さんが居るんだから地獄でしょ。ここ」
と真顔で答えた。
「お母さんに挨拶できなかったのは残念だけど、まあしょうがない!」
「…お前、随分言うようになったじゃあねぇか」
父がほんの少し口角を上げる。生前、これほどの会話は二人にはなかった。
肩を並べて話す親子の会話など、一度も。
雪緒は、ん~…と少し言い淀んでから
「だって、お父さんが俺の事大事にしてくれてたって、わかったからさ。」
と照れ臭そうに笑った。
もう彼に、父への恐れはない。
父も、「そうかい…」と頬をかいて少し視線を外した。
お互いに、もっと早くこうできていれば…という後悔は残る。しかし、死後であってもこうして蟠りが解けただけでも嬉しかった。
視界の隅で、雪緒が自分の手首を愛おしそうに撫でているのに気付く。
「将暉も…いつかこっちへ来るだろうよ」
息子の頭の中を察しつつ話題をずらすと、雪緒はバツが悪そうに頭を掻いて「それは~…ちょっと困るかも」と意外な返答をした。
「将暉にはさ、自由に…幸せになってほしいっていうか。俺のお守りも終わったんだし、普通にカタギとして生活して、ちゃんと好きな人と添い遂げてさ…元気なじいちゃんになって…ずっと、楽しく過ごしてほしいですよ。俺が離れられなかったから、組で辛い立場にさせちまった。」
刺青の入った手首に力が入る。彼を強く思う時の雪緒の癖だ。
声はだんだんくぐもっていき、鼻声になっていく。
こんなところでまで嘘を付いてどうするんだと思うが、父は「そうかい…」と話を聞いていた。
「それにさ、勝手に絶縁状出しちゃった。…ごめんなさい、組の解体も、お父さんが築き上げてきたもの、みんな俺が壊しちゃった。どうしても、あいつらに滅茶苦茶にされるのが嫌で。でも守り切れる力もなかったから…。」
「…言ったろ、お前はよくやったよ」
父の細く硬い腕が背中をぽんぽんと叩くと、思わず涙がこみ上げてくる。
「えっぐ…ごめ…。だからさ、将暉はもう俺には会いに来ないよ。側に置いてって言ってくれたのに、俺、全部はぐらかして…ちゃんと言えなくて…絶縁状なんて置いて出て行った。もう、会えないよ」
手首を顔に押し当て、声を殺して肩を震わす。
昔から大の泣き虫の息子を、そういえば一度もあやしてやった事は無かったなと瑞雪は思い返した。
暫くの沈黙の後、
「なぁ…その絶縁状には『蒿雀組から金號将暉を絶縁する』って書いたんじゃあないか?」
と父が投げかけた。
「ん…うん。こういうの慣れてなかったから、他になんて書けばいいかわからなくて…」
「そうかい」父は頭を掻いて、雪緒を見遣った。
「…あっち(現世)の事はよくわかりゃあしねぇが、少なくともお前があれだけ派手にやったんだ。蒿雀組は跡形も無くなっているだろうぜ。なら、もう将暉が切る縁自体も、お前を縛る組も無いんじゃあないか?」
その言葉に、雪緒は顔を上げ、父と目を合わせる。
「…お前と縁を切るとは、書かなかったんだろ?」
白いまつげに付いた涙の粒がほろりと落ちた。薄く口が開く。また視線を落として、
「どうせ俺、嫌われちゃってますよ」そう言って両手で目元を覆って肩を震わす息子。
やはり自分には気の利いた言葉は言えなかったかと思ったが、彼の口元は笑っていた。
「…お父さん」
「…ん」
「俺、もし組とか関係なくなったら、将暉に「雪緒」って呼んで欲しいってずっと思ってたんだ」
泣き笑いの、調子のいい言葉に瑞雪は肩をすくめた。
「…まさかあの世まで来て、息子と将暉の惚気話を聞かされるたぁ思わなかったよ」