daybreak / epilogue「あなたが今回したことは、罪には問われません。きっとおまわりさんか弁護士さんから聞いたよね」
面会室。香山がそう言って確認したとき、女性は自身の両手を絡め項垂れていた。布手袋で覆われたそれらを膝の上に置き、目を合わせようとはしない。香山はそっと眉を上げた。さして気にもとめずに続ける。
「もしも具体的な指示を出したりアドバイスしたりすれば犯罪教唆になるけれど。あなたの場合は少し異なる。個性犯罪って裁くのが難しいのよ。物理的なものだけじゃないでしょう?」
「そうですか」
女性が答えた。声色もずいぶんとそっけないものだった。
「幸いにも放火や殺人などの重大犯罪を犯した人はいない。むしろ潜在的なものが明るみに出たことで、そういう暴力的な欲求を抱えていた人たちを専門機関に繋げられるの。つまりね、今後の抑止にも繋げられるんです」
「わたしが触らなければ普通に生活していた人たちですよ」
このひとは裁かれたいのかしら。香山は思う。
「そこは難しいところだからこれから議論されると思う。けどね」
息を吸う。静かに吐く。
「みんながみんな犯罪に走るわけではないってことが証明されてるでしょ。雄英の子がいい例だわ。色々あって疎遠になりかけてた友達への心理的な欲求が強くでたの。多分本人もそこまで思っていたことには気づいていなかったみたいなんだけど」
言うと、女性の口角が少しだけ引き締まったように思えた。
早朝───相澤と山田は無事に保護された。搬送先の病院では、打撲や捻挫にはじまり、肋骨や足の骨折、歯の破折などの大怪我をしており、傍目からはひどいありさまだった。しかし当の本人たちはけろっとしていて、同じ処置室で並んで骨折した箇所の数をのんきに競ってさえいた(少なかった方が勝ちということにするそうで、それはまだこの喧嘩の勝敗がハッキリしていないだとかが理由で、これを聞いた香山は大いに笑った)。ひとしきり処置が済んだら、今度は退院後に何を食べたいかなんて話している。どちらの表情も晴れ晴れとしたものだった。山田は普通のラーメンをオーダーし、それにトッピングをてんこ盛りに乗せてがつがつやりたいらしい。相澤はといえば、駅前にある行ったことのないカレー屋さんのカレーが食べてみたいと言う。それを聞いた山田は目をぱっちりと見開いて、「おまえ行ったことないの? あそこ辛くてめっちゃうまいよ。汗が一リットルくらいでるから一リットルの水が必要だけど。でも本当に辛い時には水じゃなくてラッシーなんだぜ。まろやかになんのよ。だから、一リットルのラッシー」と得意げに言い、ニヤニヤ笑った。
この一週間のほとんどの記憶が山田には残っていないという。いわく、暗闇の中でうっすらと目を開けているようなかんじが続いており、麻酔が完全に覚める直前のようなぼんやりとした意識のまま眠ったり起きたりしていた。だがそれも自分の意思によるものではなく、ただ確実にわかるのは「横になっていた」という一点のみだった。明瞭な最後の記憶はあの日保健室で目を覚ましたあたりで止まっており、保護されていた期間中に相澤が面会に行ったことも覚えていなかった。
担当者によると、山田は保護された当日夜から涙を流し始め、何を聞いても答えず、明らかに状態がおかしいために身体検査の連続だった。けれども瞳孔は通常通りだし心拍やその他なにもかもが健康そのもので、医学的な問題はひとつも発見されなかった。保護されている間は用心のための拘束をされてはいたが、基本的にはおとなしく過ごしており、移動時には自力で歩行した。
体が「なにか」に支配されていたようなものだったのだろうか───香山は考える。それはたとえば彼女の言うとおり「理性をとっぱらった」欲望、あるいは熱烈な願望で。山田の潜在的な意識がそれを拒んだのだろう。それに伴う負荷が生理的なものとして身体の表面に現れたとしたらあの涙の説明がつく。
「楽しくなって笑っちゃったときかな」
山田は言った。『暗闇でぼんやりしていた意識』がはっきりしたのはいつか、という問いに答えたものだった。その時には戦闘訓練よりも激しく戦っていて、相手は相澤で、「相澤が楽しそうにしていたから俺もめちゃくちゃ楽しくなっちゃった」───とのことだった。
「混乱はしなかったの? だってずっとふわふわしてたわけでしょう? でも気づいたらすごい喧嘩しててさ。大丈夫だったの?」
香山が聞くと、「しなかった」と言った。「だって気づいた時には楽しいとか嬉しいって気持ちでいっぱいになってたから」
ふうん、と相槌を打つ。相澤は怪訝な顔をして、「嬉しいってなんで? 殴られたり殴ったりしたらおまえ嬉しくなるのか?」と大袈裟に眉をひそめた。
「そうそう、サドとマゾは紙一重ってね、っておい。違う違う。俺は至ってノーマル…… いや、でも、え、なんで嬉しかったんだろ、もしかして俺ってそうなの? 違わない?」
「よわノリツッコミ……。お前やっぱり疲れてるな」
「あんたはマゾなんじゃない? 相澤くんにぶん殴られて嬉しそうにしてたよ。あんた見てたらわたしのムチも唸っちゃって」
「ハア? 嫌だぜ、俺、香山先輩の犬になるの」
「だから山田さあ…… 人間みたいなこと言わないでよ」
「ノー……」
「ああ、そんな可愛い顔されるとわたしの嗜虐心が……」
「おい、やめろ。笑わせるな」
「そうよ、あんたたち超怪我人なんだからね」
「香山さんにも言ってるんですよ」
さっきから声だけはひそひそと口先だけで喋っているが、なんたって肋骨が折れているのだ。笑うのも一苦労だろう。
嬉しかった。山田が口走ったこの言葉の意味は言った本人すらわかっていなかったようだが、香山にはわかった。でもそれは教えてやらないことにした。さてそろそろ、と立ち上がり、腰掛けていたスツールを元にあった場所に戻す。カーテンがゆらめき、やわらかな日差しが風と共に差し込んだ。病室のすぐ下の散歩道から入院患者と看護師の話し声がする。
「じゃあわたし行くね。あんたたち怪我人は安静に、それからまずはしっかり寝ること。おしゃべりばっかしてたらだめだからね。あとでリカバリーガール先生が来てくれるってさ」
はあい、と間延びした声で答える山田。ありがとうございました、と捻挫した首を庇いながらごく僅かに会釈する相澤。
香山は颯爽と病院をあとにした。彼らはしばらくふたりで入院生活を送ることになる。山田と相澤は今やごく自然に互いを所有しあっている。相澤がいれば山田は楽しそうだし、その逆も然りであり───つまり、いっさいの心配がないのだった。
「……喧嘩したかっただけじゃないですか。男の子ってバカですね」
「ね。バカだよね」
香山は今朝の様子を頭に浮かべ、思い出し笑いをこぼした。病院に寄り、再び警察署に戻ってきたのだった。それは事後処理のためであるが、もう一度彼女と話がしてみたかったのもあり、要請したら許可されたので今ここでこうして向き合って座っているといういきさつである。
「まあ、喧嘩したいっていうより、自分と真正面から向き合って欲しかっただけみたいに思えたけどね。わたしには」
独り言のように呟いて付け足す。聞こえていなくてもかまわなかったが、女性はこくこくと小さく頷いていた。
相手に触れるだけで、理性をとっぱらった状態になる。彼女がどういう人生を送ってきたのか、香山は知らない。想像することもしなかった。
「あなた、自分の個性でつらい思いをしている人たちの自助グループがあるのは知ってる?」
香山が投げかけた質問に、女性はやや俯いて、間をとって答えた。
「アノニマスですよね」
「そう。行ったことはあるの?」
訊くと、女性は首を横に振った。
「心のうちを言い捨てる場所なの。同じ問題を持つ人が集まってるから、つまりみんな対等な立場なの。誰からも意見されないし、責められることはない。言うのが難しそうだったら聞いてるだけでいい。どう過ごそうが自由。後ろめたく思うこともない。もちろん、アノニマスの団体だから本名はいらない。定期的に開かれているから、行ってみたらいいと思うけどこれは強制じゃない。もし気になったら自分で調べて。インターネットで情報は調べれるようになってるはず」
自助グループには以前勉強として足を運んだことがあった。公民館の一室を借りて、素性も何も知らない人たちが集まる。会自体はだいたい定期的に通っている人たちで仕切られてはいるものの、その人たちも何かしらの問題を抱えている。時間になると始まり、席順でひとりずつ話す。持ち時間など制限はなし。メモなどは禁止。誰かの話したことに対してのアドバイスや自分の意見を述べることも禁止。近況、ここに繋がった過程、苦しんでいること、自分の影響で周りが変わってしまったこと、自分が回復している話。香山が行った時、今日は聞くだけにしますと言う人も実際にいた。おおよそトピックが異なるだけで、会自体は断酒会のような仕組みだった。順番は香山にも回ってきた。アノニマス(匿名)のルールに乗っ取って偽名を名乗り、それから何も話すことなく次のひとに発言をパスした。
その帰り、個性が選べたらよかったのに、と香山は思った。姿かたちや体質、あるいは声質のように、個性そのものは生まれ持ったもので、望んで得られたものではない。発現したそれがたまたま自分の思うものであれば良い。問題はそうでなかった場合だ。 しかしもしもそうやって個性が自ら選べたものとして、各々が後悔せず、問題も起きないなんて確証はない。
それに伴った差別などのさまざまな社会問題もある。敵の存在、そうなってしまう経緯についてもそのうちのひとつである。法整備が追いついていないのも確かだ。星の数ほどある個性に社会は未だ対応しきれていない。
「今回、あなたの個性はこれで登録されました。公での個性使用は申請がない限り法律で禁止されています。知ってるよね。そう言う意味では今回の件は違法行為です。詳しくはこのあと刑事さんに説明してもらって」
「……はい」
「ところであなたの個性、両手で触れたら発動、だったよね」
「はい」
「個性って伸ばせるの」
彼女と会っておきたかった一番の理由はこれだった。香山は椅子に座り直し、彼女の目を見た。
「訓練次第でコントロール出来るようになるのよ。わたしも雄英にいたころ散々やってきたわ。個性伸ばし自体がヒーロー科の特性なのかはよくわからないけれど。たとえばね、手先の動かし方はわかるけれど、練習しないとお箸は使えないじゃない? そういうかんじ。そのうえ、訓練しだいでは楽器が弾けるようになったり、細やかで専門的なことも出来るようになるでしょう? あなたの個性もコントロールが出来るようになる可能性は十分ある。満足のいくものにするにはあなた自身が頑張らなきゃいけないけれど。さまざまな個性に合わせて練習法を提案して教えてくれる先生を知ってるの。あなたが希望するなら、繋げてあげることもできる」
ただの提案で、これも強制するつもりはない。一般的に、他人を変えるよりも自分が変わるほうが確実で現実的だが、本人が能動的にならなければ大した効果はないのだと香山は信じている。だから彼女が自分から手を伸ばしてくれることを望んだ。
女性は香山の話を聞き、個性伸ばしの件に関しては反応せず、その代わりにどうして自分に会いにきたのかと訊いた。
「ヒーローだから……って言いたいところだけどね。実はちょっと感謝してるところがあるのかも」
「感謝?」
女性はいぶかしげに首を傾げる。
「雄英の男の子ね、わたしの後輩なの。本人がずっと悩んでいたことが解消されてすごく元気になっちゃってさ。ぼろぼろに怪我はしてるんだけどね。でも楽しそうに笑ってた。あの子があんなふうに笑うのって久しぶりなの。嬉しくなっちゃって。ごめんなさいね、思い切り私情で」
「はあ、そうですか」
最後まで無気力そうな女性だ。香山よりきっと年上だが、なんとなく幼くも見えた。
「わたしからも訊いていい?」
「どうぞ」
「どうしてあの子に触ったの?」
言うと、交わされていた視線が一瞬泳いだ。香山はじっと待った。取り調べの担当の刑事から、当時の本人はおそらく自暴自棄になっていたように思えると報告があったが、実際のところが気になったのだった。
ややあって、女性は薄い唇を動かして言った。
「……いい子そうだったから」
香山はきょとんと目を見開いた。いい子そうだったから。ああそう、なるほど。なんだ、あなた見る目あるじゃない。『ぜんぶどうでもよく』なんて、なっていない。そう思い、香山は自分自身がたちまち上機嫌になっていくのがわかった。無意識かとはいえ女性の気持ちを裏切らなかった山田という人間がとても誇らしく思えたのだった。
(完)