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    saf_mhyk

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    saf_mhyk

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    ブラネロwebオンリー「そういうことにしてるつもり!」12開催おめでとうございます💐
    ネの「望み」、それから「諦め」というテーマ、一体何度擦るんだと自分でも思いますが、本当に色んな角度から何度でも書きたくなってしまう魅力あるキャラなんだなあ……と改めて思いました。

    #そういうブラネロ12

    if... 魔法使いに生まれて良かったなんて、思ったことがなかった。
     魔法使いでなかったら、と思ったことなら、数え切れないほどある。
     魔法使いでなかったら、知らなくて済んだ、巻き込まれずに済んだことがきっとたくさんあった。
     魔法使いでなかったら、「強い」とか「弱い」とか、こんなに考えずに済んだだろう。
     魔法使いでなかったら、こんなに気の遠くなるような年月を生きることもなかった。
     もしも、魔法使いでなかったら。

     ——俺は、あんたにも出会ってなかった、のか。

     * * *

     目覚まし時計の音で、ぱち、と目が覚めた。
     見慣れた天井、ハーブの微かに香る寝室の匂い。
     なんだか、ずいぶんと寝た気がしたが、枕元の時計はいつもの時間をさしていた。
     開け放しておいた窓からは朝の新鮮な空気が入ってきてカーテンを揺らし、通りを早起きの勤め人が急ぐ足音が聞こえてくる。
     いつもと何も変わらない、雨の街の朝だ。
     寝癖のついた空色の頭をかき、ネロは一つ伸びをして洗面台に向かった。
     顔を洗いながら新しいメニューを考え始めたら、ようやく頭に血が巡っていく感覚がした。
     ネロはこの街で小さな料理屋を営んでいる。
     人気店というわけでもなく、知り合い伝いに紹介されて来てくれる人や偶然通りがかった人がぽつりぽつりと足を運んでくれるような、そんな店だが、ネロの性には合っていた。
     余計な喧騒も、心を乱されるような出来事とも無縁な、平和な暮らしだ。
     庭のハーブが元気に育っている。
     勝手にその片隅をねぐらに決めたらしい野良猫が、いつの間に産んだのか自慢気な顔で子猫を見せに来た。
     そんな些細な出来事が、嬉しい。
     ずっとそうしてきたし、この先もこの暮らしを続けていけるのが自分の幸せだと、ネロはそう思っている。
     ……少なくとも、その日の朝までは、そう信じていた。

    「例の魔法使いの話、店主さんは聞いたか?」
     カウンターに座る客が、本日のランチプレートをつつきながら意味深な目つきで切り出した。
    「……魔法使い」
    「そう。最近街の外れに住み着いたらしいって噂だよ」
     魔法使い、という言葉が耳に入った途端、なぜか、どきりとした。
     自分の心臓の不可解な反応に、ネロは妙に落ち着かないような気分になる。
     意味深な目つきで言われたせいではなかった。この客はネロの店の常連の一人だが、いつでも自分の話は非常に重要だと思っている節があり、どんな些細な事柄でもこうしたもったいぶり方をする。
     そうでなくても魔法使いの話題くらい、他の客からこれまで何度も出たはずだった。
     基本的には面倒事の匂いしかしないそうした話題には我関せずの姿勢でいるし、実際、魔法だの魔法使いだのといったこととはまったく無縁の、ごく普通のいち市民でしかない自分には何の関係もない話のはずだ。
     はずだ、と考えている自分の思考に、また、首を傾げる。
     この感じは知らない。なんだろう、と考えながら、並行して客の話に耳を傾ける。
    「魔法使いの連中は本当に何を考えているのか理解に苦しむね。魔法が使えるんだからどこに住もうが何不自由しないだろう? それが何をわざわざ我々の街に住み着こうとするのかね。おおかた我々人間を気まぐれにいたぶって楽しんでやろうとか、あるいは騙して金品を巻き上げようとか、そんなことを考えているに違いない。きっとそうだ」
     役所関係の仕事をしているとかで、この客は治安だとか政策だとかの話を好んでする傾向があった。なぜかネロの店を気に入ったらしく金払いもいいし、そういうお堅い仕事の人には息抜きも必要だろうと、いつもなら疲れない程度に気持ちよく話させておくようにしていた。
     しかし、なぜか今日に限って、何かがつっかえたような気持ちになっている。
    「そういう……、もんすかね」
     やっとのことで、それだけを押し出した。
     息がうまくできないのを自覚して、やっと分かった。
     これは、怒りの感情だ。
     今、自分は、怒りを覚えている。
     腹の底で渦を巻くような、重たい感覚だった。
     何に、なぜ、と自問するが、分からない。
     混乱する気持ちを押さえつけ、ネロは話題を変えようと無理やり笑みを浮べて、客の手前に並んだ皿の一つを指差した。
    「それより、これ。新しく仕入れた海老なんすけど、どうでした。よく売ってるやつより大きくて身が厚いから、味付けを少し変えてみたんですけど」
    「お? これか? うむ、私は美味いと思ったぞ。ただもう少し何かこう、ひねりがあったほうがいいんじゃないかね? ほら、最近だと北の国から入ってきた、なんて言ったかね、果物が流行っているらしいじゃないか、ええと」
    「マーシアの実?」
     言ってから、マーシアの実なんて聞いたこともない名前がするりと自分の口から出たのをネロは不思議に思った。忘れているだけで、どこかで耳にしていたのだろうか。
    「おおそうそうそれだ! そういうのと付け合わせてみるとか、こう意外性があるといいんじゃないか」
    「なるほど、参考になります」
    「いやいや、私は素人だが、これでも味付けにはうるさい方でね。よければ是非参考にしてくれたまえ。ところで店主さん、よく知っていたな。さすが料理人だ、北の国の食材にも詳しいのかね」
    「……いや、そんなことはない、と思います、けど」
     心のざわつきが大きくなる。
     何かに違和感がある。今の今までずっと当たり前だと思っていたものが、急に違って見えてくる気がする。まるで、自分なのに、自分ではないような。
     何か大事なことを忘れていて、それを思い出さなくてはいけないような気もする。
     ——これは、なんだ?
    「そういや私はここに来るようになったのは最近だが、店主さんはこの店を開いてもう長いのかい? ああ、もちろん答えなくてもかまわない。個人に立ち入ったことを聞くのは法律違反だからね」
    「いや、うん、そうだな……まあそこそこ、ってとこすかね」
     曖昧な笑いをそれ以上追求されることはなかった。
     雨の街の、いいところだ。
     釣りはいらないよ、といつものように気前よく支払いをして店を出ていった客を見送り、遅めの昼営業はこれで一旦終わりになる。
     表の札を「準備中」にかけかえようとして、二度、札が手から滑った。
     手に、じっとりと汗をかいている。
     この街で店を持つようになる前の自分が、どこで、何をしていたのか、ネロは全く思い出せなかった。

     ふーっ、と大きく息を吐きだして、ネロは知らないうちに息を詰めていたのに気づいた。
     今夜最後の客を見送ったところだった。
     できるだけいつも通りに振る舞っていたが、それでも何度か上の空であることを客から指摘され、冷や汗をかいた。
     まだ、鼓動が早い。
     自分を落ち着かせるように、閉店作業をしていく。
     慣れた動作は身体が覚えているから頭を使わない。その分、意識はどうしても昼間のことにふらふらと向かった。
     ——どうして、俺は何も思い出せないんだ……? ここに店を開いた時のことはよく覚えてんのに、その前どこで何をしてたのか……。
     何度思い出そうとしても、靄がかかったようになって、はっきりとした輪郭がつかめない。
     これまでにこうして昔を思い出せなくて愕然としたようなことがあった記憶もなく、思い出せない、ということに気づいたのも記憶の限りでは今日が初めてだ。
     記憶喪失にしてはきっかけになるような出来事が思い当たらないし、なにより特定の時点より前だけがすっぽりと抜け落ちている。
     魔法使い、という言葉にひどく心が波立ったことも、気になっていた。
     何も特別なことのない、ただの人間である自分が魔法使いと関わりがあったことなどないはずなのに、なぜ、こんなに引っかかるのだろう。
     何かに取り残されているような気がしてくる。
     昔を思い出せないことと、魔法使いとが何か関係しているのだろうか。
     そうも思ってみたが、あまりに荒唐無稽な思いつきの気がして、ネロは頭を振った。
     とにかく、思い出せないのが雨の街に来た時点より前だ、ということになにか鍵があるのは確かに思えた。
     そこに、何かがあったから、自分の頭が忘れることにしてしまったのだろうか。
    「まあ、気味は悪いけど……だからってどうできるわけでもねえしな」
     個人的に不気味ではあるが、では思い出せないことが具体的に何かに差し支えるかと言ったら、大した問題にはならなそうだ、という結論になってしまった。
     そもそもこの街では、個人の過去を詮索するようなことは法律で禁じられている。
     そうとなれば、考えても分からないことを延々考えるのは時間と労力の無駄だ。
     すっきりとはしないまま、ネロは肩を竦めた。
     そうした理不尽が降りかかるのには慣れている。
     特に具体的な経験も思い浮かばないのに、まあこういうのはよくあることだ、とネロはその問題を意識の隅に追いやった。

     翌日。
     この日はいつも通り、つつがなく営業が終わり、ネロは内心胸をなでおろした。
     今日もなにかろくでもない不気味な出来事が起こるんじゃないだろうな、と若干不安ではあったのだ。
     しかし、その心配は杞憂に終わった。
     常連が数人来た他、初めての二人連れが来店し、いたく気に入った様子で友達にも教えたいと言っていたから、むしろいつもよりもいいくらいだ。
    「そろそろ暑くなってきたし、冷製パスタとかスープを作るかね」
     明日は大きな朝市が立つ日だ。買い足しが必要なものがないか常備している調味料の残量や食材の状況を確認しながら、ネロは上機嫌だった。 
     ひととおり買うものを書き出し、戸締まりをして、自分用に簡単なつまみを作って晩酌の準備を始める。
     賑やかさを求めてごくたまに街の酒場に行くこともあるが、気候のいい時期にはこうして窓を開けて、夜風に当たりながら一人で楽しむのがネロは好きだった。
     まだ見ぬ何かへの派手な冒険も、血の沸き立つような危険を伴う興奮も、それを好むものに対して否定はしないが、自分には必要がない、と感じている。
     はたから見れば地味でつまらない暮らしかもしれないが、好きな料理で食っていけて、誰にも邪魔されず旨い酒を楽しむ時間があれば満ち足りる。
     これが自分に合った暮らしなのだ、と。
     昼間の二人連れ客にそう話したら、「まるで、ずいぶんと大変な目に遭ってきて達観した人みたいな言い方ね」と言われ、なんだか妙な空気になってしまった。
     ネロはただ、心から思うままを話しただけなのだ。
     明日をも知れない生き方など、まっぴらだと。
     客の目を丸くした顔を思い出して小さく苦笑いしながら、戸棚から酒瓶を取り出し、脇のグラスに手を伸ばす。
    「……!! な、……」
     ことり、と置いたところで、ネロは目を見開いて固まった。
     テーブルの上に、グラスは二つ、並んでいた。
     まるで、もう一人そこにいるはずであるかのように。
     思わず胸を押さえ、息を吸い込む。
     完全に無意識だった。
     いつもと同じ、慣れた動作。
     何の違和感もなかった。
     自分がこうして晩酌をする時、つまみの皿の向こうに、誰かがいつもいた。
     その光景を、自分は知っている
     急に、理由もなく確信した。
     誰かわからないその相手を思い出そうとすると、胸が苦しいような、切望するのと同じくらい諦めたくなるような、強烈な感情が胸を塞いだ。
    「は、……っ」
     思い過ごしなんかじゃない。
     無視するな、と呼びかけられている。
     思い出せ、と揺さぶられている。
     嫌だ、と叫びたいのに、でも本当にそうしたいのかもわからなくなってくる。
     じわりと汗がにじんでいた。
    「マジか……」
     自分でも説明がつかない、落ち着かなくて、胸が苦しいような感じがする。
     ——ここにいる俺は一体、誰なんだ?
     その誰かを知っている自分は?
     それは、忘れてしまったほうがきっと楽で、幸せで、けれど忘れられない、そんな強烈な「誰か」だった、とネロは思う。
     思い出せない、そのことに、これほどに動揺するような。
     何もはっきりとは思い出せないのに、ネロはそれが自分の根幹の部分に関わる事柄であると、半ば直感的に感じていた。
     胸騒ぎ、なんて、生きる上で無縁でいたいものの筆頭だったはずだ。
     なのに、この感覚は幾度も味わったことがある気がする。
     出したグラスをしまう気にもなれず、それを睨むように眺めながら、いつもよりもいっそう黙々とネロは酒をあおった。

     翌朝、顔の上に差す朝日の眩しさに目を開けたネロは、軽い頭痛とともに昨晩の出来事を鮮やかに思い出して、呻き声を上げた。
     カーテンを閉め忘れたらしい窓から、金色の陽光が真っ直ぐ部屋の中に差し込んでいる。
     まだだいぶ早い時間だろう。
    「…………」
     昨日のあれは、自分ひとりの身に起きた出来事だったとはいえ、夢や幻覚の類ではなかったとはっきり分かっていた。
     だからこそ、昨晩は止めどきが分からなくてつい飲みすぎたのだ。
     二つのグラスを見た時の、心をぎゅうっと絞られるような、あの感覚。
     それは知らないままでいたほうがよかったものだという確信があり、しかしそこにあるのは後悔だけとも言い切れないような、そんな複雑さもある。
     おまけに、今までそんな感覚を覚えたことはないとたしかに思うのに、一方では頭の中にいつもどこかその感覚が消えずにあったような気さえしていた。
     ——忘れようとしても、忘れられなかった。
     頭の中に、勝手にそんな言葉が浮かんできて、ネロは頭を振った。
     細く息を吐く。
     自分に一体何が起こっているというのだろう。
    「はあ……」
     これ以上眠れるとも思えず、起き出したネロはのろのろと支度をして通用口から外へ出ると、市の立つ広場へと足を向けた。

    「……一体、何が起きてんだ、ほんとに」
     朝から何度も頭の中で繰り返していた言葉は、とうとう口に出た。
     店の厨房でほやほやと湯気を上げるパンケーキの皿の脇に両手をつき、がっくりと項垂れたネロの口から、深い溜息が漏れる。
     市場でも、店に戻ってきてからも、昨日より事態はさらに悪化していた。
     市場では、メモを片手に足りないものや珍しいものを購入していく傍ら、なぜか自分の好物でもない、店で出すにはあまりに偏った食材や菓子、果ては子どもの好みそうな土産物などを買い込みそうになり、そのたびにはっと我に返って愛想笑いを浮べながらそっと店先を離れることを繰り返した。
     店に戻ってから気を落ち着けようと、デザートメニューの試作として最近中央の国で流行っているというメレンゲでふくらませるパンケーキを作り始めたところ、何故かひどく緊張する。
     誰か、とても自分が何かを教えるような立場ではない目上の人物に、パンケーキの焼き方を教えるよう請われて、恐縮しながら教えたような気がするのだ。
     詳細は何一つ思い出せないのに、それが確かに実際にあった出来事だ、という感覚だけが生々しくある。昨日の晩酌の時と、全く一緒だった。
     ここまでくると、不気味を通り越して苛立ちを覚え始めるネロである。
     何か得体の知れないものに、自分の穏やかな生活をいいように弄ばれている気がしてくる。
     同時に、そんなふうに何かに怒りを覚えるのもずいぶん久しぶりな気がしていた。
     いつもなら、仕方ない、と受け入れて諦めるのがネロの常だからだ。
     抗うほうが、手間も労力も体力も使う。そしてそれだけしても得られるものは大抵の場合少ない。
     だから、ここに来るまでに、いろいろと諦めた、ような気がする。
     ——何のために? 何を諦めたんだっけ?
     考えてもわからないことをいつまでも追おうとする頭を一つ振り、ネロは開店準備を始めた。
     早くこのよくわからない状況が過ぎ去って欲しい、と願いながら。
     だが、残念ながら、その願いは叶わなかった。
    「いらっしゃい。好きな席にどうぞ、……」
     朝の青空が嘘のように、昼前から雨が降り始めていた。
     今日は客が少なめかな、と思っていた矢先、カランカランと扉の鈴が鳴り、人影がするりと店の中に入ってきた。
     いつものように控えめな笑顔で声をかけながら、入ってきた人物に顔を向けたネロは、そのまま固まった。
     ——魔法使い、だ……。
     そうであることを隠しもしていない、夜空を切り取ったような不思議な模様をした裏地のマントと帽子を身に着けたその男は、ネロの店の気取らない雰囲気に相応しくないほど慇懃に腰を折った。
    「ありがとう。では、こちらに失礼」
     カウンターのスツールに腰掛けてマントを脱ぎ、帽子を取った下から現れたのは、つい先ごろまで街のあちこちに咲いていた花を思わせる美しい紫色だ。顎のあたりで切りそろえられたそれが上品な仕草で揺れるのをつい見とれていると、鮮やかな緑の瞳が猫のように細められる。
    「こんなあからさまな魔法使いは珍しい、かな?」
    「……っ」
    「そんなに怖い顔をしなくても、俺はこの店から漂ういい香りに誘われた、ただの客さ。面倒事は起さない。約束しようか?」
     今しがた思っていたことを読まれたような台詞に、思わず睨みつけてしまった。
     しかし、紫の髪の魔法使いから出た「約束」という言葉にわけもなくヒヤリとする。
     なんで、と思うのにはいい加減飽きてきた。
     今朝からそんなことばかりで、今こうして目の前にいるこの魔法使いが、偶然通りがかって自分の店に来たとはさすがにもう思っていない。
    「……や、そんな態度取って、こっちこそ、すんませんでした。どうぞ」
     冷やしておいたレモン水をグラスに注ぎ、カウンターに出す。
     いつもなら客が来たらまず意識することもなく行っている、それさえ忘れていたことに、舌打ちが出そうになった。
     もうこの際魔法使いでも何でも来い、という心境になりつつある。
     元はといえば、魔法使いの話題が出たところから、この奇妙な事態は始まったのだ。
     知りたいとか知りたくないとか、そういう自分の意思はたぶんあまり意味がないのだろう、とも思っている。
    「今日のおすすめは、今朝市場で仕入れてきた新鮮な夏野菜と、オスのスペクターフィッシュのムニエル、です」
     自分に注がれる視線に耐えかね、壁にかけた黒板を指で軽く示してネロが読み上げると、ぱっと魔法使いの顔が輝いた。
     ——お。
     人も魔法使いも、好物を目にした時の顔は変わらないのだな、と発見した気分だ。
     この顔を見たくて自分は料理をするのだ、と改めて実感し、ネロのささくれた気分が少し上がった。
     同時に、その感情にも、また何かを思い出しかけた気がしたが、魔法使いの声がネロの思考を遮る。
    「俺はムニエルが大好きなんだ。ではそれをいただくとしよう」
     ネロは一つ頷いて、意識を食材の方に向けた。
     手早く魚に粉をして、フライパンで熱したバターの上にそっと寝かせる。
     手を動かしている間は幾分気が紛れた。
     じゅうじゅうとバターが煙をあげる音にまぎれて、雨がときおりざあっと窓を叩く音が聞こえてくる。
     雨の日は、嫌いではない。
     客足が鈍りはするが、その分一人ひとりに掛けられる時間と手間は増えるし、なにより絶え間なく降りしきる雨音で外の世界と一枚隔てられたこの感じが落ち着くのだ。
     そうだ、自分はこの生活を愛している。足りないものも、余計なものもない、ようやく手に入れた、穏やかな生活。これが、自分の求めていたもののはずだ。
     すがるように、思う。
    「おまちどうさん」
     乱れっぱなしだったペースをようやく少し取り戻せた感覚に口の端を少し上げ、ネロはムニエルと野菜の乗った皿をカウンターに置く。
     魔法使いが食事をするのは初めて見る、と思う。
     魔法使いと言っても、特定の家系に生まれるということはないらしいから、貴族から庶民までその出自は様々だと聞く。
     目の前の魔法使いは……と思った瞬間、ふわりと皿ごと魔法使いが宙に浮いたからネロは口を開いた。
    「ああ、失礼。どうもじっと座っているのが性に合わなくてね。こうするとだいたい怒られるんだが、きみは見逃してくれるね?」
     言いながら、魔法使いは器用に宙にあぐらをかいて、ナイフとフォークで魚の身を切り分けていく。
     魔法使いだからといって何をされるかわからないと怯えるつもりはなかったが、予想外の方向につきぬけているこの人物に対しては見逃す見逃さない以前に、反応の仕方が分からない。
    「うん、これは素晴らしい。西の国でもここまで繊細な味付けができる料理人はなかなかいない」
     しかし満足げな笑みでそう言われてしまえば、それが自分の目の高さより上の空中からだとしても悪い気はしなかった。
    「そりゃあよかった。……って、あんた、西の国の魔法使いなんですか」
     口いっぱいに頬張りながら、紫頭が頷く。
    「そう。といっても俺は世界各地に自分の研究所を持っているんだ」
    「世界各地に……そりゃあまた、いろんなことが分かりそうだ」
    「そのとおり。俺は世界のあらゆる事象について、もしくは人の心の一番奥について研究している。もっとも、俺の心は月に捧げているけれど、ね」
    「はあ……」
     なるほど、とネロは内心頷いた。
     これはそこそこ面倒そうなパターンだ。話半分、いや三割くらいで聞き流すのがいい。
     顔面は笑顔を維持したまま、デザートと食後の茶を出すタイミングに意識を傾ける。
    「人も魔法使いも、心が全てと言ってもいいのは変わらないんだ。魔法使いは心によって魔法を使うが、人間だって心が源になって病気もするし、死の淵にあっても生還したりする。きみ、生きるうえで何が一番大切だと思う?」
     げ、と思ったが顔に出ないように飲み込んだ。
     ——こっちにも聞いてくるタイプか……。
    「なんですかね。俺は料理人だから、食い物が真っ先に浮かびますけど」
    「妥当な答えだね。だが、人は自分が本当に欲しいもの、大切にしたいと思っているものについて、得てして鈍感でいたがる。考えないようにしている、と言ってもいい」
     いつの間にか綺麗に食べ終えた皿が、宙を滑って厨房の流しに着陸した。
     そうなんすね、と軽く受け流すこともできる、と頭では分かっていて、なぜかそうできずにいる。
     浮かべている笑顔がぎこちなくなってきていることに、ネロは自分でも気づいていた。
     この魔法使いの話を聞き続けてはいけない気がするのに、話題をそらすこともできない。
     笑みの形にたわんだ、しかしどこか鋭い光をたたえてネロをまっすぐ捉える鮮やかな瞳に、ごくり、と唾を飲んだ。
    「欲望というのは非常に強い力がある。それを制御しきれないこと、あるいはそれと引き換えになる代償、手に入らなかったときの失望、そういったものを人は恐れる。それは経験的にとも言えるし、感覚的にそうであることもあるだろうね。だから、そんなものは欲しくない、気の迷いだ、魅力的に見えるけれど良くないものだ、という具合に、自分に諦めさせようとするんだ。俺に言わせれば、それは非常に刺激に欠ける平凡な選択だけれど」
    「……誰もが、自分の欲しいものに素直にいられるほど、強くないんじゃないですか」
     思わず、口から出ていた。
     言ってから、なぜそんなことを言ったのか、自分でも不可解な気持ちになる。
     しかしそれを聞いた魔法使いは非常に愉快そうな笑い声を立て、空中からネロの前のカウンターのスツールにするりと戻ってきた。
     目を覗き込まれるように顔を近づけられて、反射的に身を引く。
    「そうこなくっちゃ! ねえきみ、さっきも言った通り、俺は月をこの世の何よりも愛しているんだ。これは比喩や冗談じゃない。文字通り、俺は心をあの空に毎夜浮かぶ月に捧げている。少なくとも、そのためにほか全てが存在していると言っても言い過ぎにはならないくらいにはね。人に言わせれば、俺は気が狂っているそうだ。でも俺はそれで何の問題も感じない。むしろ、人の勧める通りにあの月を想うのをやめようとしたら、今度こそ俺は狂うだろう。神経系に異常をきたし、それこそきみが大切だと考える食べ物だって喉を通らなくなるかもしれない」
    「はあ……」
     狂っている、という評価は的確なようにも思えた。少なくとも常人である自分には全く理解が及ばない。月というのが、そもそもこの魔法使いが熱弁するように、愛することができるものだ、という発想がまずない。
     けれど、その一方で、この魔法使いの言うことは荒唐無稽であると思うのに、ひどくなにかの真理をついているようにも思えて、ネロは頭が混乱してくる。
     魔法使いは、飼い主と遊びたがる猫にも似た、どこか無垢で純粋な煌めきを瞳に浮かべ、ネロに語りかけた。
    「きみにもあるはずだ。きっとね。諦めたということにして、忘れてしまうんだ。それを求めていた気持ちごと。でも心は忘れていないから、どこかにずっとそれはあり続ける。そしてある時、思いもよらぬ形で姿を表す。例えば、自分をうまくつかめない。最善の選択をしたはずなのに何かが違う気がする。何かが欠けている、あるいは、どこかになにかを置いてきてしまった。何かをきっかけに、そんな感覚が不意に浮んでくる」
     いつの間にか、握りしめた手に汗をかいている。
     呼吸が浅かった。
     何かが欠けている。なにかを、置いてきている。
     それは自分にとって、何だったんだろうか。
     置いてきては、いけなかったものだったんだろうか。
    「心っていうのは一般的に思われているよりずっと正直で、原始的で、そして強い。これでよかったんだと思っていても、本人すら自覚していないようなところで、形で、想いは出てくるものさ。きみは誰もが欲望に素直になれるほど強くないと言ったが、強さとはなんだろうね? 本当に諦めるべきはなんだと思う?」
     そこで魔法使いが一旦言葉を切ったので、しんとした静寂がおりた。
     窓を打つ雨音は相変わらず強くなったり、弱くなったりしている。
    「……あんた、一体何者なんだ」
     魔法使いは、入ってきた時とそっくり同じ仕草で慇懃に頭を垂れた。
    「俺は、西の国からたまたまここに立ち寄っただけのしがない魔法使いさ」
     そしてネロの目の前でその姿は煙を吹き散らすように、かき消えた。
    「迷ったら、分からなくなったら、心に聞いてみたまえ。自分の心に。そのやり方をきみは知っているはずだよ、ネロ」
     何もないところから、声だけが響く。
     ことり、と硬い音がしてネロが目をやると、たった今まで魔法使いがいた場所に指輪が落ちている。
     何気なく拾い上げた途端、背筋を駆け上がるものがあった。
     凝った意匠の台座にはまっているのは、けぶったような柔らかさを纏う黒に、角度によってきらりと光が入る石だ。
     これを、自分はよく知っている。
     わけもなく、そう思う。
     これを渡さなければいけない相手が、自分にはいた。
    「幸運、の……」
     呟く声は震えた。
     散らばっているかけらが、一つずつ、集まっている。
     自分は、どうしたいんだ。
     このまま、今のまま、そっと全てをしまい込んで、明日からもこの暮らしを守るのか。
     そうしたいと思っていたはずではなかったか。
     ゆっくりと指輪を握りしめて、ネロは目を瞑った。

     その晩。
     珍しく晩酌もせず、風呂から上がったネロは、寝室で寝台の上に座り、昼間あの魔法使いが残していった指輪を再び手の上に載せ、思案していた。
     自分の心に耳を澄ますように、自分の内側深くに入り込んでいくように。
     その行為は、これまで意識してしたこともないはずなのに、とても馴染み深いものに思えた。
     それもこれも、全てが何か自分の知らないところにつながっているのだ、と、今は確信に近い思いがある。
     本当は、自分が欲していたもの。
     見つめようとすると、そこに絶望、諦観、やるせない怒り、そんなものが、湧いてくる。
     知らないはずで、でも確かに経験したことがある感情を、注意深く拾うように、丁寧に感じていく。
     その奥に、まるでこの石の纏う黒の奥に不意に差し込む光のように、きらり、きらりと埋もれずに輝く、なにかがあった。
     ずっと見ないふりを、そんなものははじめからなかったようなふりをしていたもの。
     自分が諦めても、忘れても、そこにあったもの。
    『強さとはなんだろうね? 本当に諦めるべきはなんだと思う?』
     自分は何に抗い、何を諦めようとしたのか。
     何を、忘れようとしたのか。
     心がぎゅっと絞られるあの感覚に、また不意に襲われる。
     ネロは、抵抗しなかった。
     胸の奥から、何かがせり上がってくる。
     それは、言葉の形になって、溢れた。
    「……死んでほしく、ない……」
     そうだ。
     生きていてほしいと願う相手が、いた。
     どこにいてもいい。なにをしていてもいい。
     力強く生きて、そして笑っていてほしい。
     自分にそう願う資格なんかないことは知っていて、でもこれは、そういう理屈をすべて超えた、心の奥底からの、ネロの願いだった。
     諦めようと、したんだ。
     全てを。
     忘れたかった。
     でも、本当は、忘れたくなかった。
     忘れたく、なかったんだ。
     ネロの頬を、あとから、あとから、温い雫が伝って、落ちる。
     自分はどこにいたい。
     誰の、隣に。
     誰を、守りたい。
     誰の、笑顔を。
     押さえきれない何かが急激に膨れ上がって、ネロの喉が熱く灼けるようになる。
     掠れた声で、知らない言葉を叫んでいた。
    「……《アドノディス・オムニス》!!」

     ぼや、とぼやけた光の塊が、目に入った。
     何度か瞬きするうち、それは自分を覗き込むいくつもの頭の後ろから差す、部屋の明かりだと分かる。
    「……起きた!」
    「ネロ! 僕が分かるか!?」
    「ネロ!」
     自分を覗き込んでいる誰かが、呼びかけている。
    「……!!」
     ようやく意識がはっきりして、ネロは思わずガバリと身体を起こした。
     頭が混乱する。
     ここはどこだ。今はいつだ。
     自分は、「この自分」は、いったいどこの誰だ。
     目の前に見えているものはよく見覚えのある光景だと思うのに、どこか現実味がなくて、ネロは自分の服の胸元をぎゅっと握り込む。
     息の整わない背中をさする小さい手があった。
    「ネロ、大丈夫ですか。何日もずっと、眠ったきりだったから……」
     振り向いたところに立っていたのは、淡い金の髪の少年。
     零れそうなくらい見開いている大きな明るい緑の目の縁には涙がたまっている。
     見回せば他にも眼鏡の奥から険しい眼差しで見つめる菫色、はちみつ色の前髪の下から心配そうに覗きこむ群青、その後ろに控え、黒髪の間からまっすぐ見つめてくる赤。よく見知った顔が、寝台の周りを取り囲むようにして立っている。
     そうだ、自分は、この仲間たちと共に、魔法舎で暮らす——魔法使いだ。
     しっかりと、これが現実だというのが分かる。
     ——眠っていた? あれが全部、夢だったって? そうだとしたって——
     心臓が早足で打っている。
     こっちが現実だと体感的に分かってもにわかには飲み込めず、ネロが何から聞いたものか口を開きあぐねていたとき、突然廊下をばたばたと走る足音がして、部屋の扉が乱暴に開けられた。
    「ネロ!!」
    「……っ!」
     まっすぐ自分に届く声、それからそこに現れた姿に、ネロはあえぐように息を吸った。
    「ブラッド、……」
     確かめるように、噛みしめるように、その名を口にする。
     その瞬間、何かが決壊した。
    「っ、おい、どうした!?」
    「、っう……!」
     胸の奥から突き上げるような衝動が止める間もなく弾けて、目の前が霞む。
     周りの目があるとか、そういうものは何もかも、頭から吹き飛んだ。
     とめどなく濡れる頬を拭いもせず、ネロは目を見開いたまま、こちらへ大股で歩み寄ってくる姿を呆然と見つめる。
     ああ、会えた。
     ちゃんと、会えた。
     思い出せた。忘れていなかった。
     胸の奥が爆発でもしそうに痛い。
     周りが何か言っているような気がするが、耳がわんわんと鳴っているようで何も聞こえなかった。
     寝台のそばまで来たブラッドリーへ腕を伸ばし、衝動のまま胸ぐらを掴んで引き寄せる。
     そのままぶつかる勢いで、ネロはその胸元に顔を埋めた。
     温かい手が、背中を抱きかかえ、頭を包むように置かれるのを感じる。
     嗚咽が止まらなかった。声を上げて泣いたのなんて、いつぶりだろうか。
    「あー……」
    「おお、」
    「ちょっ、いきなり目を塞がないでください!」
    「僕たちは出ていよう。ついでに誰か賢者にも報せてきてくれ」
    「えー? せっかく俺が呼んできたのにー? そもそもブラッドが一番心配そうにしてたくせに格好つけて、むぐ」
     ざわざわとした気配が遠のき、静寂が降りる。
     ネロの呼吸が落ち着くまで、ブラッドリーは一言も発さず、ただ大きな手がゆっくりと頭をなでた。
    「……、」
    「落ち着いたか」
     低く心地良い声が、耳元に落とされる。
     勢いが収まってくると、自分がしでかしたことが急に恥ずかしくなってきて、ネロは微妙に視線をそらし頷いた。
     ——こんな、ガキみたいに甘ったれた真似……みんなに思いっきり見られてたよな……。
     ガキみたいだ、と思うが、この体温から、離れがたい。
     ネロを片腕に抱えたまま、ブラッドリーが寝台に半ば乗り上げていた身体をひねって、ネロと並ぶように座り直した。
    「身体も頭も、もうなんともねえのか」
    「ねえ、と思うけど……俺、どうなってたんだ。さっきリケが、俺はずいぶん眠ってた、って言ってた」
    「……ああ、」
     ブラッドリーの話によると、こうだった。
     東の国のある限られた地域で、「見たい夢を見ることができる」という謳い文句で売られているハーブがある。
     それは魔法使いが関わっているような人為的なまじないの類ではなく、あくまで特定の植物の組み合わせによる精神安定作用で目覚めの気分が幸福なものになる、というのに尾ひれがついてそんな評判になったというのが実際のところらしい。
    「ところが、どうもある時期から、そのハーブを使うと精神に異常をきたすやつが現れ始めた」
    「……<大いなる厄災>か。でも、それってまじないがかかってたり、魔法生物ってわけじゃないんだろ?」
    「ああ。こいつの場合はちょっと特殊だ。呪い屋の言葉を借りれば、そのハーブ自体じゃなく、そこに寄せられた人の思念、要は夢の中だけでも叶えたい願い、強い欲求が積み重なってたことが原因らしい。そこへ、<大いなる厄災>の力が加わって暴走したんだと」
    「なるほどな……」
     確かに、魔法使いでなくても、人の強い思いというのは時として魔法と同じように力を持ち、祝福にも、呪いにもなりうるとファウストから聞いたことがあった。
    「見たい夢を見るはずが、そいつが自覚してもいない望み、あるいは心の奥底にしまい込んでた願いなんかを引きずり出して実現する、そんな夢を見ちまうようになった。そういう生々しい夢を見た連中が、昏睡状態に陥ったり意識が現実の世界に戻ってこられなくなる症例が相次いで報告されてる。で、前置きが長くなったが、そのハーブの調査を中央の王子が依頼されてた。つまり、中央にも入ってきてたってわけだ」
    「あ」
     そこまで言われて、ネロにも話が見えてきた。
     ブラッドリーが頷く。
    「ああ。おそらくてめえが仕入れたハーブに、混ざってたんだ。今はその地域からの流通はかなり厳しく検査が入ってるはずだから、それより前に持ち込まれたもんだろうな。今ごろ市場の方へも緊急で調査が入ってるだろう。こんなふうに暴走してなきゃ、希少なハーブとして高値で売り抜けられただろうにな」
     そうだ。未だに夢だと思えないあの世界の始まりは、ハーブの香りがしていた。
     状況のあらましとしてどこか人ごとのようにブラッドリーの言葉を聞いていたネロだったが、急にハッとする。
     ——自覚してもいない望み、あるいは心の奥底にしまい込んでいた願い……。
     夢の中で、自分が経験していた世界。
     そこでは、自分は雨の街のただの料理屋の店主だった。
     魔法使いでもなく——ブラッドリーとも、出会っていない。
     ひゅ、と息を呑んだ。
    「……どうした」
    「……いや」
    「?」
    「俺は……、望んでなかった」
     望んでいたと思っていた。でも、望みが叶ったはずの、あの世界で、自分は。
    「てめえが見てた夢か」
     ネロは小さく頷く。
     何の夢を見てたんだ、と、そういえば真っ先に聞かれなかったのを、ほっとするような、らしくないと感じるような、奇妙な心地でいた。
     話すべきか一瞬悩んだ。
     鼻で笑って一蹴されるか、理解できないという顔をされて呆れられるか、そのどちらかだろうという気がしたからだ。
     けれど、そんなことにすら、ああ、それでもそれが、そういうところがこいつなんだ、と思うと、また泣きたくなるような心地になる。
     ブラッドリーはそういう男で、でも、どこにもこういうやつは、いなかった。
    「……いなかったんだ」
    「なにが?」
    「あんた、が」
    「……そうか」
    「俺も、魔法使いじゃなくて、ただの人間で、雨の街で、飯屋をやってた」
     それが、自分の望みだった、と。
     言われれば、確かにその通りで、そうだったらどんなによかっただろう、と思ったことは数え切れない。
     けれど、望みの叶った世界だったあの場所で思ったことは、ただ一つだったのだ。
    「確かにそれは……俺の願い、だったと思うよ。もし俺が魔法使いじゃなくて、街の片隅で小さな飯屋をやってるただの人間だったらどんなによかっただろうって、思ったこと自体は、何度もあったからな。でも、願った通りの穏やかな暮らしをしてたはずの俺は、どうしてもなんか忘れてる、大事なことがあったって、そう思ってた」
    「夢の中でか」
    「ああ。まあ夢だって全然わかってなくて、本当にずっと自分がそうやって生きてきた自意識まであったよ。戻ってこれなくなるやつが出るのも分かるくらい、ほんと、すごく生々しいってか、現実感があった。だから余計混乱して、でも思い出さなきゃいけないってすごく強く思った時、俺は……あんたに渡したはずの指輪を持ってた」
     今思えば明らかにムルの姿をした魔法使いが出てきたくだりは、ややこしくなりそうだったから省いた。ブラッドリーを呼んできたのもムルだったようだし、今回の件についてなにか知っているのかもしれない。気にはなるが、深く聞かない方がいい気もする。
    「それで、目を覚ますことができた、ってわけか」
    「……たぶん。最後の方はすごく強くなにかに引っ張られるみたいな、自分の内側から何かがでてくるみたいな強烈な感覚がしたのだけ覚えてるけど、はっきりした記憶は残ってないんだよな」
    「まあ、その辺はきっとあとで嫌でもおかっぱとか呪い屋あたりに詳しく聞かれるだろうから、そん時に頑張っとけ」
     それから、ブラッドリーはにやりと口の端をあげた。
    「とりあえず、てめえがよく分かんねえながら、こっちに戻ってきたいと思ったのは間違いねえんだろ。今はそれでいい。できなかったこと、叶えられなかったことをいつまでもくよくよ考えんのは、俺に言わせりゃ時間の無駄だ。いつも言ってんだろ、叶えるために何ができるかを考えるんならいいが、単にああすればよかった、こうしなければよかったって思うだけじゃ、なにも進まねえ。自分以外の何かのせいにするのはもっと最悪だ。魔法使いに生まれたから、弱えから、自分にはこれができない。これが手に入れられない。じゃあどうする。てめえは、どうしたい」
     ネロは僅かに項垂れた。
     こちらへ戻ってこられた今だって、そう突きつけられるのは得意じゃない。
     もともと、ブラッドリーのように生きられないから、そう生きるようにできていないから、忘れようとしたのだから。
     しかし身体を硬くするネロと反対に、ブラッドリーの纏う空気が、ふっと緩む。
     頭に大きな手が載せられた。
    「難しく考えんな。てめえには、もう分かってるはずだ」
    「!!」
    「きれいな言葉を並べる必要はねえ。ただ貪欲に、素直に、しがみつけ。従えられなくても、乗りこなせばいい。てめえには、それができる」
    「……っ……」
     笑い出したくなるような、ただ無性に涙を流したくなるような、はたまた胸ぐらを掴んで揺さぶりたくなるような、そんな激しい感情が、いっぺんにネロを襲った。
    「……っだ、」
    「だ?」
    「だ……からてめえは、そういうところだって言ってんだろッ!!」
     結局ネロは、そうしたいと思ったことをぜんぶ一度にした。
     笑いながら涙を流して、ブラッドリーの胸ぐらを掴み力いっぱい引き寄せる。
     そうだ。そうだよ。こいつはこういうやつで。
     これほど自分を波立たせ、苛つかせ、感激させ、陶酔させ、息もつかせぬ激しい感情を引き起こすやつは、他のどこにもいない。
    「お、おい! ったく、今のは感激して抱きついてくるところだろ!?」
    「だからそうしてんだろ……」
    「あ? お、おう……てめえの感激は、だいぶ変わってんな」
    「うるせえよ」
     自分のいるべき場所を、そうやってこちらの都合もお構いなしに、叩きつけるように教えてくる。
     そしてそれが、自分はどうやら決して嫌ではないらしい。
     疑似にしろ失って初めて分かるなんてあまりにも恥ずかしいが、そうだったのだから仕方がない。
     これからもこうやって、もううんざりだ、と思いながら、きっとまた飽きもせず求めてしまう。
     そう分かったのがいいのか悪いのか、それはブラッドリーではないが、考えても詮無いことなのだろう。
     魔法使いでなかったら、どうだったのか。
     暴走した思念の取り憑いたハーブが示した解は一つでしかない。
     もっと、他の可能性だってあっただろう。
     けれど、ネロはもう、今それ以上を知りたいとは思わなかった。

     その後、正式な報告書を作成するだのでネロは改めて一連の出来事について話をしたり質問をされたりしたが、それもようやく一段落した。
     日が経つにつれ、夢の中ではあれほど鮮明に体験したはずの出来事も、次第に薄れ始めている。
     ファウストによれば、被害報告が上がっているのはすべて人間が使用した場合のみで、今回ネロが魔法使いであったことが多少は作用している可能性がある、ということだった。
    「魔法使いは心のありように多くの人間よりも敏感にできているし、そうあるように訓練するものだ。だからおそらく異変にもいち早く気づいて、元に戻ろうとする力が強く働いたのかもな」
     ネロが自室で昏倒しているのが見つかってすぐ、ファウストが呼ばれて駆けつけ、ちょうどアーサーたちが調査していたハーブとの関連を疑った時点で、治癒魔法や魔力による強制介入は避けるべきだと判断を下したという。
    「積み重なった人の思念が暴走したものである以上、摂取したきみ自身の心と複雑に結びついてしまっている可能性が大きかった。無理に介入すれば、心ごと破壊しかねない。きみ自身の心が歪みに気づき、自分の意思で幻想を打ち破ることに賭けるしかなかったんだ。ムルが一度きみの夢に同調して働きかけようとしたようだが、それも危険すぎるからと一度で止めた。もし長引くようなら、フィガロに頼んでなんとかできないか検討しようと言っていたところだったんだ」
     魔法使いは元来、心の違和感に敏感にできている。ネロならば、きっと気づく。普段からよく見ている自分がそう判断し、そこに賭けた、とファウストは言った。賢者もずいぶん心配していたと聞き、あとでおじやでもなんでも作ってやろう、とネロは思う。
     ちなみにその場にはムルもいたのだが、ネロの予想に反して「自分の望みと向き合えた、強さの勝利だね」と意味深な笑みを浮かべてウインクしただけで、それ以上は何も言ってこなかったので、逆に少し背筋が寒くなった。
     しばらくは何か異変が残っていないか注意して過ごすことにはなったが、こうして事態は一応の収束を見て、魔法舎にはまた日常が戻ってきた。
     中央の魔法使いたちは賢者とともに東の国に調査に向かっている。本来であれば主導するはずの東の国の魔法使いはネロの大事をとり、今回は留守番になった。
     今も、魔法使いに生まれてよかった、とはあまり思えていないネロだ。
     だが、そう生まれついたものを乗りこなす、という感覚は、言いかえれば受け入れ、そうあるように生きる、ということでもあるだろう。
     それなら、確かにずっとそう生きてきた気もする。
     そうしか生き方を知らなかった。それが自分に「できる」ことだとは、思ったこともなかった。
     まんまと、またあの男に乗せられている。
     そう、思わなくもない。
     分かっていても、乗せられてしまう。
     何度傷ついても、落胆しても、もうそれも仕方のないことなのだろうと、そう思うくらいには、ネロも分かってきている。
    「あとは、こいつを振って……と」
     じゅわりといい色に揚がった肉に、今度はきちんと安全を確認したハーブを調合した調味料を振りかけていく。
     息をするように、あの顔を思い浮かべてせっせと夜食を用意してしまう、そこにもう答えが出ている。
     好物を前にして輝くあの顔を見たくて、自分は料理をするのだ。
     夢の中でも、思っていた。思い出せていなかったというのに、それだけは分かっていたのだ。
     改めて思うと、ややむずむずとしたものがこみ上げてくる。
    「仕方ねえだろ……あんなのは」
     誰に聞かせるともない言い訳を独りこぼして、ネロは顰め面のまま、エプロンを外して皿を持ち、キッチンを後にした。
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