恋蜂のワルツ「それでは、行ってまいります。お祖母様」
古いが手入れの行き届いたドレヴァンツ邸の執務室で、アシュリーがドレスを軽くつまんで膝を深く折るマディーレ宮廷式のお辞儀を完璧に披露してみせると、彼女の祖母デボラは目を細めて満足そうに頷いた。
アシュリー・ドレヴァンツは十五歳。豊かでやや癖の強い金髪、祖母譲りの春の空色をした瞳、高くはないがつんととがった鼻にはうっすらとそばかすが散っている。とりたてて美人ではないが、くるくるとよく変わる表情とあいまって愛嬌のある顔立ちであり、祖母は孫娘を見る度にその容姿を褒めたものだ。
いわく、”商人に器量は不要”と。
そりゃあ勿論良いに越したことはないが、美人すぎる女は商人には向かない。色事方面の諍いなど、いらぬ面倒を招く可能性もある。それよりは人好きがして警戒心を抱かせない愛想の良さの方がよっぽど必要なのだ、と地方のしがない小売店であったドレヴァンツ商会を一代で国内最大とも言われる大商会へ成長させた老婆は説く。
(やっとこの時がきた……!)
アシュリーは一張羅の朱色のドレスの胸元をぎゅっと握った。
そこには、つい先日夏眞国中央学府から届いた留学許可証が大切にしまわれている。これから祖国マディーレを出て、船と陸路を乗り継いで一か月近く旅をしなくてはならないのだ。例え路銀を失くそうともこれだけは失くすわけにはいかなかった。
アルトニア大陸のほぼ中央に位置する央華夏眞国。そこにはアルトニアの子供たち全員の憧れである大きな学苑があり、その名を『全統一学苑』という。
土地こそ夏眞に属しているものの、実態としては六王国共同管理の学苑都市である全統一は、アルトニア全域から優秀な学生たちが各国府の許可を得て留学しにくる最高学府である。
学苑は将来国の要になる若人の育成を目的として設立され、留学費用は全て国が賄う。この留学制度は六王国の共同制度であることから、六市同盟と呼ばれている。
アシュリーも例に漏れず八歳の時に願書を出し、それから七年の間は必死に勉強に取り組んで入学許可を待った。
店に出入りし大人たちの話に耳をそばだてていると、金の流れ、どんなものにも欲しがる人間がいるということ、一つの品を作るのにどれだけの手が掛かっているかを理解出来るようになり、そうするとまた物を売るということが非常に面白く興味深く思えてくる。
そんなわけで若干十五歳にして将来は金ぴか御殿を建てて札束の風呂に入るのが夢という商魂逞しい商売人に育ったアシュリーは、この留学を非常に楽しみにしていたのであった。
「体に気を付けて、よくよく学んでくるのよ」
「はい、お祖母様」
「あなたは昔から思い込んだら一直線で向こう見ずなところがあるからね。いいですか?確かにあなたは少々頭が切れるけれど所詮は世間知らずの小娘なのだから……」
「解ってます」
「それからね、アシュリー」
デボラは一旦言葉を切り、真剣な顔をして孫娘の瞳を覗き込んだ。
「お前の”秘密”のことは誰にも知られてはいけないよ。火種になりこそすれ、歓迎されるわけがないのだからね」
アシュリーも真面目な顔でこっくりと頷き、しかしすぐ高らかに宣言してにっこりと笑った。
「心配ありませんわお祖母様!私、必ず多くのことを学んで参ります」
天窓から差し込んだ日差しがきらきらと彼女の髪に踊っている。
季節は、今まさに春。旅立ちのとき。
アシュリーは汽車と船を乗り継いで夏眞の中央部にある学苑へと向かった。マディーレを出るまでは汽車で、それからはずっと船の旅だ。
夏眞はいくつかの小島と、中央の大きな島によって成る国で、国内には至るところに網の目のように水路が張り巡らされている。最初は船の揺れに酔いもしたがすぐに慣れ、甲板に出て海鳥を眺めたり人魚たちが手を振るのに応えたりした。
余りにも変わり映えのしない景色に少々飽きはじめた頃、船はようやく夏眞の港に着いた。到着の銅鑼が鳴らされ、港で親しい顔を見つけた客たちが喜びの声を上げて船を降りていく。
アシュリーは久々の地面に違和感を覚えつつ、まずは入学手続きのために学府のある中央市府へと向かうことにした。夏眞の建物はどれも国色の青に染め抜かれていて、屋根の上や柱のデザインに神獣である羽の生えた猫が配されている。水路を考慮して街が作られているため、道の殆どは石畳で所々に木製のアーチ型の橋が渡されていた。道の両脇には屋台が立ち並び、日に焼けた顔の売り子たちが口々に客を呼び込んでいる。
夏眞はマディーレに比べて大分暑い。張り切って一張羅の真っ赤なドレスを着ていたアシュリーだったが、歩いている間に上着を脱ぎ、袖をまくり上げ、それでも汗が止まらずに道端の露天商から凍らせた果物を買った。夏眞では人々の生活に魔術が根付いており、この果物も冷気の呪が掛けられた室で冷やされて売られていた。
赤い大振りの果実は故郷では見たことがなかったが、瑞々しく酸味がきいていて美味しかった。後で忘れずに名前や値段、故郷でも育てられるかどうかを調べよう……と腰を浮かせかけたところへ突然小柄な少年がよろめいて来てアシュリーはバランスを崩した。
「きゃっ」
「あっ、す、すみません、俺……」
「いいえ、私は大丈夫。あなたこそ怪我はない?」
「はい、はい大丈夫です、ほんとすみません」
少年は頭を下げつつ立ち去ろうとしたが、うわっと声を上げて立ち止まった。見れば、大柄な人影が少年の行く手に立ちふさがり、しかも少年の手首を捩じり上げている。すわ暴漢か、とアシュリーは反射的にその人物に近寄り抗議の声を上げた。
「あなた、その手を放しなさい!彼はただぶつかっただけよ、乱暴はやめて」
「無論、乱暴をはたらくつもりはない」
近くで見ると、ますます背が高い。夏眞風の前合わせの青い服、チョコレート色の肌、艶やかな漆黒の髪、そして濃い蜂蜜を固めたような金の瞳と視線がぶつかった。その静かな落ち着きが湛えられた双眸はしんと凪いでいて美しく、アシュリーは思わず息をのむ。
「彼があんたの財布を返せば手を離すさ」
アシュリーがはっと懐に手をやると、紐で括っていた筈の財布がいつの間にかなくなっていた。船の舫にも使われるマドルの強靭な糸がすっぱりと断ち切られている。アシュリー自身の服や体に傷の付いていない手際の良さに肌が粟立つ。さっきぶつかった時だ。全く気が付かなかった。
少年が観念したようにアシュリーの財布を取り出して彼女に返す。アシュリーは慌てて受け取って中を確かめた。勿論こちらの財布はデコイだが、だからと言って盗まれて良いというものでもない。
「次に見つければ警督府に突き出す」
言い含められた少年が渋々頷き、人混みの中へ消えていく。
「あの……申し訳ありません、私、勘違いして……」
恥じ入りながら謝罪するアシュリーを見下ろして、男は馬鹿にしたように口の端だけで笑った。
「いいんだそんなことは。それよりおのぼりさん丸出しって恰好はやめた方がいい。その服、マディーレ出身だな。すぐに解る。なるべく早くこの国の服を買え」
「ええ、そうします」
「それから、お前に赤は似合わない。目の色と合わせるか、若草色にするんだな」
余りに明け透けな物言いにアシュリーは呆気に取られたが、そこは持ち前の社交力で気持ちを立て直しにっこりと微笑み返した。すると今度は男の方が驚いたように顎を引き、それからきゅっと目を細めて笑った。
あら。
人懐っこい笑みにアシュリーは驚く。そんな笑い方も出来るのね。
「じゃあ俺はこれで」
それだけ言って男は去って行った。後に残されたアシュリーは屋台の店員が気づかわしげに覗き込むのにも構わず、自分の直感が囁く声に耳を傾けていた。
即ち、”あれは大物だ”と。
ハルドリア・ラシード・アランバルリ・ファッラムタール。
砂漠の王国ファッラムタールの王子。通称はハルド。アシュリーよりも一つ年上で、つまり現在十六歳。王位継承権は十二位で現在の王宮内の情勢では王位に就くことはほぼ有り得ない。そのため、六市同盟を利用して遊学中。
弓、剣、馬術において学位を取得済。学位は通常は年間を通して取得するものだが、元々の素養もあり半年でこれらを得たというのだからその腕前は推して知るべし。負けん気が強く上級生から売られた喧嘩を買って、しかも相手をのしてしまったというのだからとにかく武術に長けているらしい。
更に現在は第三界数学理論の権威であるムナジェド教授の元で勉強中だという。また、ファッラムタール王家の血統である火の魔術も嗜んでいる。
「つまり、二千六百三期生期待の星ってことね……」
女子学舎中庭の東屋で茉莉花茶を啜りながらアシュリーが溜息を吐くと、友人のカナンが頷いて相槌を打つ。カナンもファッラムタール出身で、アシュリーの得た情報の大半は彼女からのものだった。
この一週間でアシュリーは港で出会った人物についての情報を収集し精査した。あの辺りを歩いていてあのぐらいの年齢なら恐らく学苑の生徒であろうとあたりを付けたのが正解で、そして彼はアシュリーの予想以上に有名人だった。
(あの服、仕立てが良いとは思ってたけど王族だったか)
遠慮のない物言いにも納得がいくというものだ。アシュリーがあれから赤色の服を封印したことは彼女だけの秘密である。
「アシュリーはハルド先輩を狙ってるのね」
カナンがアシュリーの茶碗に茶を注ぎ足してくれる。アシュリーは頷いて饅頭に手を伸ばした。
ファッラムタールは丁度隣国だし国土の大半が砂漠なので向こうに糸や織の生産地は少ない筈。王族ともなればその親類や関係者はそれこそ星の数程いるだろうしその半数は女性だ。ドレヴァンツの主要商品である織物と宝飾品のセットを気に入ってもらえれば。頭の中で試算しただけでも笑みが零れるアシュリーである。
しかし、出来ればさり気なくお近付きになり距離を詰めたいのだ。あまりに商売っけを出し過ぎて不快に思われては元も子もない。
皮算用にニヤついているアシュリーを見ながらカナンも自分の茶碗に口を付ける。
「ダメ元で夏至祭のダンスに誘ってみたら?」
「夏至祭?」
アシュリーが首を傾げるとカナンは目を瞠り肩を竦めて大袈裟に”呆れた”と表現して見せた。
カナンによると、つまり夏至祭は夏眞の四節大祭の一つであり新年の祝祭に次いで大きな季節行事であるらしい。夏至を挟んだ三日間開催され、期間中は貴賤の別なく誰もが飲んで歌って夜通し踊り明かす。学苑でも大ホールを使った舞踏祭が開かれ、生徒たちは二人一組のペアを組んで参加する。
女生徒たちは夏至祭が近付くと実家に頼んでうんと上等なドレスを仕立てて送って貰ったり、この時期には装身具の商人も構内に訪問販売に訪れたりする。生徒相手の商売なので一つ一つの品は高いものではないが、ここにも商売の芽がありそうでアシュリーの瞳が俄然輝いた。
「アシュリー……商売の話じゃなくて、ハルド先輩を誘ってみたらって話よ」
「あら、でもそれだけ人気ならもうダンスの相手は決まってるんじゃない?」
「でも、一晩中踊るんだし、一曲くらいチャンスはあるんじゃない?」
なるほど。アシュリーは顎に中指を当てて考える。そんなアシュリーの様子を見てカナンはしみじみと息を吐いた。
「アシュリーって本当に変わってるのね。ハルド先輩と、いいえ、ハルド先輩じゃなくてもいいけど折角この学苑に来たんだし誰かと恋に落ちたりしてみたいとか、素敵な出会いがあったらいいなとか、そういう風には全く思わないの?」
思いもかけないことを言われてアシュリーは素直に驚いた。
恋。
恋とは。
恋をするってどんな感じだろうか。
「カナン、あなた恋したことあるの?」
問えば、いつもは何でも歯切れよく話すカナンが珍しくはにかんで口ごもった。なるほど、この年頃ともなるとみんな人並みに何かしらのロマンスがあるらしい。
「恋っていいものよ」
目元を赤く染めて控えめに言ったカナンはとても可愛らしかった。
アシュリーはまだ、誰のことも好きになったことがない。
家族や、友達や、店で働く従業員のみんなのことは好きだ。けれど、物語なんかで読んだことがある。
恋をするというのは、そのどれもと違う燃えるような情熱を一人の相手に抱くことらしい。
今までそういったことを話せる同年代の友達が身近にいなかったのもあって、まるで意識したことがなかったが。
誰か特定のたった一人のことを好きになって、その人と結婚して家庭に入ってこどもを産んで。
実は、アシュリーには、世界でほんの数人にしか知られていない秘密がある。
好きになった人が、その秘密を知っても私を嫌わないでいてくれるだろうか。
まだ何も知らなかった子供の頃、それを秘密にしないといけないなんて知らなくて、そのせいで嫌な思いをしたことがある。それで、今では誰にも言わないようにしている。仲良くなった人にも、誰にも。
でも、誰かを好きになって、その人も自分を好きになってくれるのなら、包み隠さずに話してしまいたいと思うだろう。だって好きな人に隠し事をしているのって、きっと辛い。
そういう人がいつか、もし出来たら。
でもそれより今は夏至祭。ハルド・アランバルリだ。
夏至祭までひと月を切り、学苑内の空気はにわかに浮足立っている。ハルドは夏至祭の実行委員に担ぎ上げられたらしいので、とりあえずアシュリーも委員に参加することにした。彼はこちらに気付いているのかいないのか、そもそも同じ委員と言えどこちらは下級生の下っ端で向こうは個人で剣舞を披露する程の主役であったため顔を合わせる機会すら殆どなかったが、そこで一緒になったハルドファンの女生徒たちと仲良くなり更に色々とハルドの情報を入手することが出来た。
桃蜜酒が好きであること。よく着る色は青か紫。個人の御紋は柊。厩舎に国から連れてきた愛馬がいて、名前はホルキオ。
「御紋入りの馬着を送るなんてどう?」
夏至祭に使う提灯を組み立てながら呟くアシュリーにカナンは顰め面をして見せた。
「お近付きになるのに物を贈るのって賄賂っぽくて嫌がられないかしら」
「そうだよね。しかも向こうは王族だし……王族が欲しがるものって何かなぁ」
「……王位とか?」
「それは私にはどうしようもないわ」
カナンは手先が器用でアシュリーが一つ組み上げる間に三つは仕上げてしまう。これを学内の木という木に吊るして眠らない学苑を作り出すのだ。
「解らないわよ。商人力で上位の王位継承者を消しまくるとか」
さらっと恐ろしいことを言ってのけたカナンは仕上がった提灯に模様を描き入れ、それらを抱えて立ち上がった。頬杖をつくアシュリーを眺めてゆったりと笑って見せる。
「結局、正攻法で行くのが一番なんじゃない?」
「先輩、先日は助けて頂きありがとうございました」
東棟の回廊で弓の授業を受けた帰りのハルドをつかまえたアシュリーは開口一番そう言って頭を勢いよく下げた。幾人か連れ立って歩いていた彼の旧友たちはこんなことには慣れっこなのか、先に行くと声を掛けて去っていく。その場にはハルドとアシュリーの二人が残った。
結局、何のかんのと考えた末にアシュリーはカナンのアドバイスを採用することにした。下手に根回しなどして印象を損ねるよりも、誠実さを全面に出した方が感じが良いだろうとの考えからだ。
「先日?何のことだ。悪いが講義で隣になったときにあんたのペンを拾ったとか、剣の授業の最中に目が合って微笑んだとかならそれはあんたの勘違いだから期待す」
「いいえ、いいえ違います!私は愛の告白に来たわけじゃありません!」
「じゃあなんだ」
アシュリーは呼吸を整えると入学の日に街で助けてもらった礼を改めて述べた。しかしハルドは全く覚えていない様子で、怪訝な表情を崩さない。
「そんなことあったか……?いや、あったとして別に何の気なしにしたことだ。というか礼を言うには遅すぎないか」
「う、それは……その通りです。実は今日は、先輩に折り入ってお話があって」
「夏至祭のダンスの相手なら一曲目から十六曲目まで全部埋まってる」
「ぐ、」
悉く先手を打たれアシュリーは言葉に詰まった。頭の中で出発の日に祖母に言われた”世間知らずの小娘”という言葉がぐるぐると渦を巻く。商売のことばかり考えて、周りに全く目が行っていなかった結果がこれだ。しかし、ここはとにかく食い下がるより他ない。アシュリーはめげずにハルドに詰め寄った。
「で、では、何かご入用の物はございませんか?私の実家は商売を営んでおりまして、特に宝飾や織物には強く、もし先輩が夏至祭に向けて新たな仕立てなどお考えでしたら……」
「なんだ、お前商人の子か」
ハルドはその蜜色の瞳をきゅっと細めて馬鹿にしたように口を歪めた。
「擦り寄るのが目的なら諦めろ。俺が王家の出だということは解ってるよな?金に不自由したことはないし、金で買える物は大体手に入る。今更田舎出の商人の娘に用立ててもらう物なんか何もない」
余りの物言いにアシュリーは自分の頬がカッと熱くなるのを感じる。ハルドは鬱陶しそうに、犬でも追い払うように手を振ってみせた。
「そんな、そんな言い方……」
「べそをかくのは止めろ。それでも本当に商人の子か?俺が今まで出会った商人たちはみんな、蛇のようにしつこくて牧師のように口が回る連中ばかりだったぞ。泣き落としなんかで物が売れると思ってるのか?」
「泣いてません!」
ハルドは呆れたように溜息を吐いて肩を竦める。アシュリーはやり込められた悔しさのあまり、何も言葉が出てこなかった。口は悪いが、ハルドの言うことはもっともである。上手く切り返せない自分が歯痒かった。通り掛かった生徒たちの奇異の眼差しに居心地の悪さを感じたのか、ハルドはぐしゃりと髪を混ぜて苛立たしげに呟く。
「もしお前が本当に俺の信頼を勝ち得たいなら……」
ハルドの言葉にアシュリーが顔を上げると、射貫くような視線とかち合った。アシュリーは初めて出会った日にしたように、決して目を逸らさずその金の眼差しを真正面で受け止める。
「金では手に入らない物を売ってみろ。俺が真に望むものを眼前に差し出してみせろ。そうしたら、」
お前を俺の御用達商人にしてやってもいい。
それだけ告げて、初めて出会った日のように振り返りもせずにハルドは去って行った。アシュリーは敗北感でいっぱいになりながら回廊に立ち尽くしたまま、その後ろ姿を見送る。ハルドから投げかけられた問がアシュリーの中でこだましていた。
金では手に入らない物を売る。
初夏の風が、難しい顔で考え込むアシュリーの髪を優しく揺らして吹き過ぎていく。
結局妙案の浮かばないまま、アシュリーは夏至祭当日を迎えた。今日からの三日間は全ての講義が休みになる。女生徒たちは女子寮の広間に集まってきゃあきゃあ言いながらこの日のために仕立てた一張羅を着付け合い、化粧の出来栄えを確認しては頷き合った。
アシュリーも、実家から自分に許されている資金の中で新しい夏眞風のドレスを仕立てた。前合わせで、腰のところを大きな帯で締める空色のドレス。一見無地のように見えるがよくよく見れば少しずつ色の違う糸でマディーレの神獣である六翼の蜂が縫い取られている。蛍石のネックレスと揃いのイヤリング。長い髪は白いリボンを編み込んで背中に垂らした。
ハルドとの取引に気を取られていたアシュリーは自分の装いなどどうでも良かったが、カナンにぐいぐいコルセットを締められ白粉をはたかれ紅を引かれて中庭に出た。昨日まで自分たちが一生懸命飾り付けていたそこは、普段と同じ学舎にも関わらず全く違った場所に見える。
中央のテーブルには料理が山と積まれ、屋台も沢山出ていた。音楽を専攻している生徒たちは楽団を組んで生演奏を行っているし、屋根のある舞台では劇が上演されている。
「ハルド先輩の剣舞は夕方の演目の一番目ね」
揚げた団子の砂糖掛けを頬張りながらカナンがプログラムを確認した。アシュリーも、本人に話を振られたときのために絶対に見ておかねばならないと思っていたので、二人は演舞の会場が開くと同時に同じことを考えている女性陣と押し合いへし合いしながら何とか最前列に陣取る。
演舞は東庭の一角、池の上に設えられた舞台で行われる。平素は何ということのない庭園だが辺りは丁度夕暮れで薄暗く、舞台だけが幾つもの提灯と煌々と燃える松明によって照らし出され、幻想的な雰囲気に満ちていた。薄く削った氷に角切りの菴羅をのせて蜜を掛けた菓子をつつきながら待っていると、ドォン、と銅鑼が大きく三度鳴らされる。
カナンは食い入るように舞台を見上げているが、アシュリーは話の種に見に来ただけで真実彼の剣舞に興味があるわけではなかった。なかったのだが。
舞台中央の迫に乗って現れたハルドは、深紅に金糸で獅子が描かれた装束を着込んでいた。装身具も剣の拵えも今夜のハルドは何もかも彼の故国ファッラムタール風に統一されている。しばらく彼は動こうとはせず、そうしてじっとしていると彼自身が一振りの剣になったような静けさを感じた。
やがて、その緊迫を破るように謡曲と同時に彼が力強く一歩踏み出す。その振動で周囲の空気さえも震えた気がした。
(ハルド先輩……巧い……!)
剣舞を見るのが初めてのアシュリーにも解る程、ハルドの技巧は卓越していた。力強い足運び、繰り出される振りの素早さ、静止するときには剣先まで彫像にでもなったかのようにぴくりともしない。ハルドの動きに合わせて剣の房飾りがふわりと踊り、蝶が舞っているかのような軌跡を描く。
すぐそこにいるのに、まるで天のずっと高いところで踊っているみたいだ。
ハルドは、正にその場の支配者だった。
砂漠の国の若き獅子。
アシュリーは、素直に彼を美しいと思った。
「きゃああっ!」
突然何もかもをぶち壊すような甲高い悲鳴が上がった。次いで、パ、パ、パンッと連続して何かが破れて弾ける音が聞こえる。アシュリーは咄嗟に身を屈めて態勢を低くした。何か大きな物が倒れる音がして、辺りが急に暗くなる。
「何だ!」
「どうしたの」
「提灯が急に」
「狙われてる!」
「逃げないと危ない!」
「落ち着け!落ち着いて!」
「出口は」
「やめて押さないで!」
あっという間に会場は混乱に陥った。ぐるりと張り巡らされていた提灯が突然爆発したらしく、周囲は暗闇と煙と悲鳴に包まれている。教師と、官僚候補生の生徒が必死に他の生徒たちを誘導する声を上げるが、誰もが恐怖と焦燥に駆られて出口へと殺到した。誰かが足を引っ掛けたか何かして、篝火の台が倒れ祝幕がぱっと燃え上がる。アシュリーはいよいよ恐慌をきたした人の波に弾き出され、慌てて舞台によじ登って煙を吸わないように口元にハンカチを当てる。棚引く硝煙で視界が利かないが、しばらくそうしていると目が暗さに慣れてきた。体は動く。痛いところもない。
(カナンは……先輩は!?)
キン!と金属同士がぶつかり合う音がした。はっと音がしたと思しき方を向けば、二つの人影が相対しているのが見える。一人は恐らくハルド、そしてもう一人は。
「カナン!」
アシュリーの声にカナンは振り向いて一度だけ視線を寄越したが、すぐにハルドに向き直った。カナンは先程まで着ていた祭用のドレスを脱ぎ捨て、ぴったりと体に添った黒衣に身を包んでいる。幅広の、血に濡れた短刀を構え、見たことのない険しい顔付きでハルドを睨みつける。
ハルドは、左腕に大きな裂傷を負っていて、傷口から鮮やかな色の血が溢れ出していた。最初の混乱のうちに斬りつけられたのかも知れない。
「カナン……ハルド先輩!」
「来るなよ」
ハルドに短く制止され、アシュリーは立ち止まった。ハルドの表情も真剣で、カナンが動けばいつでも斬りかかれるよう剣を構えている。庭園の入り口付近では、放水による消火が始まっているのか大声が飛び交っているのが聞こえた。
「あなた個人には何の恨みもないけれど……我が君のために、死んでもらうわ」
「ふん、どうせ俺の従兄弟か誰かが差し向けたんだろう。俺が死ねば継承位が上がる立場の人間が」
「機会を狙っていたのよ。提灯の係になれて幸運だったわ。呪を描き入れるのは簡単だったもの」
カナンはすっと姿勢を低くしたと思うと舞台を蹴ってハルドに跳びかかった。打ち込まれた一撃はハルドにあっさりと受け流されるが、身のこなしの軽いカナンは二度、三度と短刀を繰り出す。左腕を庇っているせいか、ハルドの動きは鈍い。ハルドが身を捩ってかわしたところへ、カナンはぐいんと体をひねって蹴りを叩き込んだ。まるでしなやかな猫のような動きで、ハルドはバランスを失って倒れ込んだ。
カナンはハルドの剣を奪って彼に馬乗りになる。ハルドは震盪を起こしでもしたのかぐったりと動かない。
「さようなら、ハルドリア殿下」
剣が、ハルドの胸に向かって振り下ろされる。
だめ。
そんなのだめ。
嫌よ、やめて。
『ばけもの!』
昔、まだアシュリーが幼かった頃にこの天恵を使ったときに、友達だった少年に言われたことばだ。その時は、確かテーブルから落ちて砕ける筈だった陶器の杯を中空で止めて見せたのだったか。
天恵は、書いて文字の通り天与のギフトだ。生まれ持った特別な能力のこと。マディーレの、特に田舎だったドヌーイに天恵持ちの人間は少なかったから、周りの人間もその力について詳しくはなかった。
アシュリーは、例えば自分の髪が金であることや、瞳が空色であることと同じように自分に備わった天恵を当たり前だと思っていたから、ばけものと呼ばれて怖がられたことが悲しかった。
いいかい、誰にも言ってはいけない。みだりに使ってもいけないよ。その力は、神様に与えられたものだけれど、誰にでもあるというわけじゃない。それはきっと、お前を助けもするが困らせもするだろう。
祖母はアシュリーにそう言ったし、彼女も素直に従った。食事をするとか喋るとかそういうことのように、どうしても使わなければいけない力じゃない。そんなことで友達を失くすのは、寂しいことだと思った。
「だから、その力はね、」
どうしても必要だと思うときだけ。
自分か、他の誰かの命を守るときにだけ使いなさい。
祖母の声が、まるで今そこで話しているかのように鮮やかに耳元で甦る。
アシュリーにはカナンの動きが、時間を引き延ばされたかのようにゆっくりしたものに見えている。
止まれ。
止まれ止まれ止まれ止まれとまれとまれとまれ!
その人はね、私のお客さまなんだから。
だって商人は、客を守るものだわ。
例えハルドが客じゃなかったとしても、目の前で誰かが死んだりするのは絶対に嫌だと、アシュリーは強く念じる。眉間が熱くなって、強い光を見つめたときのように目の前が眩む。
この力があって良かった。
だって、誰かを救うことが出来るもの。
見えない糸に絡め取られたかのように、カナンの体がぴたりと止まる。カナンは驚いて必死に腕を動かそうとするが、彼女の体は彼女自身の意志に反してほんの僅かも動かすことが出来ない。
「先輩!起きて!起きてください!」
アシュリーは、目を見開いたまま叫ぶ。相変わらず視界は眩んでいて、目は開いていても何が起きているかは見えない。それでも、カナンの悲鳴と床に投げ出されるどさっという音が聞こえたので、形勢が逆転したであろうことは解った。
「殺さないで!」
目を開けていられなくなって、今度はぎゅっと強く瞑ったままアシュリーは叫んだ。カナンが殺されるのを見るのも、ハルドが殺すところを見るのも嫌だと思った。それは、最終的には法で裁かれてそういう処分になるのかも知れなかったが、今ここで、この学苑の夏至祭でそうなるのは、嫌だと思った。
恋がいいものだと呟いたときのカナンの顔を、多分アシュリーだけが知っている。
カナンは、きっと自分のただ一人の人のために、ハルドの命を狙ったのだ。
私の、学苑で初めて出来た友達。
「お願い……殺さないで……。カナンを殺さないでください……」
「……解った、殺さない」
突然、顔をごしごし乱暴に拭われてアシュリーは驚いて身をよじる。いつの間にか傍に来ていたらしいハルドが、お前今見えてないのか、と問うので頷いた。
「動くな、鼻血が出てる」
「えっ鼻血。久々に出しました。子供の頃以来かも」
「さっきのあれ、お前がやったのか」
少し迷ったが今更隠すのも妙だと思ったのでアシュリーは素直に頷いた。天恵を使ったのは久々だったし、一気に集中したので体が驚いて鼻血を出したのだろう。天恵と言ったって、アシュリーに出来るのはあれきりのことだ。物を、自分の思う通りに動かしたり止めたりするだけの力だ。
徐々に視界が戻ってきて、思ったより至近距離にハルドがいたので、ぎゃっと声を上げて飛びのく。ハルドの後ろでは、気を失ったカナンが帯で縛り上げられて寝転がっていた。
ハルドは、あの蜜色の瞳でアシュリーを覗き込むとしみじみと息を吐いた。
「お前は……大した商人だな」
「え?」
「つまり、お前は俺に恩を売ったってわけだ」
ハルドは大きく口を開けて高らかに笑った。それが、命を狙われた後だというのにあんまり屈託ない様子なので何だかおかしくなってしまって、アシュリーもつられて鼻血と汗にまみれた顔で笑う。
庭園の火は粗方消えて、辺りには再び宵闇が戻ってこようとしていた。
二人は、消火隊が駆け付けるまで何時までもそこで笑い続けていた。
これが、伝説の女商人アシュリー・ドレヴァンツが最初に売った大きな大きな品物の話だ。
その後アシュリーが学苑でどんな日々を送ったのか、ハルドは国に戻った後どうなったのか、二人の運命がどのように交わったかは、また別の話。