所有「オマエ、プール行ったことないだろ」
チビがそう言ってオレ様を見た。真っ青な瞳の奥に憐れみに似たものを感じて嫌になった。蝉も鳴けないような陽射しの下で、言葉がカゲロウに揺らめいている。
チビがオレ様を憐れむことはないと言い切れるが、チビは自分の当たり前をオレ様が知らないと、どうしようもないほどに苦しそうな顔をする。チビは憐んではいないんだろうが、オレ様がその視線に名前をつけるとしたら『憐れみ』という言葉が一番しっくりくるんだからどうしようもない。
そういう、チビ自身が気がついていない妙な癖にオレ様は気がついている。
プールに行ったことがないなんて、これっぽっちも口にした覚えはない。ただ少し前に学校で撮影があったときに、コイツの前で学校には行ったことがないとは口にした。その時からなんだか小骨が刺さったような顔をしていたから、きっとプールってのは学校に行ったことがない人間には縁がないところなんだろう。
「だからなんだよ」
別に興味ねぇし、と言外にチビの言葉を認めれば、チビはなんだか考え込むような素振りを見せた。これは何かを考えているというよりも、言うと決めたことを口にするタイミングを計っているだけだ。チビは気遣いは下手だけど誰かのことを思わないわけじゃない。それなのに、相手がオレ様になると途端にそれを忘れやがる。
「行くか。プール」
「ハァ? 誰が行くかよ」
めんどくさいし、こんな暑さでどこかになんて行きたくない。なによりプールってのは学校に行かないと入れない場所なんじゃないのか。
思ったことの中から「めんどくせぇ」とだけを口にすれば「そんなことない」なんて言われるから、オレ様は心底呆れてしまった。こういう悪癖がチビにはずっとある。なんか、オレ様のことを自分のものだと思ってるっつーか、自分そのものだと思ってるっつーか。
「なんだそれ」
「いいから。ダメか?」
ダメじゃない。嫌なだけだ。チビのワガママにはそういうのがすごく多い。
ダメだと言えば引き下がるだろう。でも、嫌だと言ったら絶対に食い下がる。面倒を避けるために面倒なやりとりをするのも馬鹿げてるし、断っても寝る以外することねーし。
「なら全部チビが支度しろよ。オレ様はなんにもしねーからな」
「ああ」
きっとチビはらーめん屋を呼ばない。バカだなって思うけど、気分がいい。チビがバカだと、オレ様はムカついたり、上機嫌になったりする。
「ところで、プールって何すんだよ」
どのみち行くことには変わりないが一応聞いておく。よっぽど面倒なことだったらやっぱり行かねえ。
「泳ぐところだ」
だったら海でいいのに。思ったけど、言わなかった。
プールってのは悪くなかった。泳ぐのが特別好きってわけじゃないけど体を動かすのは嫌いじゃない。それに今日はチビがオレ様の言うことをなんでもかんでも聞くから少し愉快だった。でも、やっぱりムカつきもする。オマエがワガママをなんでも聞いてやりたい相手ってオレ様じゃねーだろ。
でも満足な気持ちが勝った。尽くされて悪い気はしないし、チビも上機嫌だから良しとする。オレ様はジヒブカイからチビが楽しそうなら水を差すような真似はしない。
プールは全然学校と関係なかった気がする。変な滑り台もあったし飯屋もあった。あらかた泳いで飯を食って、そっから少し泳いだら飽きてきたから帰ると言えばチビも帰ると言ってきた。なんつーか、今日のチビは重症かもしれない。
夕暮れにはまだ早かった。蝉も息を潜めている。日差しに晒された髪がどんどん乾いていくのを良しとしていたら、チビがなにか呟いた気がした。
「チビ、なんか言っ……っなにしやがる!」
髪が少し引っ張られる感覚がして、そのあたりを手で払ったらチビの手を叩き落としていた。チビがオレ様の髪に触れたのだと、数秒遅れで気がついた。
「びっ……くりした。なにするんだよ」
「こっちのセリフだ! ったく……チビの分際でなにオレ様の髪に触れてやがる」
叩き落としておいてなんだが、正直苛立ちよりも困惑が勝った。チビがオレ様の髪を触るだなんて、考えたこともなかった。
「いや、なんかパサついてるから」
「……ハァ?」
髪に触れてみれば、パサパサとした髪は普段よりも手触りが悪い気がした。チビはなんだか考え込んで、勝手に一人で結論を出す。
「……ああ、プールの塩素か」
「エンソォ?」
意味がわからない。プールにはエンソってやつがあるんだろうか。オレ様はエンソなんて触れてもいないのに。
疑問を隠しもしないでチビを見ていたら、チビは「プールにそういう薬が入ってるんだ」と言ってきた。髪がパサパサになる薬って、ヤバい薬だろ。
「それ大丈夫なのかよ」
「消毒なんだ。だからむしろないとダメだ」
「ふーん。変なの」
変なの、と言ったらチビはそれきり話を続けることはしなかった。チビはあんまりものを知らないし、話が続くほどエンソの知識がないんだろう。
黙って、のんびりと歩いてた。最強大天才はあくせくと歩いたりしないし、チビはオレ様に合わせてゆっくり歩く。コイツが一歩後ろをついてくるのはなんだか変な感じだった。
「髪」
チビが突然立ち止まって言った。背中越しに、声が聞こえる。
「ごめん」
「ハァ?」
なんでだよ。なにがどうなるとそんな言葉が出てくるんだよ。
距離がなかったら手が出てたかもしれない。でも仮にチビを殴っていてもどうにもならないからオレ様は深く息を吐き出すことしかできない。こういうときのチビは自分勝手で、感傷的で、手に負えない。
「なんでチビが謝んだよ」
「……確かにそうだな。やっぱり今のはなしだ」
「コイツ……」
歩き出したチビがオレ様と並ぶ。並んで歩くために一歩を踏み出そうとしたオレ様の腕を強く掴んで、真剣な目をしてチビが言った。
「なんか嫌だったんだよ」
パッと手を離して、チビはオレ様を促すように一度だけこっちを見てから歩き出す。オレ様は日常に戻るために、わざと大声を出してチビを追いかける。
きっともう、二人きりでプールに行くことはないんだろうな。
追いつく前に、一度だけ自分の髪に触れた。確かに軋んでいたけれど、オレ様がそれを悲しむことなんてないのに。