パルデア旅行記、一日目地下鉄と飛行機とタクシーを乗り継いで半日。初めてのパルデアの空はイッシュのそれより高く広く、心なしか青く澄んで見える。
重厚な門を押し開いた先はまず上り坂だった。それを上った先には階段。辿り着いた賑やかな広場の遠く向こうにはこれまた長い階段が見える。踏みしめる地面の高さにつられるように気分が上向いていくスグリとは違い、同行者のテンションは下がっていく一方だ。
「げえ、あれも上んのかよ」
「バトルコート、写真で見るよりわや綺麗! 早くアカデミーさ行って今日の使用申請出そう!」
「おいおい、休憩させてくれぃ……」
「んっとに体力ねえな」
ここまで乗り換えでしか歩いていないし荷物だってスグリが半分以上持っているというのに、Tシャツ一枚にジーンズ姿のカキツバタはこの世の終わりみたいな顔で遠くの学舎を見上げている。仕方ないのでもうひとつ追加で荷物を持ってやりながら、スグリは辺りを見回した。季節の花が身を寄せ合うように植わった花壇がぐるりと囲む涼しげな噴水。目にも鮮やかな色とりどりのタイル。その上で楽器を演奏する人。道行きながらそれを聞く人。見慣れた広さの長方形のラインの上を、幼い子供が駆けていく。
広場の真ん中に大きく開けたバトルコートは学園のイベント用となっており、基本的に一般市民の個人利用は受け付けていないらしい。持つべきものはパルデア地方・現役トップチャンピオンの友人ということだ。そんな彼女の直筆の署名が入った許可証は、スグリの手の中でくしゃくしゃになっている。それをひょいと取り上げたカキツバタが長々と書かれた文言に目を通した。
「ほらあ、日付決まってねえんだろい。今の今じゃなくたってバトルコートは逃げねえよ」
「んん、まあ、そっか。万全なときに戦いたいし」
「そうそう。今負けたらオイラ言い訳しちゃうかもよ。足痛えから~って」
だからいっぺん座らしてくれ。そんでなんか食おう。プライドも何もありませんといった顔のカキツバタはそう提案するどさくさで、背中につけていたボディバッグまで外してスグリに握らせる。そういえば、今日は朝早くにブルーベリー学園を出発してから何も食べていない。
写真で見せてもらった立派なバトルコートのことばかり頭にあって気が付かなかったが、ここテーブルシティにはやたら飲食店が多い気がしている。アイスクリーム、揚げたてのチュロス。串焼き肉のワゴン。遠くにはカフェやサンドイッチ屋の看板。それらがひとつずつ視界に入ってきたのを皮切りに、いい匂いがふわふわ鼻腔を通ってスグリの腹をきゅうと鳴らす。
「何にする?」
「座れりゃなんでもいいよ。好きなの選びな」
「……じゃあ、あれがいい」
少し間をおいてスグリが指をさしたのは、自分たちの立っている場所からほど近いワゴン販売のクレープだった。ふんわりとバターのよい香りを漂わせて、まあるく焼いた生地をアルバイトの女性が器用に折りたたんでいる。少し離れた位置からメニュー表と睨めっこしているスグリを横目でちらりと見て、カキツバタが笑いを溢した。
「チョコバナナといちごホイップ?」
「! なんでわかんだべ、俺が迷ってるって」
「エスパータイプだから。両方頼もうぜ」
「え、いいの?」
半分こ、という言葉が続いたのを聞いてスグリはぱっと明るい顔を上げる。すみません、これとこれをひとつずつ。すぐ食べます。カウンター向こうに遠慮がちな手振りを交えて注文する傍から「どっちもアイス追加、クリーム大盛りで」と、カキツバタの横槍が入る。
笑顔で注文を受けた女性店員が陽気な鼻歌を歌いながら、鉄板の上に薄黄色の生地をくるくる、すいすいと伸ばしていく。あっという間に火の通ったそれを調理台の上に移動させ、ホイップクリームを絞る。一周、二周。もう一周。冷蔵庫から出したてのフルーツをカットして並べ、ソースをくるくると絞り出す。白い冷気の立ち昇るアイスクリームをディッシャーですくい落とす。チョコバナナにはチョコレート味、いちごホイップにはバニラ味。中身を溢れさせんばかりの生地を三角に折りたたみ、おまけしてあげると言いながらクリームをもうひと絞り。完成したクレープをふたつとも差し出されたスグリがはっと隣を見やれば、カキツバタはすでにそこには居なかった。辺りを見回せば、少し離れたテーブル付きの椅子に早速腰を下ろしている。全くこういうときばかり行動が早いのだ。慌てて駆け寄ろうと思ったスグリだったが、大荷物の上に両手も塞がりどうにもうまく力が入らない。溢れんばかりのクリームをこぼさないよう、そろそろ、よたよたと近付くスグリの足取りにスマホロトムを向けるカキツバタの顔にひとすじ汗が流れているのが見えた。
「勝手にどっかいかないで!」
「わりーわりー、もう足が限界でよお」
文句を言いながらスグリは隣の椅子に腰かけた。たった数歩歩いただけなのに、パルデアの日差しの下でアイスクリームの表面は柔らかく崩れかけていた。いちごの乗った方を手渡せばカキツバタは素直に受け取ったものの、ふよふよ浮かんだままのスマホロトムにシャッターを切らせたっきり食べようとしない。それどころか、何か言いたげにスグリの方を見ている。その顔にひとつの可能性が浮かび、スグリはその真偽を確かめるべく口を開いた。
「食べ方、知ってるよな?」
「当たり前だろ。皿もフォークとナイフもナシでどう食えっての」
「……ふ」
「んだよ」
「カキツバタにも知んねえことあんだなって」
可能性の一端だったものが現実になり、思わずといった顔でスグリは噴き出した。イッシュにだってワゴン販売のクレープ店くらいあったと思うが、この様子では同年代の友人と休日の街中で、というシチュエーションは未経験らしい。当のカキツバタは予想外に笑われたことを不服そうに唇を尖らせている。あまり見られない表情に気を取られているうち、アイスクリームの溶けた表面が重力にしたがいどろりと包み紙の上を伝いだした。その下の素手を汚さんとするこげ茶色の大元を目がけて、スグリは大きく口を開けてかぶりつく。甘さと冷たさが混じってはじんわり口内に広がってゆく。ともに口に入ってきたバナナもチョコレートもホイップクリームもそれぞれ主張してくる強い甘みはスグリの好みど真ん中で、糖分を欲していた舌と頭が歓喜の声を上げる。同時に表情を綻ばせながらも、さあこれがお手本だとばかりに得意げな顔でカキツバタの方を見た。スグリの顔につられてか、目を細めて笑っている。
「んっ!……ん?」
スグリの美味しい顔につられて溢す笑みにしては違和感があった。喜びというよりは、可笑しさ由来の笑顔である。そしてスグリはこの表情をよくよく知っている。カキツバタの浮かべる表情の中で、いっとう数多く見たことがあるといっても過言ではないだろう。その考えに辿り着くまでに、カキツバタのスマホロトムはスグリの方を向いてカメラのシャッター音を二度鳴らした。とうとう声まで出してくつくつと笑い始めたカキツバタが片目をぬぐうような仕草のあと、空いている側の手をスグリの方へ伸ばしてきた。長い指で掴んだ顎先を目がけて顔を寄せてくる。かすかに整髪料の香る距離に心臓をどきりと高鳴らせて、スグリが思わず目を閉じる。それから一秒。スグリの体感としてはもっともっと長い時間をかけて、よく知る柔らかい感触が落とされる。思っていた――もとい、少しだけ期待していた位置から数センチ横にずれたところに。
「お、美味い」
「わやじゃー!人前!」
「いーだろ。知り合いなんかいやしねえんだから」
一人で変な期待をした恥ずかしさを取り払うようにぐいぐいと薄い肩を押しのければ、悪びれもなくころころと笑う頬を太陽の光が照らしていた。腹の立つ一方で、無邪気な幼さの滲むこの顔をスグリは好きでもある。なんとも複雑な気持ちのスグリをひとり置いていくように、カキツバタは真っ赤ないちごにかぶりつく。嫌味みたいに口元にクリームをくっ付けて。それはさすがに勘ぐりすぎだろうが、と頭で一人ごちながらスグリは睨むような視線を向けた。色の濃い肌の上に白いクリームはいやに目立って主張している。そっちもついてるし。スグリがそう指摘すれば、あーとかなんとか言いながら親指で反対側を拭っている。なんだってこんなときばかり察しが悪いのか。
抱えた頭の片隅に、知り合いなんかいやしないとカキツバタの言葉が反響する。普段なら絶対に踏み切らない方向に見えない天秤が傾いてゆく。
「~~っ、ほら!こっち!」
カキツバタの無責任な言葉のせいで、いつもの人工灯とは違う強い陽射しにあてられたせいで、陽気な音楽に乗せられたせいで。あらゆるものに背中を押されてやっと、スグリはその骨っぽい顎先を掴んでやり返した。それどころか、つんのめる勢いにうっかり、予定していなかった場所まで届いてしまった。ミルクの優しい風味が口内に残るチョコレートと混ざっていく感覚が遠くにあれど、ふにふにと弾力を湛える柔らかさにすべてが上書きされた。もう味など分かったものではない。ガタガタと音を立てあちこちぶつけながら慌てて身を引けば、カキツバタはすっかり綺麗になった口元に指を這わせておお、と呑気な声を上げる。まあるく開かれた金の瞳はスグリの方角に向けられてはいるが、その視線の最終目的地はスグリではなかった。向かいに座るスグリの頭を超えたその先、もうひとつ向こうを捉えている。ほとんど確信に近い予感に、スグリは恐る恐る背後を振り向く。それよりも先に、よくよく知った声がその耳に飛び込んできた。
「なーんか暑いと思ったんだよね。いやあ、熱源はここでしたか」
「アオ、アオイ、なんでっ、パルデアにっ……」
「なんでも何も」
わたし、ここの生徒だし。現パルデアトップチャンピオンですし。続く言葉はどれもこれもまったくその通りであり、スグリひとりがみっともなくわたわたと口先をどもらせている。機械を思わせる大型のライドポケモンに跨って現れた少女、アオイはパルデアの陽射しがよく似合う笑顔を浮かべて地面に降り立った。嬉しそうに駆け寄り、溢れんばかりの歓迎の言葉を並べ立てるその口調は興奮からか少し早口になっている。
スグリ、もう来てくれたの?ツバっさんも!嬉しい!いつまでいるの?どこに行くの?観光ならカラフがおすすめだよ。明るいうちが綺麗かなあ。お昼はハイダイさんのお店で食べて……。それでね、夜はチャンプルタウンの宝食堂で焼きおにぎり食べてほしい!運がよければアオキさんに会えるかも。あ、西回りだったら最初にセルクルタウンのムクロジに行けるね!ふたりとも甘いもの好きだからここ、絶対絶対行ってほしいかも! ああ、ボウルタウンもすっごく素敵だから、ここもゆっくり時間取って回ってもらいたい!あーっ、時間がたっぷりあるならパルデア十景も捨てがたい!オージャの湖も、ドラゴンタイプがたくさんいるからツバっさん楽しいかも!今の時期は春に生まれた子どものシャリタツがいっぱいいてね、すっごくかわいいの。……あはは、前のめりになりすぎちゃった。嬉しくって、つい。今紹介したとこ、マッピング情報まとめてふたりのスマホに送っておくね。
タネマシンガンのように捲し立てられた行先の数々を、スグリは三分の一も覚えていられなかった。慌ててアオイとカキツバタの様子を交互に伺い見るに、おそらくカキツバタはの方は理解できているように見えた。この顔で何も聞いていない場合もあるので油断はできないが。ともかく位置情報を送ってくれると言っていたのは聞こえたから大丈夫だろう。友人の細やかな気遣いにスグリが感謝しているうちに、その場に何やら控えめな電子音が響き始めた。がやがやと賑わう雑踏の中に耳を澄ませれば、その出処はアオイの制服のポケットの中のようだった。
「へへ、キョーダイはパルデアの観光大使も兼任かい。お忙しいこって」
「それもいいかも。……さてと、時間だあ。もう行かなきゃ」
お嬢さんはどちらへお出かけでしょうと、わざとらしく恭しい言葉の合間にクレープの皮をかじりながらカキツバタは訊ねる。スマホロトムの画面から顔を上げたアオイもそれに乗るように、ドレス代わりの制服の裾ををちらりとつまみ上げて答えた。
「この後はね、リーグの取引先とパワーランチなんだ。それからジムリーダー会議に、書類仕事」
「パワー……なんだべ?それ」
「そりゃバトルがつよ~いトレーナーが飯食いながら戦う、バッチバチのやつに決まってんだろ」
「わや!いいなあ、俺も行きたい」
「スグリ、ウソ、ウソだよ」
あとでちゃんと教えてあげてよね。その言葉を最後にアオイは踵を返す。後ろで大人しく喉を鳴らしていたミライドンの顎をひと撫でしたのち、勢いよくその背に跨った。
主人を乗せた彼は後ろ足で大きく地面を蹴り上げ、高く飛び上がる。いちばん高いところまで到達したところで、青銀色に輝く翼がばさりと羽ばたいた。チャームポイントの三つ編みを風にはためかせ、片手を振り上げて、去り際のアオイはいっとう大きく声を張る。
「ハッコウシティの夜景デートもお忘れなくー!」
スグリの顔がぎくりと強張った。当然知っている。この旅行が決まってからというもの「パルデア/デートスポット/おすすめ/学生/大事な日」などと数えきれないくらい検索してきたからだ。ひらひらと手を振り返すカキツバタの顔がこちらを向いても自分の表情がバレないよう、思いきり口を開けてクレープにかぶりついた。勢いに揺れる上着のポケットの奥底で、片手のひらに収まるくらいの立方体がじんわりと存在を主張している。スグリがその重みに口をからからに渇かしているうちに、アオイを乗せたミライドンの影はあっという間に小さくなっていく。その姿がすっかり見えなくなった頃、カキツバタはいつの間にやらきっちり半分食べ進められたいちごのクレープをスグリの手に握らせた。ついでとばかりにスグリの手の中の方を一口二口とかじっていく。もう大丈夫、残りは全部食いな。そう言い残したあとはすいすいとスマホロトムの画面を弄りだした。大きく息を吐き出しながら。
「……つか、ここライドありなのかよ。誰も乗ってねえからてっきりよお。とっととポケモン使って上がっちまおうぜ」
「俺、一回目は自分の足で登りたいかも」
「げえ、正気か?」
「ん……だから先、上さ行っててもらっていいよ」
「……わあったよ、付き合うよ」
「え、ほんと⁉」
「んっとによお、とんだワガママお姫様だぜ」
「人に荷物持たせてるほうがよっぽどだべ」
それから目的地に辿り着くまでには幾度となく休憩を挟むこと、小一時間。付き合うと言ってしまった言葉をカキツバタはしきりに後悔していたものの、最後までボールから相棒を出すこともなかった。その代わりに手荷物という手荷物はすべてスグリが持たされたが。
――パルデア旅行、旅程一日目。今日の予定はアカデミーの受付にてバトルコートの予約と、ついでに許可をもらって校舎の見学。ちょっとだけ奮発したホテルにチェックインして、荷物を置いたらテーブルシティの散策。夕食はペパーおすすめの店でパエジャとトルティージャを。
陽が落ちはじめたらカイリューの背に乗って、ハッコウシティのビル群がよく見えるらしい穴場の丘まで行こう。このスケジュールはまだ伝えていないから、きっと驚かれるだろう。場所の下見だってできていないから、もしかしたら思っているほど景色はよく見えずにがっかりするかもしれない。それでもカキツバタはそんな小さなトラブルをスグリの隣で笑ってくれるだろうと思う。
セオリー通りにいくのならこういうのは最終夜が鉄板なのだろうが、浮き足立つ気持ちをどうせそれまで隠してもいられない。ポケモンも人間も行動は早い方がいいのだ。静かな決意を胸に抱き、スグリはポケットの中身を指でひと撫でした。