『欲しがらせて与えるのは支配の基本』―――――――――
「先生、大好き」
寝台の上でこちらに身を寄せ彼女は言った。
初めて出会った頃よりも幾分か落ち着いた声色が耳に沁み入る。
あの頃よりも伸びた背丈。長くなった髪。肩や腰は丸みを帯びて、体つきは随分柔らかくなった。
愛らしかっただけの幼な子は、今まさに成熟の時を迎えようとしている。
「小生も、あなたを愛しております」
そう返すと、彼女はパッと顔を上げた。
――嬉しげに笑う相貌は、子供の頃と何ひとつ変わらなかった。
「せ、先生もう一回!もう一回言ってください!」
「愛しておりますですよ、アオイくん」
「~~! えへ、……えへへへへぇ」
ぐりぐりと額をこちらの胸に擦り付け、彼女なりに精一杯の力で抱き締めてくる。
生みの親にでも甘えるように。
或いは彼女のマスカーニャがトレーナーである彼女にそうするように。
そこに在るは只々純然たる、親愛。
「……どうでございましょう、アオイくん。小生との日々にご満足頂けておりますか」
彼女は言葉の意図を噛み砕く様に一拍の間を空け、そして頷く。
「もちろんです! 先生と夫婦になって、一緒にいられて……『それだけで』、私幸せです」
自分のそれと比べれば随分とか細い腕が、それでも確かな柔らかさとしなやかさを伴って、こちらの背中に絡み付く。
ああ、温かい。
妻の温もりを一欠片も余さぬようにと、小柄な体を抱き返した。
「それは、よかったでございます」
髪の合間から覗いた薄造りの耳に囁く。
擽ったそうに身じろぎをする愛しい人が、この腕から逃げ出さぬように力を込めて抱き締める。
一瞬息を止めた気配がしたが、すぐに無邪気な微笑が零れ落ちる音が聞こえた。
何も変わっていない。
制服を着て野を山を駆け回っていたあの頃のまま、この子は変わらない。
その笑顔も、体温も、ただあたたかく、ただ朗らかで、ただ純真で、ただ清い。ならば何故。
何故あの頃と同じように、凪いだ湖面のような穏やかな心で、この子を抱いてやれぬのだろう。否、自問するべくもない。
己の心が変わったからだ。
「せ、せんせ。ちょっと痛い……」
「……すみませんですよ、少し強かったですね」
――喘ぐ様な声が聞こえ、手の痕が彼女の背中に残るくらい強く引き寄せていた事に気付く。力を弛め、今しがた無体を働いてしまった背中に、そっと指を置いた。
そのままゆっくりと背筋をなぞる。
「っ、……せ、先生……く、くすぐった、い」
「こうして撫ぜれば、痛みも紛れましょう」
「も、もう、大丈夫、ですから……ぁ」
背を這う指のこそばゆさに堪え兼ねて小さな肩が震える様を、じっと見下ろす。
いつからだろう。
愛らしいだけだった筈のこの子が、もはやそれだけの存在ではないと気が付いたのは。
頭を撫でて慈しむだけの子供ではないと、思うようになったのは。
その柔肌に口付けて、舐り、啜り、牙を立て、我が物である証のように幾つも痕を残したいと望むようになったのは。
いつからだ。
この娘はお前の番だと、
繁殖の相手なのだと、
内なる臥竜が狂おしく吼える様になったのは。
「せん、せ、……ハッサク、せんせい、」
「……もう痛くありませんですか?」
「は、い」
「それはよかった」
温かく湿った彼女の吐息が肌の中に潜り、沈み、決して浮上せず、己が熱と蕩けて交じり、腹の奥深くどろりと凝る。
それが忌むべき何かに変容しこの子を襲おうとする前に、手を離す。
――彼女が求めてこない限りは、手を出すまいと決めている。
夫婦の誓いを立て対等な身分になったとはいえ、元を辿れば教師と生徒――未だこの身を『先生』と呼び、かつて学び舎でそう在ったようにひたむきに慕ってくれるこの子は、きっと自分を拒めない。例え嫌だと思っても従ってしまう。
一方的な強権で誰かの意志や自由を奪う。それはこの世で最も忌むべき罪悪だ。愛した番が相手ならば、尚の事。
だから待つ。
彼女が自ら堕ちるまで。
共に在るだけで幸せだと無邪気に笑うこの娘が、満たされぬ欲に堪え切れず、愛しいこの手をこちらに伸ばし、その先を乞い願うまで。
「アオイくん」
赤く染まった耳朶に触れ、口許を寄せる。「おやすみなさい」と囁けば、背中で物言いたげに小さな手が蠢いた。ややあって、同じ台詞が返ってくる。
嫋嫋と耳に絡みつくアオイの声に、この根競べが然程遠くない未来に終わるだろうことを予見して、ハッサクは静かに笑った。
――番を見下ろす己の眼差しが支配者のそれである事にも、気が付かないまま。