巡回者たち「どこだよここ……」
着任早々に迷子とは、情けない話だ。
疲れた。よし、座ろう。そうしよう。
地べたに腰を下ろし、何気なく顔を上げると、凛々しい顔をしたイカの彫像と目が合った。
――――
この警備会社に勤めてもうすぐ五年は経つだろうか。そろそろ一人で警備する現場に行ってもいいんじゃないか、と上司に勧められたのが、ここ……キンメダイ美術館の夜間警備の仕事だった。
昼間と違って客の対応などの業務もないので、警備員室で監視カメラの映像を眺めたり、時々館内を巡回したり、というのが主な仕事で……正直に言えば、かなり退屈しそうだ。初めての単独での警備ということで、あまり難易度の高くない現場を回してくれたのだろう。俺の地元のバンカラ地方であれば、美術品泥棒の侵入なんかも警戒しないといけないところだが、ここではそういう輩はまずいないと前任者から教わった。平和でなによりだ。
そんなわけで本日付けで着任し、前任者から一通りの説明と引き継ぎを受け、まずは館内の散歩……いや、巡回でもしてみるかと警備員室を出たのが少し前の話。
そして、想像以上の広さと、閉館後の展示室の暗さのせいで現在地を見失い、イカの彫像の前で座り込んだのが現在である。
次から巡回時には館内マップの携帯必須、と脳内にメモ。現状の打開にはなんら役に立たないメモだが。
「いやほんとどこだよここ……!」
苛立ちを覚えつつ、ひとまず懐中電灯を頼りに順路の案内でも探すか、と立ち上がったその時だった。
「ここは北第三展示室だ、警備員君」
斜め前方の暗がりから声がした。
声? 人? 人がいる? こんな所に? この時間に?
「だ、誰ですか!」
初日から不審者とか勘弁してくれ……!
そういえば不審者に敬語を使ってしまったがよかったのだろうか。いやまあ一般人の可能性もあるからいいのか。暗闇から突然声をかけられて叫び声を上げなかっただけ及第点だ。
そんなことを頭の中でぐるぐる考えながら正面を睨みつける。
声の主がこちらに近づいてくる気配がする。コツ、コツという足音と共に、懐中電灯の明かりに照らされた姿が浮かび上がってきた。
「落ち着け。僕は関係者だ」
黄緑の長いゲソを片側に流し、丸眼鏡を掛けた男だった。暗くてはっきりしないが、年齢は俺と同じくらいだろうか。
男が首から提げたカードホルダーを軽く掲げると、「Guest」の文字が見えた。
「新任か? 僕のことは聞いていないのか」
そう言われ、一時間ほど前の引き継ぎのことを思い返す。
ここの前任者はクラゲの男性(恐らく)だった。イカとクラゲでは言語が異なるため、正確な意思疎通は難しいことも多い。そんな彼(多分)が引き継ぎの最後に、ホワイトボードに緑色のペンでイカの絵を描いていた。
「このイカがいるよ」とでも言いたげなジェスチャーを見せていて、あの時は意味が分からなかったが……。
「あー、えーと……それらしいことは聞いた、かもしれないです」
すると、男は顎に軽く手をやり、こちらをまじまじと見つめてきた。
「ふむ、まあインクリングの警備員など珍しいからね。なにか齟齬が生じるのも無理のないことか」
そう、俺のような会社勤めのイカは恐らく少数派だ。イカやタコであればバトルやバイトで生計を立てていく者も多いからである。事実、俺の会社の同僚もほとんどがクラゲだったりする。
「さて、そんな新任の君は……見たところ迷子だったようだが?」
そう言われ、自分の置かれた状況を思い出した。
「あ、はい、あの……すみません、警備員室ってどこか分かります? 分からなかったら美術館の出口でも……」
この男が何者かは分からないが、少なくとも今の俺よりはここのことを知っていそうだ。もらえる助けはもらっておくに限る。
「警備員室か、随分離れているね。送っていってもいいが……一つ条件をつけよう」
「はい……?」
男はニヤリと笑って言った。
「君を警備員室に送り届けるまでの間、僕の話に付き合ってもらおう。君の前任とは話が通じなくて退屈していたのでね」
話に付き合う? それだけ?
その拍子抜けするような条件に疑問を覚えつつ、男が警備員室の場所を知っていて、どうやら送ってもらえそうだという事実に安堵した。
「話というか言語がですよね……まあ、分かりました。よろしくお願いします」
「結構。では行こうか、警備員君。こちらだ」
満足気に歩き始めた男の後を、俺は大人しく追うことにした。
――――
移動を始めてから、数分は経過したように思う。
話に付き合えと言う割には、あちらから話を振ってくる気配がない。俺は先程から気になっていたことを尋ねることにした。
「あの、あなたは……」
「ああ、敬語は不要だ。僕も敬語で返さねばならないのが煩わしいのでね」
話を遮られてしまった。
「そう言われても、急には……」
「では崩せる部分だけでも構わないよ。とにかく、畏まらないことだ。僕は偉くもなんともない」
どうやら、着任初日からお偉いさんに無礼を働くという事態は免れたらしい。
というか偉くないのにこの口調なのか。仰々しいというか、ふてぶてしいというか。
「じゃあ……あんたってどういう人なんですか? ここで何を?」
夜間は美術館のスタッフは出払っており、俺のような警備員しか残っていないと聞いた。そもそもゲストの入館証を持っているのだから、スタッフではないのだろう。
すると、男は不意に立ち止まり、こちらを振り返った。
「君、口が堅いという自負はあるかい? 他人に口外しないという約束だけ貰えれば、僕について多少は話せることもあるだろう」
思わせぶりなことを言う。そう言われては余計に気になるのも人の性というものだろう。
「まあ、うん。大丈夫です、言いませんよ」
「よろしい。では少しお話ししよう」
男は再び前を向いて歩き始めた。
「この美術館は、野外にバトル用のステージが設置されているのは知っているね?」
バトル……ナワバリバトルというやつか。俺はあまり行かないので詳しくはないが、確かにキンメダイ美術館もバトルステージの一つだったような気はする。
「僕はそこの管理、運営を専門に行っている者だ。美術館の正規職員ではないが、関係者ということで館内を自由に歩き回ることは認められているから、バトルのない夜間はこうして趣味の芸術鑑賞に没頭できる、というわけだ」
なるほど。ステージには専門の管理者がいるのか。
しかし……
「他の人に知られたくないんですか? そのことって」
ごく普通の仕事、そしてごく普通の趣味のように思える……いやまあ、夜中に美術館をうろついているというのは怪しく思われるかもしれないが。
「ああ……バトルステージの運営をしていると言ったが、バトルで不正を働いたプレイヤーを発見して退場させるなどの措置も僕らの判断で行っているんだよ」
おいおい、けっこう重要な仕事だな。
「僕らがそうしたければどんなプレイヤーも自由に退場させられる。反対に、どんな不正も僕らが見逃せばまかり通ってしまう。そんな人物がいることを、一部の面倒なプレイヤーに知られたらどうなるか……想像できるだろう」
「……大変ですね」
なんとなく納得がいった。
趣味のバトルならまだしも、上位プレイヤーのバトルともなればスポンサーも付き、大金が動くという。悪質な奴らがいるとしたら、それ絡みで……買収や脅迫などのありがたくない話が出てくる可能性も、あることにはあるのだろう。
「まあ、僕は強いのでね。性根の腐った輩なんぞに手こずったりはしないが……権力はないが権限はある、という立場だ、格好の標的になりかねない。ああ怖い怖い」
くくく、という微かな笑い声が聞こえてくる。
強いのか……? 見たところ、細身で品のある……こう、良いとこの坊々というか、そんな雰囲気があるが。
こいつをゴンズイ地区あたりのお世辞にも治安がよろしくない場所に放り込んでみたらどうなるんだろうかという好奇心が生まれる。
「さて、本題だ。君についても少し聞かせてくれるね?」
「え? あ、はい」
本題……つまり、話に付き合えと言ってきたのはこの先の話のことか。
「ああ、君の仕事については話してくれなくて良い。どう見ても警備員だ」
その通り。
「僕が知りたいのはもっと本質的な部分だよ。そのためにわざわざ遠回りしてここまで君を連れてきたのでね」
おい、今なんて言った? 遠回り?
こっちは迷子になった段階で疲れ切っているというのに、さらに無駄に歩かされていたのか?
ぽかんとした顔をしているであろう俺をよそに、目の前の男は半ば振り返るように体を横に向け、手で前方を指し示した。
「ようこそ、中央展示室へ。少し話をしよう」
――――
中央展示室。
美術館の館内写真としてよく見る光景だ。片側の壁はガラス張りになっていて、陽の光が差し込む空間……というのが昼間の姿だが、今は月の光に照らされている。ライトがなくても部屋の隅までなんとか見渡せるほどの明るさだ。
「こちらへ、お客様。ふふふ」
恭しくお辞儀をする男。なかなか様になっているんだから、自分で笑うんじゃない。
「この絵は知っているね?」
男が指したのは、誰もが知っている有名な画家の絵だった。
海の見える窓を背景に、静かに佇むインクリングの女性を描いた作品。そういえばここに所蔵されているんだったか。
「そりゃまあ、写真で見たことくらいは」
すると、男はゆっくりとこちらに向き直った。
鋭い薄紫の目がこちらを見据えてくる。俺という人物を見定められているような、そんな感覚を覚える。
「この絵を見て、君はどう感じる?」
「……え?」
「この絵を見た感想だ。僕は作者ではないので、君がどういう感想を持とうと気を悪くはしないよ」
俺は何を聞かれているんだ……?
「いや俺、芸術とか分かんないんですけど……」
「それで良い。思ったままのことを言葉にしてみなさい」
俺はその絵を眺める。
思ったままのこと、ね……
「普通の絵、だなあと」
薄紫の目が、微かに見開かれたように思えた。
……何も言われないので、俺はそのまま続ける。
「多分技術的には上手なんでしょうけど。そのくらいしか思わないというか、感動とかは別にないなあ、というか……こんなんでいいんですか?」
素人なのでこんなことしか言えない申し訳なさはあるが、思ったことを言えと言ったのはそっちだからな。知らんぞ。
「……ふふ」
男が顔を伏せ、額を押さえる。
……笑っている?
「くっ……あはははは! 良い答えだ! その感覚、くれぐれも忘れるな!」
愉快でたまらない、といった様子だ。
取り残された俺はその様子を見ていることしかできない。
「あはは……いや、同感だ! 僕もこの絵は凡作だと思っている」
そうだったのか?
てっきりあまりに俺の感性が乏しいがために、盛大に馬鹿にされたのかと思っていた。
「その耳をしばしお貸し願おう、警備員君! 僕の話に付き合ってもらう約束だったはずだ」
そう言うと男は、カツ、カツと高らかな靴音を立てながら歩き始めた。
「良いかい、君」
パチン!と指を鳴らし、こちらを指差す。
「人は皆、押し並べて凡人だ! この絵を描いた彼とて、君や僕とて、例外なくね」
広い展示室に、男の朗々とした声と靴音だけが響く。
「誰も彼も、傑作を生み出すその瞬間だけ天才になるのだよ。この彼も、別の瞬間には紛うことなき天才だったが……この絵を描いた時には、そうではなかったようだね」
この画家は、目の前の絵以外にも多数の作品で知られている。そのような作品のどれかのことを言っているのだろうか。
「『天才』とは人そのものに与えられる称号ではない。ある人の、ある瞬間を讃えて呼ぶものだ。……僕と解釈を異にする人々は、『天才』の生み出した絵は全て名作である、などと考えるようだけどね。僕に言わせれば、描いた者の名声によって作品を評価するなど、全く意味を成さないことだよ」
……分かるような、分からないような。
こいつはなんでこんなことを俺に話しているんだ。
すると、男は歩みを止め、薄く微笑みながら話しかけてきた。
「いやあ、失敬。これから少なからず顔を合わせるであろう君が、僕と近しい感性を持っているか……平たく言えば、僕と気が合うかどうかを確認しておきたかったものでね」
よく分からないが、俺の答えはお気に召したようだ。なんなんだこいつは。
「君が『有名な人が描いたんだから、良い作品だ』などと言う人でなくて良かった。どうぞよろしく頼むよ」
正直、こいつと気が合うと認定されても別に嬉しくないが。
「さあ、僕の話は済んだ。君を警備員室に送り届ける約束も忘れてはいないよ」
そう言うと、俺に背を向けてさっさと歩き出していく。
「自分勝手だなあんた……」
思わず小声で呟いてしまった。
――――
中央展示室から警備員室はそう離れていなかったらしい。
「見えるかい。この廊下の先、右手だ」
言われて前を見ると、廊下の奥に明かりのついた部屋が確認できた。
ようやく、帰ってきた……。
「あの、ありがとうございました。ご迷惑かけてすみません」
振り回されたような気もするが、感謝の言葉は伝える。さすがにそこまで恩知らずではない。
「いいや、僕も久々に楽しい話ができた。礼を言うよ」
確かにこの調子では話を聞いてくれる人も滅多にいないだろうな……。
「ではね、警備員君。引き続き励んでくれ」
そう言って立ち去ろうとする男。
……あ、そういえば。
「あの、名前聞いてもいいです?」
これだけ一緒にいたというのに、名前を聞くことも忘れていた。
すると、なぜか男は渋い顔をする。
「なんかまずいですかね……?」
仕事のことを伏せるくらいだから、名前も伏せたいのだろうか。
「いや……知られることそのものは問題ない。が」
「が?」
僅かな沈黙のあと、男は口を開いた。
「僕の名を伝えたら、君は必ず『訳が分からない』という反応をする。説明も面倒だから、言いたくない」
なんじゃそりゃ。
「いいじゃないですか、教えてくれても。あ、俺の名前も教えますから。俺はキュリです」
「合意していない交換条件を押し付けるな! 言いたくないと言っただろう」
頑なだ。余計に気になる。
「じゃあ本名じゃなくてもいいですから! あだ名とか、なんでも」
すると、男はふと真顔に戻り、考えるような仕草を見せた。
「あだ名……ふむ、まああれなら……」
何かをブツブツ呟いている。
「……Alfonsino」
「え?」
「アルフォンシーノ、だ。まあ、忘れてもらって問題ない」
あだ名なのだろうか。思ったより普通の、というより、こいつによく似合う名前が出てきて驚いた。
「ちょっと呼ぶには長いですね」
「煩い、文句を言うな」
眉をひそめた不満気な顔。
先程までご高説を垂れていた堂々たる姿はどこへやら。
「ははは。次会う時までになんて呼ぶか考えときますよ」
「どうせこんな時間にここにいるのは君か僕くらいだ、名前で呼ぶ必要性は感じないけどね」
なぜか名前についてはやたら否定的だ。いつか本名を聞き出してやろうと決意する。
「じゃあ、今度こそありがとうございました。俺は仕事に戻ります」
「ああ、ご苦労。……また会おう、新人警備員君」
そう言い残すと、男は廊下の奥の暗闇へと消えていった。
――――
照明のついた部屋に入ると、その明るさにほっとする。
前任者は引き継ぎを終えてすぐ退勤してしまったので、部屋には俺の荷物だけがぽつんと残されている。椅子に腰掛け、カバンから軽食と飲み物を取り出す。空腹に備えてコンビニに寄っていた出勤前の自分に感謝しながら、サンドイッチを頬張った。
「あ、そうだ」
館内マップの確認をしておかなければ。恐らくパンフレットに載っているだろう。
辺りを見渡すと、部屋の隅にパンフレットの入った棚が見つかった。警備員室にまで置いてあるとは、用意がいい。
表紙に『キンメダイ美術館』と書かれたそれに手を伸ばす。
「……ん?」
ふと、その隣に置かれている海外向けのパンフレットが目に入った。
『Museum d'Alfonsino』
アルフォンシーノ。
「あいつ、こっちがあだ名でいいって言ったから適当言いやがったな……!」
俺はサンドイッチの残りを口に放り込み、パンフレットの館内マップのページを広げた。
――――
……俺がとうとうあいつの本名を聞き出し、あいつが言った通り「訳が分からない」という反応をする羽目になるのは、まだ先の話である。