この音はエンドロールまで恋に落ちる時の心臓の音を、誰か教えて欲しい。
何でも知っていそうな紫煙は笑いながら何と答えてくれるのだろう。
「十六時のご飯をチリちゃんは昼飯とは呼ばん」
「夜ご飯要らないかも....というか何時に帰れるんだろう....」
「わからん。ラナ、トップのとこまで走って思いっきり甘えた声で今日はもう休みにしようて言うてきて」
「言えるか」
正直腹が空いているかと言われればそうでも無い。が、何かを詰め込まなければこの後の業務に支障が出てしまうだろう。目の前のアボカドカレーに銀色のスプーンを突っ込む。
「ブラックや....アオキさんなんて声がいつもの半分しか出てへんくて何言っとるかまじでわからんかったもん」
「ハッサクさんに怒られてたもんね」
目に疲れを残しながら笑うラナの左手の薬指に視線が動いてしまう。銀色の輝きが照明に当たって宝石のように光っている。眩しいだけだと言い訳をして、手元のカレーに無理やり目を動かした。
さしずめ、結婚の約束というものだろう。いくら個々人の自由を謳うパルデアといえど、同性婚に関してはまだ法律が整っていない。同じように同性を恋愛対象としている自分にも関わりのある話題だ。といっても、今のところ将来を見据える相手は横にいないのが現状なのだが。
「あ、トップ」
ラナは自分に向けていた顔の向きを変えて、革靴の放つ音の方を向いた。オモダカはただ通りがかっただけのようで、その姿はすぐに壁の向こう側へと姿を消してしまう。ラナの瞳に光が増している様子を、ただ見ていた。
「今日の晩御飯どうしようかな。オモダカ、遅くなるだろうし」
ああ、とか、せやな、とか。そんな事を口が勝手に返答してくれた。口の中のスプーンに少しだけ歯を立てたって、胸に疼いた何かの気配が紛れることは無かった。ええなぁ、と呟いたのが、心の中だけで本当に良かった。
結局、リーグを出たのは時計の針がテッペンを過ぎた頃だった。自分の家では無いが、通い慣れた場所に今日は自然と足が向いてしまう。彼女はきっとまだ起きている。
「何時だと思ってるの」
「だって自分ちのほうがリーグに近いんやもん」
「そんな変わらないのによく言うよ。服、先に洗っちゃうから早く部屋着に着替えな」
「ほーい」
持つべきものは旧友、腐れ縁。煙草の味も一緒に覚えて、学生時代は何処へだって駆けずり回った。居心地の良い場所、恋愛に発展しないと言い切れる相手はとても貴重だ。彼女、ツユの懐の広さに甘えてもう何年になるのだろう。
「今日はどしたの」
「んー、人恋しくなった」
煙草の時間は、互いに嘘をつかない暗黙のルールだった。ここでは建前も言い訳も要らない。まるで鏡に話しかけるように、気心を知り尽くしたお互いは、互いの半身のように。
ベランダに備え付けられた椅子とテーブルと灰皿は、折半で購入した。これで益々入り浸られるな、とボヤいた彼女の声が懐かしい。
「たまに出てくる上司と付き合ってる子の話聞いてて羨ましくなったとか?」
ここまで来るとエスパーなのではないかと思う。
「はい、よくお分かりで」
「最近飲み歩いてもないし、そんな事だろうと思った」
「羨ましいと思ったんやけどなぁ....なんや恋とかもうよぉわからんようになってしもた」
「仕事忙しくて新しい人と出会えてないからじゃない?恋をしたいっていうより刺激がほしいとみた」
「....もうぐうの音も出んわ」
言語化出来ないモヤモヤを、ツユはいとも簡単に言葉へと変換して届けてくれる。どのジャンルかはあまり詳しく知らないが、ライターとしてものを書く彼女らしさがなせる技なのだろう。
「恋に落ちた時って、どんな音が鳴るんやっけ」
聞こえない心臓の音を皮膚の下で動く血管を通して聞こうとしてみる。きっと今は穏やかに波打っているに違いない。
「そりゃギターの音でしょ」
「いつのドラマの話しとんねん」
「冗談。歳食うと新鮮な感覚が無くなっていくからなぁ....同じ音にはならないんじゃない」
「雷に打たれたような、はもう聞けへんてことか」
実際、そのような感覚を覚えた記憶があるようなないような。自分は始まりよりどうしても別れ際の方を思い出してしまうところがある。毎回ポタリと雨が落ちるような感覚を覚えるものたちばかりだ。学生時代のように、その雨によって生まれた波紋を別の音で消し去る手段はもう取れないだろうと思ってしまう。
初恋。
「ツユは、初恋の時どんな音したか覚えとる?」
煙を吐き出して横を見れば、同じように紫煙に包まれたツユと目が合う。ツユは思案するように斜め上を向いて、ひと口吸った煙を吐き出しながら微笑んだ。
「トンカチで釘を打たれた音」
「物騒やな」
「それくらい衝撃的だったのかも。まぁ、初恋、そうだね、初恋になるのかもしれない」
「珍しく曖昧やん。で、ツユの初恋奪ったんは誰な」
「チリ」
名前を呼ばれてドキリとしたが、自分を指す言葉のニュアンスではなく、言葉を遮る方だと感じた。目が合った彼女は、相変わらず煙を吐き出しながら、笑っている。彼女の煙が自分の肌に触れる前に、ツユは口を開いた。
「私、恋人が出来ると思う」
自分の身体を裂かれるような音が、耳の奥でいっぱいに広がった。
「で、チリは友達に恋人が出来るかもしれないという事にショックを受けて、落ち込んで....いると?」
「よぉわからん....でもなんかこう、あぁ、上手く言葉にできん....」
あの後、どうやって同じ部屋で寝たのかさえ覚えていない。いつも間にか多忙な日々が過ぎやっとの休日切符を片手に、ラナとオモダカの住む家に駆け込んだ。
「その方の事が好きだったのではないですか?」
目の前に座るオモダカが、ラナのいれた珈琲を口にしながら心のモヤを増やす言葉を言い放つ。
「いや....好きとか....そんなんちゃうと思うねん」
「では単純に、親しい友人を他の方に掠め取られる事に憤りを感じているのでは?」
「チリちゃんもそう思っとるんやけど....そうだと思うんやけど、それだけで片付けられんから悩んどるというか....」
「煮え切りませんね」
「ここ数日こんな感じなんだよねぇ、チリ」
自分がいかに、ツユの言葉に甘えていたのかを思い知る。何でもわかってくれる友達が、ずっと傍にいてくれる保証は無いというのに、ツユだけは違うはずだったという身勝手な思いが胸を占めていた。
「恋っていうより、愛してた、とか」
ラナがぽつりと、思いついたものが口を出てしまったように放った言葉が心と顔を引き上げる。大きな音がしたベランダへポケモン達の様子を確認しに去っていってしまった背中を目で追いかけた。恋というより、愛。家族愛だとか、それに近しい感情を抱いていたということなのだろうか。
「でも....家族とはまたちゃうような気もするんよな....」
「家族に感じる愛はまた別物でしょう。過ごしてきた年月も、環境も異なりますし」
「....オモダカさんは何でラナなん」
口に出してから、失礼な言い方だったのではとはっとする。が、オモダカはその言葉の真意が読めているからか、特に不機嫌になることは無くベランダの方にそっと目を向けていた。
「知りたいと思ったからでしょうか」
「知りたい」
「ラナの事をもっと知ってみたい、どのようなものが好きで、どのようなものが嫌いなのか。彼女の色々な顔を見てみたかった」
マグカップの口をそっと拭うオモダカの仕草を、最近ラナもするようになった。相手への興味、関心。至極真っ当な恋愛のはじまりだ、と心の中でひとり呟く。
「ラナが言ったように、恋と愛はまた別のような気がします。私達は、恋の延長線上に愛があった。愛からはじまるものは、恋より気付きにくいのかもしれませんね」
人による、という言葉は、オモダカなりの慰めだったのだろうか。確かに、自分は真っ当な恋愛を、真っ当な恋というものに拘りすぎているような気もしてくる。自分の中のテンプレートに当てはまらないものを、必要以上に排除してはいないだろうか、と感情を模索した。
「そんなに恋人を作られるのが嫌なら、いっその事、そう言ってみてはいかがです」
「いや....それは、我儘が過ぎんか....?」
「そうでしょうか。チリがそれ程に心寄せているお相手なら、お相手の方も、同じくらいチリの事を大切に思っているのではないですか」
からりと、小さな飴玉を口に入れた時のような満足感が一瞬心に落ちる。ツユも、同じように。あの時間をただ続けたいと望んでもいいのなら、伝えてもいいのなら。確かに、それで嫌だと言われれば、こちらだってそれなりに方向性が決まってくる。
「....確かに」
「善は急げ、と言いますし。今晩にでも訪ねてみては?」
「そうします」
ラナのいれてくれた珈琲は少し冷めてしまっていたが、美味しく飲んで欲しいという気持ちが伝わってくるようなまろやかな味がした。ツユのいれてくれる珈琲も、同じ味だったと思い出す。
「あと一個聞きたいんやけど」
「何でしょう」
「オモダカさんは、ラナに恋したなあって時、どんな音がした?」
飲み終えてしまったマグカップを、まだ残っているであろうラナのものと入れ替え、いたずらな笑みを浮かべながらオモダカは答えをくれる。
「微睡みに囁かれる、子守唄のような音でしょうか」
このインターホンを押す事に、緊張なんて感じたことは一度もない。いつだって、流れるように、なんでもないように、迎え入れてくれると知っているから。ただ、今の気持ちを受け入れてくれるかどうかわからないこの状況下では、この動作でさえ覚悟がいる。まるで告白でもしに行くみたいじゃないか、とツッコミを入れた。
(まぁ、あんまり告白と変わらんかも知れんな)
深呼吸をしたら、幾分か落ち着いた。インターホンを鳴らそうとしたその時、ガチャリと鍵が開くような音がして、中からツユが顔を出した。
「やっぱりチリだ。どしたの、インターホンも押さずに」
音で気付いたのか、もしくは本当に不思議な力でも持っているのだろうか。尚も室内に足を踏み入らない自分を見て、ツユが心配そうな顔をする。その顔に、心の中で想いの雨が降り注ぐ音を感じた。
「恋人、作らんで」
「....」
突然の言葉に、ツユが目を丸くしている。無理もない、そんな事を言われたってと思うだろう。でも、降り始めた雨が押し寄せる水となって、言葉が口から溢れ出して行く。
「ツユの事が、好きなんかどうかはわからん。でも、ツユに恋人が出来るんは嫌や」
「....勝手だなぁ」
「勝手で我儘で、ツユの前ではどうしたってしょうもないチリちゃんやけど、ツユの部屋で過ごすあの時間が無くなるんは、嫌」
丸くなった目は少し陰って、思い出し笑いをするかのように、ツユは薄く笑った。その笑みの中に含まれる感情が、今の自分にはまだわからない。それでも、言いたいことは言った、と彼女の言葉をただ待つ。
「いいよ」
「....へ」
「ま、あっちから言い寄られたから良いかなって思ってただけだし。私も、チリと過ごしてたほうが楽しいしね」
ツユが更に開け放ったドアの風が髪を撫でる。ふわりと漂う彼女の部屋の匂いは、やはり自分の中で特別に落ち着く。これが恋なのか、愛なのか、考える時間はこの部屋でこれからも続けられることがわかった事がただ嬉しかった。
「入ってよ、丁度カレー作ったところなんだ」
「....最高」
へらりと笑った自分の顔は、きっと緊張が解けて変な顔をしているだろう。でもそれを、彼女になら見せても大丈夫なのだと、ツユの笑顔を見て思うのだった。
「チリさ、私に卒業式の日、なんて言ったか覚えてる?」
「え....何やっけ。これからもよろしゅうとかそんな話?」
「覚えてないか。チリ忘れっぽいもんね」
何をしたって綺麗な顔が、煙草の煙で覆われている。顎に手をやり何かを考えて始めたチリに、ざまぁみろと心の中で毒づいた。私の心に釘を打ったあの日を、思い出すまでそうしていればいい。
『ツユに恋人出来たら、チリちゃんそいつ殺してまうかもしれんなぁ』
刺された釘は、錆びて、心の底で鈍い音を未だに放っている。まぁ、仕方がない。呪いをかけた者がそれを忘れるのは世の常だ。知らないのなら、覚えていないのならば、そのままで。
(ここまで露骨に恋人出来ることに対して反応してくるとは思わなかったな)
私だって、もうこの気持ちが恋なのかなんなのかわからない。ただ、それでも
「なぁ、教えてやぁ」
こうしてチリが私を必要としてくれる間は、何時までだって一緒にいよう。今更、要らないなんて言わせてたまるか。
「頑張って思い出して」
頑張って思い出して、私の事を離さないでね。胸の中で、まだあの日のトンカチが大きな音を響かせていた。