野良猫の憂鬱 予感がした。それだけの単純であやふやな理由で俺はわざわざ上着を羽織って夜に踏み出した。目的地なんてあるはずもないのに、足は路地裏に向かっていた。
歩けば歩くほど無意味に思える時間に「明日は朝から雨が降りそうだから、アイツを家に入れてやらないと」と理由をくっつければ、それはあっさりと馴染んでくれた。そうだ、俺はアイツを探しているんだ。訳のわからない予感なんかじゃなくて、でも愛とか同情でもなくて、この意味がわからない焦燥はアイツのためだ。
明日が雨予報だってのは嘘じゃないけど、今夜は晴れていて月が綺麗だった。だからアイツがいたら一目でわかるはずだし、パッと探していなかったら今日は捕まらない。だから、と自分の中で線を引いてから路地裏を見ると、いつもチャンプが日向ぼっこをしているドラム缶の上にアイツがいた。片足をだらんと垂らして、片方の足はかかとをドラム缶のふちに乗せている。そうやって、何かを抱き抱えるように瞳を閉じている。
あそこはチャンプの特等席だけあって日当たりがいいんだろう。太陽の光と同じように、月の光がスポットライトのように暗闇からアイツを切り離していた。
きらきら、きらきらと銀色の髪が光っていて、それがどうしようもなく綺麗だった。だから、これはきっと見てはいけないものなんだという予感が少しだけ俺の足を動かした。その時に生まれた本当に小さな音で、アイツはゆっくりと目を開けた。
アイツは俺に気がついてないみたいだった。そんなこと、いつもだったら絶対にあり得ないのに。
アイツは腕に抱えていたものを少しだけ持ち上げた。そのくたりとした柔らかなものはチャンプだった。重量に従って、ぐったりと目を閉じている。
具合が悪いんだ、と思った。だってそうでもなければ死んでいるみたいだったから。
だったらアイツには任せておけない。それなのに俺の足は動かない。ようやく動けるようになったのはアイツがドラム缶から降りた瞬間で、アイツに声をかけないといけないのに俺の足は逃げるように距離を取った。
物陰から見ていたらアイツは少しも動かないチャンプを抱えて歩き出す。俺は声をかけることをせず、距離を取って、音をたてないようにしながらアイツのあとをつけた。
チャンプが動いている気配はない。獣医はもうやっていないんだから、せめて安全で涼しい場所に居させてやってほしい。迷惑を承知で円城寺さんの家に──と考えて、なぜ自分の家が浮かばなかったのかと、その軽薄さにゾッとした。
アイツはどんどん進む。俺は見つからないように追いかける。そんなことを公園までの道のりで繰り返した。アイツは俺に気が付かなかった。もしかしたら、気がついていてシカトしているのかもしれない。
夢、かも。だってチャンプがあんなにぐったりと動かないだなんておかしい。アイツが俺に気が付かないのもおかしい。この夜はおかしい。こんなの、おかしい。
アイツは花壇の前に立つとゆっくりとチャンプを土に横たえた。チャンプは目を閉じて、まったく動かない。呼吸をしている様子がないのは、距離があって俺に見えないからだろうか。
アイツは花壇に手を突っ込むと無遠慮にその土を掘り起こした。ここからは見えないけれど、きっと真っ白な手が土で汚れている。目が大きくてキラキラしてる。どうしようもないような、つまらなそうな顔をしている。
止めないと。そうじゃないなら手伝わないと。そう思うのに体は動かなかった。でも仕方ないじゃないか。この夜はおかしいんだ。
なんでアイツは俺に気が付かないんだろう。なんでアイツは土を掘っているんだろう。なんでアイツはチャンプを地面に寝かせておくんだろう。予感がずっと続いてる。チャンプは瞳を閉じて動かない。耳も、しっぽも、腹も、なんにも動いてない。
しばらくしてアイツは土を掘るのをやめて、そっとチャンプを抱きしめた。綺麗で、神秘的で、誰なんだろう、って思った。
アイツの頬がうっすらと濡れていて、月明かりを反射していた。悲しそうな、愛しむような、優しい顔をしていた。なんだか、不意打ちで殴られたような気分だった。
こんなの、知らない。アイツはこんな顔をしない。
小さく、アイツの唇が動くのを見た。親猫が子猫にするように額と額をつけて、何かを言い聞かせるようにもう一度口を開く。額を離した時には表情からは全てが抜け落ちて、魔法が解けたような冷たい顔をしていた。
アイツが土にチャンプを横たえる。ゆっくりと土をかけていく。見慣れた、見間違うはずもない毛並みがどんどん泥まみれになって見えなくなっていく。ああ、死んでるんだ。
俺は耐えきれなくなって逃げるように駆け出した。アイツは追ってこなかった。悲しいとか辛いとかわかんないけど、涙は出なかった。
***
いつ寝たのかもわからないけど、目覚めた俺は昨日の夜と同じ格好をしていて、あの光景が夢だったんじゃないかって望みを否定するように上着はしわくちゃになっていた。上着をハンガーに掛け直す時、俺はずっと憂鬱だった。
チャンプはきっと死んでいた。だって、埋められていたし。
日課のランニングで、よせばいいのにあの路地裏に行ってしまった。そうして、コイツに出会ってしまった。コイツはぼんやり、昨日の夜とおんなじようにドラム缶の上にいた。
「おい」
「ア? んだよ、チビか」
声をかけたはいいものの、うまく顔を見ることができない。どうしたって昨日見た光景がフラッシュバックして、コイツの言葉にうまく声を返せない。数秒か、数十秒か、ゆっくりとした空白の後に、俺はようやく言葉を吐き出す。
「なんか……あるだろ」
チャンプが死んだなら俺に報告するべきだ、と思う。それとも俺が見る前にチャンプの死体を埋めたのは優しさなんだろうか。
だとしたら、俺はチャンプを見なくなっても『縄張りを変えたんだろうな』だとか、そういうチャンプがいないもっともらしい理由をつけてチャンプが死んでいない世界をコイツと2人で作るべきなんじゃないか。そういうのを優しさって言うんじゃないのか。
コイツは俺がチャンプの死を知っていることを知らない。だから、たった1人でチャンプの死を抱えながら、平気な顔をして返事をしたんだ。そうやって俺のために、ひたむきにチャンプの死を隠そうとしているのかもしれない。そういうのが、どうしようもなく悲しかった。胸がぎゅう、として、潰れそうだった。
俺がチャンプの死を知っていることを打ち明ければコイツは楽になれるのだろうか。そんなことを考えながら太陽の光を浴びてきらきらと光っている銀の髪を見ていた。月明かりを纏った夜のように、ゆっくりと静かに、きらきらとしていた。
「そろそろ覇王にメシでもやるか。チビ、邪魔すんなよ」
「え?」
ドラム缶から降りたコイツはいるはずのない猫にやるためにポケットから煮干しを取り出した。数秒して、コイツは訝しげな目で俺の方を見る。
「……チャンプだ、って言わねーのかよ」
「あ、ああ」
「妙なチビだな。おい! 覇王!」
コイツに釣られるように俺も「チャンプ、」とそれなりに大きな声を出した。
届くはずのない声に返事があった。
「にゃあ」
路地裏の奥からチャンプが現れた。
トコトコと、俺じゃなくてコイツの方に歩いてきたのは間違いなくチャンプだった。見慣れた毛並みをコイツの足に摺り寄せて、しっぽを絡めて甘えた声を出している。
「……え?」
コイツはいつものように偉そうな態度で、わざとチャンプを試すみたいに高いところで煮干しを揺らす。それに戯れ付くチャンプを見て、昨日見た光景がガラガラと崩れていく。
コイツは、見ず知らずの猫のために泣くんだな。
俺が知らなかっただけでそれは当たり前のことかもしれない。いや、あのチャンプそっくりの猫はコイツと面識があったのかもしれない。でもどうしようもなく胸がザワザワした。俺はなんにも聞いてない。
お前が泣くなら、あの猫はチャンプだろ。
「……おい」
「んー」
コイツは俺の方を見なかった。誰も見てなからわからないけれど、きっと俺は酷い顔をしていたんだろう。
「オマエ、昨日の夜チャンプのこと埋めてただろ」
ぴく、とコイツの意識が俺の方に向いた、ような気がした。コイツは大きな溜め息を吐く。
「……覇王はここにいるだろ」
ああ、そんなに低い、冷たい声を出さないでほしい。きっと醒め切った目をしているんだろう。悲しいから、やめてほしい。
「チャンプじゃないのか」
「だから、覇王はここにいんだろ」
「なら関係ない猫なのか」
「関係?」
「猫、埋めてただろ」
あの夜、あんなに見つかるのが怖かったのにあっさりと口にした。俺は見てたんだ。オマエがチャンプだと認めない猫を埋めるところを。
「あの猫はオマエの知り合いか?」
「なんでチビがそんなこと気にすんだよ」
振り向いたコイツは本当に不機嫌そうな顔をしていた。そうして怒ったような口調をするくせに、俺の言うことを否定してくれない。
「うるさい。オマエはチャンプじゃない猫の……、」
チャンプじゃなくても、俺が知らない猫のためにも泣くのか。俺がオマエのことを全然知らなかっただけなのか。オマエはちゃんと、普通のことでも泣くんだって。
「……それともやっぱりチャンプだったのか? ここにいる猫は、」
あれがチャンプなら、オマエが泣いてたっていい。俺の知ってるオマエはチャンプのためなら泣くかもしれないから。それならこの猫はチャンプのそっくりさんってことで、それはとても悲しいことで、でもそうじゃなきゃコイツはチャンプのためじゃなくても泣くってことになっちまう。
それならいっそ、そんなこと知らないって言ってくれたらいいのに。夢だったんじゃねーの、って言ってくれればいいのに。
言ってほしい。オマエは俺の知ってるオマエなんだって。
「どーでもいいだろ。チッ……意味わかんねー、」
「答えろよ!」
俺の大声にチャンプ──もしくはチャンプそっくりな猫はびくりと尻尾を揺らす。
コイツは猫と同じように目を丸くした後、俺を心底バカにするように目を細めて唇を歪ませた。
「……ちゃんぷ、って。呼んでみろよ」
コイツは猫を愛おしそうに抱いて、まんまるな後頭部に口付けを落とす。その優しい表情が昨日の夜に見た、頬を濡らしたコイツに重なった。
「……チャンプ」
コイツの腕の中の猫が、「にゃぁ、」と鳴いた。