夢に置き去り 円城寺道流は上機嫌だった。牙崎漣は不機嫌だった。恋仲と言っても差し支えない二人は、相反する感情の渦中にあった。
更に言うのなら、道流は酔っていた。三次会が終わった時点で道流が電車を利用できる状態ではないと判断した、彼に師匠と呼ばれる人間がその巨体をタクシーに押し込んだ。師匠――プロデューサーは自分がついていかなくても大丈夫かと何度も問いかけて、道流はその心配を笑い飛ばして一人で帰宅した。それは決してアパートの階段を上るだけなら泥酔した自分にもできると判断しての行動ではなく、ただ全身を支配する多幸感に後押しされた根拠のない自信だった。
そんなもんだから、道流は鍵を持っているにも関わらず玄関の扉をガンガンと叩き、家の中で眠りの浅瀬にいた漣を起こして鍵を開けさせた。そうして開いた扉を背に道流は「れ~ん~」と猫なで声を出し、にへら、と笑いながら漣が逃げ出す前に抱きついて、その米袋八つ分の体重を遠慮なく彼に投げ出した。ぐえ、と。漣の口から漏れた悲鳴に返されてのは謝罪ではなく笑い声で、したたかに打ち付けた背中の痛みとその陽気な声に、ただでさえ募っていた漣の苛立ちは最高潮に達した。
「れん~。はは、ただいま。なんだ~起きてたのか。待っててくれたのか~れんはやさし~なぁ」
「さっきまで寝てたっつーの! うぜー……おい、それやめろ」
「なんだ、ちゅーさせてくれないのか?」
「酒くせーんだよ!」
ぐい、と漣の手が道流の頬を掴み、その行動を静止する。漣にその気がないことを察した道流は諦めたように漣の肩に頭をおいた。漣はといえば、道流の体重から逃れようとあれこれ試みていたけれど、まったく効果がないと知り、諦めたようにぼやりと電球を眺めていた。
このまま眠るはめになるのだろうか。諦めが漣の胸中を通り過ぎた時、道流がぼそりと呟いた。
「……なぁ、漣。酒ってな、うまいんだぞ」
飲みすぎた言い訳だろうか。漣は返事はしなかった。意識があるなら、どいてほしい。
「楽しみだろ? 漣。二十歳になったら、酒が飲めるんだ」
「……別に、今でも飲もうと思えば飲めんだろ」
飲まないのに、漣はそういうことを言う。それを嗜めることもなく、独り言のように道流は続ける。
「なぁ、漣。漣が二十歳になったら一緒に酒を飲もうな。タケルには悪いけど、一足先に飲んじゃおうな」
意外なような、意外ではないような。こんな提案は、酔っているからだろうか。抜け駆けのような言葉。
「それでな、タケルも二十歳になったら、三人で飲もうな。自分の家でも、居酒屋でも、どこだっていい。三人で、酒を飲もう」
「…………嫌だって言ったら?」
「そんなこと言うなよ、な?」
まるで漣がワガママを言ったかのように、道流はあやすように漣を撫でる。しばらく撫でられるがままになっていた漣を抱きしめて、道流が酒臭い息と言葉を吐き出す。
「……漣、自分は不安だったんだ。最初の頃のお前さんは目を離したらいなくなりそうで、怖かった。でも、今はそうじゃないってわかってる。そうだろう? だから、二年後に二人で酒を飲もうな。三年後には、三人で飲もうな。なぁ、なんにも、不安がることなんてないんだ」
最後の言葉は、誰の向けたものだろう。それが自分に向けられていると思えなかったから、漣は返事をしなかった。
「約束しよう? いや、約束なんてしなくたって大丈夫だよな。大丈夫、わかってるから。大丈夫、大丈夫だ。な、二人で酒を呑むんだ……」
じわ、と頭を置かれた肩が熱くなる。らーめん屋は泣いているのだろうか。漣はぼやりを考える。
まさか、とは思わない。漣の肉体を暴くようになって、道流は対価のように少しだけ気持ちを差し出すようになっていたから。曝け出される感情には、たくさんのものがあったから。
泣くのは、意外ではあったけれど。
「二年後だ……わかってる。大丈夫。お前さんはずっと…………」
すっ、と言葉が途切れる。吐き出された吐息は穏やかな寝息に変わっていた。
「…………何がわかってんだよ……」
矛盾している、と感じる。わかっているならこんなこと、わざわざ口に出すことでもない。それでも、彼はすがるように口にする。涙を流す。逃げるように眠る。呆れたように凪いだ心が、苛立ちを平坦にしてしまった。
別に、いてやってもいい。だけど、未来のことなんてわかるはずがない。約束はできない。約束をしてやればきっとこの男は喜ぶ。それでも約束をしないのは、漣なりの誠意だった。
「……別にいてやってもいい」
この言葉はきっと夢の中までは届かない。わかっていて口にする。いてやってもいい。本心だ。だけど、約束はできない。きっと、それを道流もわかっている。
「……おもてー……」
重たくて仕方がなかった。腕の中で眠る男も、その本心も。だけど、それを嫌とは思えなかった。それくらい、漣は道流に絆されていた。形がどんなにわかりにくくても、たとえその愛が人のそれと違っていても、漣はちゃんと道流に気持ちを捧げていたから。
漣は自分に全てを預けて寝息を立てる男の頭をなでて、様々なものを諦めながら蜂蜜色の目を閉じた。
三つあった満月のうちの二つが閉じて、最後に残った電球が二人を照らしていた。