黄昏時の泡沫の夢広い日本庭園、テレビや教科書でしか見たことのないような趣のあるお屋敷、薄暗い室内から見える空の色は黄昏時で、地平線の黄金色から徐々に宵闇の濃い青色へとグラデーションを織り成していた。
夏の終わりの夕方のようなまだ熱気が残る風が吹いたかと思えば、今度は秋の夕暮れのように目が眩むような西日と共にどこか物寂しい風が吹き抜ける。
どこか、何か、説明しようのない違和感が、ここが人間の居るべき世界ではない常世と現世の狭間の世界である事を直感的に感じさせていた。
その日、鳥月は神野悪五郎の邸宅に招かれた。招かれたと言っても半ば強引に、人さらいと間違えられてもおかしくないような状況だった。
いつもと変わりなく西東京妖怪公園での日勤を終え、帰宅の途につこうとしていたまさにその時、神野の配下である武者髑髏達が装飾の施された立派な駕籠を担いで現れたのだ。呆気にとられた鳥月をよそにあれよあれよと駕籠に押し込められ気がつけば空の上。ともに退勤し、すぐ間近に居たはずの同僚達の慌てふためく騒がしい声がはるか下の地上から聞こえてきたが、それもだんだんと聞こえなくなっていった。
拐われた当の本人は初めこそ驚きはしたものの、そこは持ち前の順応力を発揮し、意外にも快適な駕籠の中で大人しく揺られていた。
それから数分か、はたまた数時間か、時の流れが曖昧になるような不思議な感覚を経て、気がつけば立派な庭のある立派なお屋敷の目の前に降ろされていたのであった。
「さっきのは神野さんの子分さん達…だよね…?」
そう言って辺りを見渡すと、先ほどまでそこにいたはずの武者髑髏達も立派な駕籠もいつの間にやら音もなく消え去っていた。
「もしかして…ここは神野さんのお家…?」
誰に問うでもなく疑問を口する。
「人間達が言う家とはちっとばかし意味合いが違ってくるが、まぁそんなもんだ。」
間を置かず、どこからともなく懐かしい声が降ってきた。
目線を上に移すとそこには、屋根の縁に足を組んで座し煙管を悠々とふかす神野の姿。
ばちっと二人の目が合うと神野はニヤリと笑い、鎌輪奴柄の羽織をなびかせながら地上に降り立った。
「神野さん!お久しぶりです!お変わりないようで良かったです…って、あ、そうじゃなくて、私、神野さんの子分さん達に連れられて、気がついたらここにー…」
無理やり連れて来られたとはいえ、見知らぬ場所の敷地内に無許可で立ち入る事は何とも居心地が悪い。まるで不法侵入したかのような錯覚に陥って思わず居たたまれなくなり、言い訳のような言葉を口にした。
そんな鳥月の心情を知ってか知らずか、神野はくっくっと含みのある笑いを漏らし、口を開いた。
「あー分かってる分かってる。俺が命じた事だからな。」
「え?神野さんが?」
思いもしなかった神野の返答に、大きな瞳を一層見開いて聞き返した。
──私、何かしたっけ?
一抹の不安が過る。
とりあえず中に入れよ、と言われ案内されたのはこれまた立派な床の間で、室内に足を踏み入れると畳のい草の良い香りが鼻腔をくすぐった。
壁には何か掛け軸が吊るされており、棚には調度品のような物が飾られていたりしたが、ひとつひとつを確認する心の余裕は、とてもじゃないが持ち合わせていなかった。
「私に、何か…?」
室内に入り促されるがまま対面して座る。
全くもって検討がつかないが、神野に呼び出されるという事は相当な事態なのではないか…
餓者髑髏の件かそれとももっと何か重大な…
鳥月の脳裏に一瞬の緊張が走った。
「なに、難しい話しじゃねぇ。前に言ったろ、もっとすげぇ絵を描いてやるって。」
そう告げる神野の顔はどこか楽しそうで、機械仕掛けの赤い瞳がきらりと輝いたような気がした。
思ってもいなかったその言葉に先ほどまでの緊張が一気になくなり脱力しかけたが、それよりもただの一人間との何気ない口約束を未だ覚えていたなんて…とむしろその事実に心底驚いた。
「その絵ができたから呼んだだけだ。」
満足気にそう言うとクイっと顎で鳥月の背後を指し示す。そこには部屋に入った際ちらりと横目で見た掛け軸が吊るされており、先ほどは確認する余裕もなかったが、よくよく見ると抽象的な日本画が描かれていた。
かつて一度だけ神野さんの描いた絵を見た事があった。それは以前、神野さんが初めて妖怪園を訪れた時。茶の花さんの茶室で複数の日本画を見せてもらい、その独特な感性がとてもおもしろく、印象に残っていた。その時の絵と筆触が同じようだった。
紛れもない神野さんの絵だ───
「この絵はー…」
やはり抽象的で対象物が直接描かれているわけではないが、どこか優しげで、どこか慈しみを感じるその絵が何を表しているのかはっきりと分かった。
「神野さんと…私、ですね?」
そう答えると神野はよりいっそう満足気に笑った。
「ふぅむ。今回のはわりかし自信があったんだが…
やはり何が描かれてるか分かっちまうんだな。」
残念がるような物言いとは裏腹に、その声色はどこか嬉しそうで、今まで見た中で一番あたたかい表情をしていたように感じた。
神野さんはいったいどういう想いがあってこの絵を描いたのだろう。どういう気持ちがあって私にこの絵を見せたのだろう。絵に関してはこだわりのある神野さんの事だ。きっとこの絵を通して私に伝えたい事があるのではないのだろうか。
それがもし私が神野さんに伝えたい気持ちと同じものだったならー…
ふいに、彼の体温を確かめたくなった。
確かにここにいるのに、とらえどころのない彼の生き様はまさに魔そのもので。
捕まえておかなければたちまち消え去ってしまうような、そんな風のように自由で掴みどころのない彼という存在が、今、確かに手の届く範疇に居る事を肌で感じたいのだ。
対面して座る神野さんの元へそうっと近づき、額と顎を覆う甲冑のような頭飾りのすき間をぬって頬を一撫でしてみた。冷たくもなく温かくもなく不思議な温度だった。
神野さんは私の手を拒絶する事なく、ただ優しく掴み返してきた。むしろもっと触れと言わんばかりに引き寄せられる。
こんなに近くに居るのに、今この瞬間お互いの体温を確かめ合うかのように触れ合っているのに…
明日になればきっとまた彼の居ない日常生活が待っていて、今感じているこの体温すらも少しずつ忘れていってしまうのだろう。神野さんはー…魔物は気まぐれで、再び会えるのは数ヶ月先か数年先か、へたをすれば私の寿命があるうちに会えない可能性だって十分にあり得るわけで…
今日だってそうだ。神野さんが私をここへ招かなければ会えないままだった。神野さんに会う術を持たない私は、いつだって待ってる事しかできない。
そんなの、いやだ。
「神野さん…私は人間で神野さんは魔物です。」
「…?
それがどうした?」
「種族や立場はもちろんですけど、どうしたって生きる時間も違うし、考え方も生き方も違う。」
「……」
意を決して話し始める私を神野さんはただ静かに見つめていた。
「ただの人間が魔の側に永く居続けると…その、人間にとっては…あまりよくない影響が現れてくる、って事も…知ってます。」
「私は、それでも構いません、だから、どうか私を神野さんの側に居させてください。」
たとえそれが、人としての真っ当な生き方全てを手放す事になったとしても。
刑天に襲われ窮地に陥った私を、彼が現れなければ間違いなく死んでいたであろう私を、救ってくれたのは紛れもない神野さんだ。
あの日あの時から、私の魂は彼ただ一人に縛り付けられている。
「そんな事言ったって、後悔しかしねぇだろ。」
きっと私の人間らしく平凡で安定しているべき人生を案じての、神野さんなりの不器用な優しさを感じた。
それでも私の心は決まっている。
「そんなの、分かりません。」
「でも今はー…」
今だけは───
続ける言葉を飲み込んで、視線を絡める。
永遠のような一瞬のような間をひと息挟んで、どちらからともなく唇を重ねた。
常しえに変わらぬ黄昏時の空に、宵闇の冥色がいっそう濃く、妖しく、色変わりしたような、そんな気がした──