サマー・ナイト・ダンス 深夜、だったと思う。時計を見る前に電話に出たから正確な時間はわからないが、頭がぼんやりとして仕方がなかった。
「ぁい……」
「チビ」
その声に飛び起きてスマホを落としてしまった。急いで拾い上げた画面にはアイツの名前があって、脳が一気に覚醒する。アイツが電話してくるだなんてよっぽどの……いや、初めてのことだった。しかもこんな夜中に、だ。
何があったのかと身構えてしまうのは当然で、心臓がバクバクいっている。これでたんなる気まぐれだったら文句のひとつやふたつ言う権利はあるだろう。
俺はコイツの言葉を待った。コイツがなかなか喋らないから、ずいぶん長いこと黙ってたと思う。
「……おい、用がないなら」
「死んでる」
「は?」
死んでる、って聞こえた。こんな真夜中に、こんなあっさりと。
一瞬で最悪の想像で頭がいっぱいになった。まさかチャンプが死んでしまったんじゃないか。口の中がカラカラになって、ようやく絞り出すように声を出した。
「チャンプがか?」
「覇王だっつの」
「そんなことはどうでもいい! チャンプは、」
「覇王じゃねーよ」
その言葉を聞いてベッドに倒れ込んでしまった。最悪の想像は否定されたが、だとしたら何が死んでいるのだろう。こんな、深夜に電話をかけてくるほどの存在が。
他の猫だろうか。それとも、まさか、人が?
「……死んでるって言ったか?」
「そーだよ。だから早くなんとかしろ」
「なんとかしろ!? 何言ってんだオマエ」
何かが死んでいて、それが人ではない保証がない。そんなものを俺になんとかさせようとしているなんて、なにがなんでもめちゃくちゃすぎる。
「……そもそも、何が死んでいるんだ」
人か? とは聞けなかった。人だったら俺はどうしてたんだろう。警察を呼べって言ってたのか。円城寺さんやプロデューサーに連絡していたんだろうか。
でもコイツが頼っているのは俺で、それには理由があるんだと思うと突き放すようなことはできなかったと思う。
だから、ただ聞くしかなかった。望んだ言葉を待つしかない俺にコイツはいう。
「何が死んでたらチビは来んだよ」
「……は?」
「だから、何が死んでたらチビは来んだよ」
頭が痛い。そんなの、オマエが頼むなら、オマエが俺しか頼れないなら死体があってもなくても行く。っていうのは大袈裟だけど、こんな調子で埒があかないのなら行くしかないってわかってる。無視なんてできない。真夜中の、蝉の声がする。
「……行くから、そこ動くなよ」
いつもの公園でいいんだな、と問いかける。アイツは少し笑って通話を切った。
***
「遅ぇよ」
「オマエが急なんだ」
公園には当たり前にコイツがいた。街灯の下で銀の髪をきらきらとさせて、なんだか不機嫌そうにぶすっとしてる。
「オマエ、あの電話はなんなんだよ。死んでるって何が、」
「アレ」
俺の言葉を遮って、アイツがドーム型の遊具を指す。
「死んでるから、どうにかしろ」
おそらく、あの遊具の中で何かが死んでいるんだろう。虫か、動物か、最悪、誰かが。
一度だけコイツの目を見た。その目はきらきらと光っているのにひどく冷たい。遊具のぽっかりと空いた闇を見つめていて、なにも映さない。
暗がりに顔を突っ込む。絶望する。人影がそこに倒れていた。
「……ははっ……」
人、死んでんのかよ。意味わかんねぇやつだと思ってたけど、ここまでだとは思わなかった。「おい、」と呼んだのに返事はない。言いたいことは山ほどあったけど、どれも言葉になってくれない。
コイツが死んでるって言うんだから死んでるんだろう。それでも俺は僅かな可能性に賭けてその死体に近づいた。もしかしたら生きてるかもしれない。そう思い近づいたが、明らかにおかしなことに気がついた。
死体の服がアイツと同じだった。
アイツがなにか余計なことをしたのか? それとも、が浮かぶ前に近づいてうつ伏せだった死体をひっくり返す。どっからどう見ても、その死骸は牙崎漣だった。
「……は?」
いろんな人が褒めてる白い肌。長いまつ毛。暗闇の中でうっすらとぼやける銀の髪。瞳の色は見えないけれど、俺が目の前にしているのはどう見たって牙崎漣の死体だった。
「おい、どういうことだよ、これ」
俺は牙崎漣の死体を抱き抱えながら後ろにいるはずのアイツに向き直った。触れた首筋は冷たくて、真夏の湿度の中でもさらさらとしている。
「言ってんだろ。死んでるから何とかしろ」
「なんとかって、」
「何してもいい」
え、という声すら出なかった。ただ俺の喉はひゅっ、と短く鳴っただけで、視線も意識もアイツからそらせない。
「チビなら何したっていい」
よく意味がわからなかった。だって、やるとしたら警察に連絡して、いや、プロデューサーに言うのが先か? コイツはどうしたいんだ。なんでプロデューサーに言わない。なんで円城寺さんに言わない。
「……なんで、俺なんだ?」
コイツは笑わなかった。ただ、唇だけが半月のように弧を描いた。
「チビならいいって、言っただろ」
偉そうな、それなのになんだか甘い声がする。そういう滑らかな糸に絡め取られていくようで、思考がだんだん鈍くなっていく。
「何がしたい?」
「なにって……」
警察? 救急車? いまさらじゃないか? プロデューサーに言わなきゃ。円城寺さんに助けてもらわなきゃ。人を呼んだら、コイツが俺を呼んだ意味は? 何してもいいって、俺に言ったコイツは。
いっそ埋めちまうか。土の下に隠して、俺たちだけの秘密に。
「……食ってもいいのか?」
「は?」
ぼんやりとした頭を埋めていた薄暗い犯罪計画を無視して、口からは考えたこともないような言葉が出た。隠すにしても、これはあまりにもお粗末で、気が狂ってる。
「食うって、」
「あ、いや……」
「……くはは! バッカじゃねーの!?」
嬉しそうに、楽しそうに、夏の夜を裂くような苛烈さでアイツは笑った。いや、アイツだけじゃない。俺の腕の中からも笑い声が聞こえる。何もかもおかしいって言いたいのに、きっとここでは俺だけがおかしい。
「くはは……バカなチビ」
ぎゅっと抱きしめ返された。腕の中の死体が俺の首に腕を絡めて笑ってる。
「……え?」
「食うんだ? オレ様を」
死体が笑う。半月のような瞳が俺を見ていた。
「変なの」
「なっ……おい!」
振り返り、さっきまで会話していたアイツを探す。アイツはどこにもいなかった。
俺を呼びつけたアイツが消えて、さっきまで死体だったコイツが俺に抱きついて笑ってる。摺り寄せられた頬や俺を抱きしめる腕は冷たくて、それでも触れた箇所から熱を帯びていく。
コイツが全体重をかけてくるから押し倒されないようにぐっと力を入れる。と、その力を利用されて抱き抱えられたまま二人で地面に倒れ込んでしまった。遊具の中だから塗装されているとはいえ砂は入り込んでいてざらざらする。
「なんでもしていいのに、食うんだ?」
ひんやりとした両手が俺の頬を包む。じわじわ、俺の熱が移っていく。逃れるように体勢を変えて、乗り上げて、コイツを組み敷いた。
ああ、おかしくなってる。俺が、俺だけが。
唇が触れ合うほど顔を寄せてコイツの呼吸を確かめる。夏の夜よりも色濃く、生命の気配がする。視線が交わった瞬間、いきなり引き寄せられて唇が触れた。舌を覗かせながらコイツが笑う。
「おい、オレ様を食うんじゃなかったのかよ」
「……黙ってろ」
今度は俺から口付けた。ああ、やっぱり俺はおかしくなってる。夏の死体と夜から滲む、むせかえるような命の匂いに毒されている。
コイツがしてきたじゃれあうような、ただ唇を触れ合わす行為じゃなくて、呼吸ごと飲み込むつもりで噛みついた。睨みつけた蜂蜜色の瞳が愉悦と苦しさで歪んでいく。酸欠になったら唇を離して、大きく息を吸ってまた噛みついて、きっと交わった時間は1分もないけれど、夏が終わるまでずっと息を奪い合ってるんじゃないかって思ってしまった。
見下ろしたコイツは暑さと酸欠で耳が真っ赤になっていた。耳だけじゃなくて、頬も、真っ白な首筋にも血が通っているのがわかる。もうコイツは死体じゃない。食べて、隠す必要なんてない。それなのに、なんで俺は止まれないんだろう。
「……満足か?」
「足りねぇよ」
黙らせたかったのか、食っちまいたかったのか。わからないまま首筋に歯を突き立てる。プツ、と皮膚を噛み切る感触があって、コイツが耐えるように息を止めて、少しだけ血の味がする。血の味が俺のと一緒なのがなんだか妙におかしくて、ため息のように吐いた息には加虐の色が滲んでいた。
コイツがあんまりにもされるがままになってるから、俺もどんどんおかしくなっていったんだと思う。プライドの高いコイツが俺に組み敷かれて、ただ荒い息を吐いている。さっきまで冷たかった体は熱っぽくて夏の夜に溶けそうだ。現実と境界を失ったようなコイツを繋ぎ止めるように、いや、いっそ俺との境界も曖昧にするみたいに、服の下に手を滑り込ませてその肌に触れた。
しなやかな筋肉のついた腹をつたって肋骨をなぞっていく。コイツはくすぐったそうに体を捩るだけでなんの抵抗もしてこない。ただくつくつと笑って、俺に暴かれるがままになっている。
胸に触れた瞬間、コイツは短く息を飲んだ。そのままグッと胸に当てた手のひらに体重をかけて肺と心臓を潰していく。沈めていた手が骨に遮られて、そこでようやく肉の下の鼓動に気がついた。ああ、コイツはやっぱり死体じゃない。夏に溶けるようなまぼろしやまやかしなんかでもない。
「……オマエは生きてる」
だから好きにしてなんていいわけない。わかってるのに。
「いつか死ぬ」
「なんでそういうこと言うんだよ」
バカ、と言って手を離した。俺が見下ろしてもコイツは逃げようともせず楽しそうに笑うだけだ。口付けるような優しさで首筋に口付ければ、生きている人間の、どくどくと鳴る血の温度を感じた。
「オレ様が死んだら食うって、チビ、言ったな」
「……おかしくなってた。そんなことしない」
「なら、オレ様が死んだらおかしくなれ」
コイツはずっと楽しそうにしていた。俺はどんな顔をしていいかわからなくて、そのままコイツを押し潰すように全体重をかけた。コイツがひときわ楽しそうに笑うから、そのまま腕の中に閉じ込めて強く抱く。そうやって自分の命のように大切に抱きしめていたら、いつのまにかコイツは眠っていた。なんだか、ひどく楽しそうに、にこにこと眠っていた。
***
まだ朝日までは程遠い。コイツを置いていくか、それとも俺の家に連れ帰るか、どちらとも決められなくてぼんやりと夏の暗闇を見つめている。
コイツが俺にした命令は約束のうちに入るんだろうか。だとしたら、俺とコイツは初めて約束をしたんだろうか。アイドルではない俺たちがした初めての約束。コイツの人生のおしまいに果たすべき約束。
なんだか腹が減って仕方なかった。なにか食べて、それから考えるか。
コンビニに行って、揚げた鶏を買った。公園までの道でそれを齧りながら、アイツをどうするか考える。
当たり前だけど、鶏からは血の味はしなかった。それは死んでいるという証明だった。