驚く顔が目に浮かぶ「オマエと一緒に暮らしたい」
そう言った時、偉そうに受け入れてくれた目の色がとてもきれいだと思った。このきらめきが神様の気まぐれだとしても、今、この瞬間だけは二つの宝石が自分のものになったような気がして嬉しかったんだ。
新居は二人で選んだ。アイツがやったことと言えば、オレが次々に持ち込む新居の間取りを見て「どうでもいい」と呟くことだけだったけど。それでも、二人で選んだ家に俺たちは住むんだ。新しいゲームを始めるよりずっとワクワクした。
部屋は和室が一つ、洋室が一つ。それとキッチンがくっついたリビングが一つで風呂とトイレは別。実際に踏み入れた部屋を見て、アイツは畳の部屋を自分の部屋だと決めた。アイツが家に関して意見を言ったのはこれが最初で最後。
引っ越しの日が決まって、少しずつ生活がダンボールに詰め込まれていく。俺の十七年ぽっちは、とてもじゃないけど二人の生活を彩るには足りなくて、もどかしい。
俺は色違いのコップを買って、おそろいの真っ白な皿を買って、それを買い足したタオルに包む。割れやすい未来をダンボールに詰めて、同じ箱に色あせた写真を入れた。過去と未来が小さな箱に収まって、アイツとの出会いを待っていた。
***
コイツの荷物はなんにもなかった。コイツには俺の知らない十数年と俺と過ごした数年があって、なんにもないはずなんてないのに。それなのに、畳に置かれたのはビニール袋に乱雑に詰められた毛布たった一つだけ。それ以外に必要なものは、全部ポケットに入ってるって言っていた。
くしゃくしゃで、表面が傷んでパリパリしている、古ぼけた毛布。無地なのか、もう柄も見えないほど使い込まれているのか、俺には判断できない寝具。言われなければ毛布だともわからない布っきれ。きっとこれはコイツを守ってきてくれたものなんだろう。そう思うと、なぜだか無性にコイツそのものが愛おしくて仕方がなくなるから不思議だ。大事なものなんだろう。コイツの大切なものは、俺も大切にしたい。でも、それだけじゃ足りないんじゃないかって俺は考えてしまう。これから、コイツの持ち物が増えたらもっと嬉しくなるんじゃないか、とか。
「寒くなる前に布団かベッド、買えよ」
コイツは返事をせず、不思議そうに俺を見ていた。俺とコイツの当たり前は少しずれていて、それになかなか気がつけない。
***
同棲生活三日目。コイツはずっと、俺の部屋の俺のベッドで夜を過ごす。狭苦しいシングルベットで男二人が三日間。きっと、俺が言わなかったらずっと続くに違いない。別にそれが嫌なわけじゃない。それでも、なんでアイツにベッドを買うように言っていたんだろう。本格的な冬までには、もう少しだけ時間があるのに。
「おい、布団かベッドを買えって言っただろ」
返答はあまりにもシンプルだった。
「あ? ここで寝りゃいいだろ」
同棲を始めたのに? そう言いかけてやめる。普通、逆だよな。一緒に住んでたら一緒に寝たっていい。
狭くてもいいんだ。オマエがあったかいのもいい。オマエのこと、好きだし。
「……別にいい」
ただ、あの毛布を忘れてほしくないんだ。あれ、俺も一緒に使っていいなら二人でくるまって眠ったっていい。オマエの大切なもの、俺も大切にしたいから。
それでも俺はあの毛布には触れることができなかった。たった一つの持ち物はコイツの深いところにありそうで、なんとなく手を伸ばすことをためらっていた。
***
結局、俺たちは寒くなったってずっと一緒に寝ていた。コイツの部屋にはベッドも布団も存在しない。
***
冬晴れの、いい日だった。いい機会だからと布団を干している間、アイツのことを考えていた。
もうずっと前からアイツと一緒に眠ることは受け入れていた。俺が嫌じゃないんだ、アイツがいいならそれがいい。
日差しが暖かくて、穏やかな気持ちになってくる。うんと、アイツに優しくしたくなる。俺は優しくするのがあまりうまくないから、一生懸命考える。でも、どれも俺よりもずっとうまい人がいるんだ。
しょげた気持ちを持ち上げる。一緒に住んでいるんだ、だからこそできることをやろう。ファンからもらった入浴剤をいれた風呂を、アイツが帰ってくるタイミングで沸かそう。おいしい夕飯が作れたら、もっと優しくできるんだろうか。
アイツのことを考えている時間が増えたのはいつからだろう。その時間を大切に思えるようになったのはいつからだろう。一回だけ言ったことがある。「俺、最近オマエのことをよく考える」って。そしたらアイツは笑ったんだ。「オレ様の勝ちだな! なんせオレ様はずーっと前からチビのこと考えてるからな!」だと。アイツはとんでもないことを言った自覚がなかったから、恥ずかしかったのは俺一人だ。
思い出したら恥ずかしい。干してあった布団に顔をうずめて思考を逸らす。ふわりと、おひさまの匂いがした。
「……そうだ」
あの毛布。あれを洗っておいてやろう。チラッとしか見ていないけど、あんまりきれいじゃなかった気がする。
触れてもいいだろうか。少し、考える。俺は少し欲張りになっていたんだと思う。
きれいになって怒るようなことはない、と思う。いや、思い出の品だろうから、許可はとらないといけない。
『おい、オマエの毛布はどこにあるんだ? 洗っておいてやる』
返事は期待していない。まあ、帰ってきたら聞いてみよう。次の冬晴れの日だって、俺たちは一緒に住んでいるんだから。
***
「……捨てた?」
「そー言ってんだろ」
冬晴れの日だったから、星のきれいな夜だった。メッセージはやっぱり帰ってこなくて、コイツが帰ってきたって既読のマークはつかなかった。
ぽと、と。俺はコイツがもらってきたプリンをこぼしてしまう。俺はこいつにあの毛布の置いてある場所を聞いたんだ。だから返ってくるのは毛布の場所のはずで、なのに、捨てたってなんだよ。
「いや……おかしいだろ」
「は? 何がおかしいんだよ」
何が、って、全部おかしいだろ。あれ、大切なものじゃないのかよ。あんな、一目見るだけで大事なんだろうってわかるほど使い込まれた毛布、なんで捨てられるんだよ。呼吸が浅くなるのがわかる。取り返しのつかない事態にずっとあとになってから気がついたっていう、すうっと頭が冷えていく感じ。
「わけわかんねえ……なんでチビがそんな顔すんだよ」
俺はびっくりするほど落ち込んでいて、コイツは明らかに困惑していた。コイツの表情を見る限り、俺はよっぽと酷い顔をしていたんだろう。泣き出しこそしなかったが、この気持ちが伝わるんだったら、泣いたってよかった。
「……大切だったんだ」
「あ? アレはオレ様のもんだろーが」
「オマエだって、大切だったんじゃないのかよ!」
わかってる。別にコイツが大切だって言ってたわけじゃない。ただ、俺が勝手に思い込んでただけ。いや、もうほとんど願望だった。コイツにも歩んできた道があって、ずっと持ってる思い出の物があって、それを大切にしてるって。
でも、コイツは言うんだ。
「別に、使ってたから持ってきただけだし……」
不満そうな、不安そうな物言いだ。それも俺のせいなんだろう。コイツは俺が落ち込むのに弱い。これは自惚れとかじゃない。
「……捨てなくてもよかっただろ。なんで捨てた」
責めるような声が出た。恨み言に近い響き。コイツに優しくしたくて、コイツの大切なものを大切にしたかっただけなのに、なんでこんな声がでるんだろう。なんで、コイツを優しくできなくて、コイツを大切に思う自分だけを守るんだろう。
「……チビ、言っただろ。一緒に寝るって」
言った。忘れてない。別にいいって、そう言った。でも、俺の中でそれは毛布を捨てることにつながらない。
じっ、と落ち込んだレモンのような瞳を見つめる。俺はとにかく言葉がほしかった。
「寝床あんだから、もういらねーだろ……一緒にいるんだろ。ずっと」
コイツが、『ずっと』って言葉を口にした。
俺はコイツと一緒に寝るって言った。でも、『ずっと』一緒に入られるって思ってたのが俺だけじゃないなんて知らなかったんだ。未来を疑ったことはないけれど、コイツがいなくなっても受け入れる覚悟をどっかでしてたんだと思う。『ずっと』はコイツの気持ち一つで、簡単に崩れ去るってわかってた。
でも、コイツは毛布を捨てた。俺とずっと一緒にいるから、いらないって。
「……オマエ、大切なもんないのかよ」
「……んだよ、いきなり」
「俺さ、オマエのこと大切にしたいんだよ。オマエの大切なもん、大事にしたい」
それなのに、オマエそういうのないじゃないか。だから、嬉しかったんだよ。たった一つの持ち物、大切なんだろうって、浮かれてた。
「俺、写真が捨てられないんだ」
「……は?」
「写真。大切な写真なんだ。オマエがいたって捨てられない。……オマエのこと、大好きなんだ。でも捨てられないものってある。オマエにだってあるんだと思ってた。思ってたかった。それだけなんだ」
俺は今があるだけじゃ、生きていけない。オマエは俺の新しい宝物であって、ずっと抱えている空白を埋める存在じゃない。だからコイツにも弱さがあってほしかったんだろうか。違うと思う。そうじゃないって思う。
俺はきっとコイツの全部がほしいんだ。コイツを作った過去もまるごと抱きしめて、オマエの全部を愛していたい。
「……オマエ、捨てられないものとか、ないのか?」
うまい言い方がわからなくて、まだすがってしまう。コイツは少しだけ考えた後、少しだけ悪い顔をした。
「チビ」
してやったり、って感じの声。コイツは俺の眉間をつついて笑う。
「オレ様の大切なもん、大事にしたいんだろ? だったらせーぜー、テメエのことを大事にして甘やかすんだな」
俺は笑えばよかったんだろうか。俺はコイツの望んだ顔を作れずに、ただ顔に血液を集めることしかできない。きっと、真っ赤になっていた。そんな俺につられて、コイツもみるみる赤くなっていく。
「……オマエ、相当恥ずかしいこと言って……」
「忘れろ!」
「絶対いやだ」
コイツは一通り唸った後、準主演として収録中の少女漫画を原作にしたドラマのせいにした。どうやら、似たようなセリフがあるらしい。俺も恥ずかしいこと言っていいかな。俺だって、少女漫画の主演はやったことがあるんだ。
「セリフじゃなくて……オマエの言葉で聞かせろ」
「……やーだ」
真っ赤な茹でダコが二つ、見つめ合って照れあって。まあ、とりあえず俺が大切にすればいいものは教えてもらったわけだし。
「……オマエの好きなもの、甘やかしていいか?」
「……好きにしろよ」
「贈り物、したい。ワガママを聞いてくれよ。それだけ、それだけはずっと捨てないで持っていてほしいんだ」
「……つまんねーもんよこすんじゃねーぞ。オレ様はつまんねーもんを持ってる趣味はねえからな」
「……じゃあ、俺もつまらない男にならないように気をつける」
「せーぜー頑張れ」
風呂。そう言ってコイツは立ち上がる。どうしてもこの恥ずかしい空間から逃げ出したかったんだろう。気持ちは痛いほどわかるから、「オマエ、風呂はもう入っただろ」とか野暮なことは言わない。
シャワーの音が聞こえる。俺はスマートフォンを取り出す。つまらないものは贈れない。とりあえずはダイアモンド、給料三ヶ月分を考えている。