そういうことです バアン! と派手な音を立てて、バーの扉が開く。さては北の連中か、と身構えた拍子に、ネロは今しがた口に入れたばかりのものを飲み込んでしまった。
「んぐっ……」
——あ、勿体ねえ……。
鼻に抜ける、濃厚かつ芳醇な、甘い香り。しかし、バーの中にほとんど転がり込む勢いで入ってきた意外な人物に、余韻を味わおうという気分は吹き飛んでしまった。
「ネロ!! ……っ! ああ、遅かったか……!」
「ファウスト……!? どうした、そんなに慌てて」
ファウストはよほど急いで駆けてきたのか、乱れた髪の毛と衣服を直しもせず、なにかとてもまずいことでも起きたように、忙しなく視線を走らせた。
「まあまあファウスト。そう慌てずとも、どうです、あなたもひとつ」
カウンターの向こうから、全く動じないシャイロックがにこやかにファウストに声を掛ける。
夜更けのシャイロックのバーには、ネロのほか、バーの主であるシャイロックにムル、そしてクロエが揃っていた。おのおの好きな席に陣取り、先ほどまで神酒の歓楽街に久しぶりに行ってきたというシャイロックたちの土産話に話が咲いていた。
ネロが今夜バーを訪れたのは偶然だったが、歓楽街で仕入れてきたという流行の菓子に酒に茶に、どれも一級品ばかりで、これはいいタイミングで来てよかった、と思っていたのだ。
けれどファウストは、そのどれにも目をくれず、頭を振った。
「冗談じゃない。言ったはずだ、試すならきみたちだけでやってくれと。しかし問題は……」
日頃は陰気……もとい、落ち着き払っている先生役のただならぬ様子に、ネロはなにかがひどくちぐはぐであるような、奇妙な違和感を覚えた。内心首を傾げつつも、先ほどはゆっくり味わえなかったそれをもう一ついただこうと、器に手を伸ばす。
そういえば、昔よく私の店に通ってくださっていた方からこんなものを頂いたんです。取っておこうか迷ったのですが、今日の私は気分がいいので、と蠱惑的な笑みとともに、つい先程、シャイロックが器に盛って出してくれた。つやつやとした表面は、一流の職人が細心の注意を払って仕上げた証拠。そんなものをそんなふうに言われて出されたら、どうしたって手が伸びる。その時、目ざとく見咎めたファウストが鋭く叫んだ。
「ネロ、よせ!」
「え……?」
「それだ。神酒の歓楽街からシャイロックたちが持って帰ってきた」
「ああ、このチョコレートだろ? さすが西の国だよな、すげー美味い——」
「魔法薬だ」
「……は?」
ここへ来て、ネロは違和感の正体にようやく気づいた。さっきから、一度もファウストと目が合わないのだ。今も、明らかにネロに話しかけているのに、微妙に視線がずれている。そんなファウストとネロを、残りの面々は代わる代わる、興味津々の表情で見つめた。
やがて何を思ったか、ファウストが唐突に頭を振りかぶる。
「ええい、こうなったら被害が出る前に、強硬手段に出るか……、《サティルクナート・——》」
「ちょ、ファウスト! それはいくらなんでもやりすぎ……っ!」
黙って成り行きを見ていた、というよりは口を挟むタイミングをつかめていなかったのだろうクロエが、ファウストから急に膨れ上がった魔法の気配に慌てて叫んだ時だった。
バタバタと廊下の方から足音がしたかと思うと、再び勢いよく扉が開かれる。
「よう、なんか急に魔法の気配がしたが、喧嘩か? 俺様が一丁噛んでやってもいいぜ」
現れた長身の男の姿に、シャイロックが片眉を上げる。これ以上面倒なことになるならば、店じまいをする、さしずめそれを見極めようという顔だろう。
「んだよブラッドか、……あ……?」
あんたの勘違いだ、面倒事を起こすなよ、と、ネロは諌めようと、した。
けれど途中で、自分の身に起こりつつある異変に気づいた。
「……?」
トゥンク、と。喉の奥、胸の上の方が、なにかつかえるような、きゅっと締まるような、妙な感覚。息が浅くなったような気がするのは、鼓動が早くなっているからだと分かる。気分が悪いのかと言われれば、そういうわけでもない。むしろいいような気がする。
——そう言えば、さっきファウストが、魔法薬、とか言ってたような……?
何かが引っかかる気がするが、うまく頭が働かない。魔法にかかってしまったのなら、早く解かなければ、というか、さっきファウストは結局何をしようとしたのか、クロエはなぜそれを止めたのか、全部が分からずじまいだ。それよりも一番おかしいのは、先ほどからブラッドリーがやたらとキラキラして見える。まるでブラッドリーという男を形作っている輪郭が、それこそ西の国の美術品のように魅力的な造形に感じられるようだった。
——いつもの格好、だよな……ちょっと身体、絞ったとか? そう言えばいつもより胸板厚い気がするし、腰回りも……。
そこまで考えて、ハッと我に返る。バー中の視線が、ネロに集まっていた。
「ブラッド、リーくん……えっと、その」
なぜ自分が注目の的になっているのか考える余裕はなかった。ブラッドリーが眉をひそめてこちらへ大股で近づいてくるのを、逃げ出したいのに身体が固まって言うことをきかない。鉄の棒を飲んだように硬直し、肋骨の内側でいまや大音量で打ち鳴らす心臓を抱え、ネロは目をそらすこともできずにブラッドリーに視線を釘付けにされていた。
そんなネロの様子に、ムルがキラキラと瞳を輝かせ、それをそっとシャイロックが制し、更にそれをクロエが心配そうに見ているのは、ネロの目には入っていない。
「あ……? いや、そんなことは……」
ファウストがなにか言っているのは聞こえるが、中身まで頭に入ってこない。顔が爆発しそうに熱くて、やたらのどが渇いている。
コツ、コツと革靴を鳴らしてネロの前に立ったブラッドリーが、ごく自然な動作でネロの顎を掴み目を覗き込んできた時には、危うく卒倒しそうになった。ヒュウ、と誰かが口笛を吹いたのが聞こえる。
「ははあ、なるほどな?」
ネロと、カウンターに置かれた菓子の器とを見比べ、にやりと口の端を上げたブラッドリーに、ネロは真剣に、思った。
——こいつ、こんなに格好良かったっけ……。
どうやらやはり魔法だ、と霞む頭で思いながらも、ぼうっとブラッドリーを見つめたまま動けないネロに、ブラッドリーは顔だけ動かして周りを見た。
「ま、じゃあこいつは俺様が貰っていく。そういうこと、だろ?」
「この先をもう少し見たい気もしますが、野暮というものですね」
「分かってんじゃねえか、パイプ飲み」
「後で検証したい! できるだけ経過を詳しく教えてね! 対価は言い値で払うよ!」
「言ったな? まあ、それは後のお楽しみってやつだ。……立てるか」
「た、……」
「無理だな」
耳元で囁かれて、立ち上がろうとしたネロはかくんと膝の力が抜けた。そのままひょいと担ぎ上げられ、悲鳴を上げそうになったが折よく背中のフードにぼすりと顔が埋まったおかげで声は吸い込まれた。
——誰か、魔法なら解いてくれよ……!
「大丈夫なのかあれは!?」
「ご心配なく、ファウスト。先ほどあなたもひとついかが、と勧めたでしょう。つまり、そういうことです」
「?」
「昼間話したよね! もしこれが本物の惚れ薬なら、目が合った相手に恋をする。さっきまでネロは俺たちと普通に目を合わせて話してた!」
「つまり……」
「つまり、そういうこと!」
バーの中で再び盛り上がり始めた会話が、ネロの耳に次第に遠ざかる。ぱたん、と扉が閉まった。
翌朝、しっかり腰が立たなくなったネロが、真相を知って部屋から丸一日出なかった話は、その後しばらく魔法舎の中でとっておきの酒の肴になったとか、ならなかったとか。