魔が差したのは三度だけ 魔が差したのは二回だけ、だった。
一回目は二度目の留年が決まった日の夜。
バイトでも入ってればまだ考えずに済んだのに、運悪くバイトは休み。いや、バイトで気を紛らわしてなんていないで、ちゃんと向き合わなきゃいけない問題なんだけど、空白の時間に脳内を占める考え事は憂鬱すぎた。
母ちゃんになんて言おうとか、また一からクラスメイトとの関係を築かなければならない煩わしさだとか、そもそも俺はいつか卒業できんのか、とか。挙げ句には卒業ってしなきゃならないのかなぁ、だなんて考え出したりしてしまって。いろんなものが渦を巻いて胸の奥にずーんと溜まる感覚にひさびさに盛大な溜め息をつく。
こんな時はドーナツだ、と思ったが留年が決まった日にドーナツを買って帰ってこれるほど俺の神経は図太くなかった。でも買ってくればよかった。この家には俺の気を紛らわしてくれるものは何一つない。
ふと、何気なくテーブルの上を見てみるとそこに母ちゃんのライターとタバコが置いてあった。装飾の一切ないシンプルなライターと、線の細い少し頼りなげなタバコ。何気なく手に取るとビックリするほど軽かった。
と、同時に沸き上がったのは純粋は好奇心と、留年確定で少しだけやさぐれた破れかぶれな心。少しだけ自暴自棄を孕んだ好奇心はいとも簡単に背中を押す。
ライターの火は簡単について、その火がタバコをじり、と焦がした。
そうして火がついたタバコをしばらくながめていた。母ちゃんは換気扇の下でしかタバコを吸わないから、なんだか新鮮な感じ。いい匂いだとは思わないけど、なんだか不思議と安心した。
そうやってしばらく、線香を眺めるように目減りしていくタバコを眺めていた。そのうち、ポロリと灰が落ちて、そこでようやく我に返る。俺、何やってんだろ。
灰皿には吸い殻なんて一つもなかったから、隠すようにゴミ箱に捨てようとして、どこまで潰せば火が消えたのかわからなくって、蛇口までタバコを運んで水でぐっしょりと濡らしてからゴミ箱の奥のほうに捨てた。別にタバコを吸った訳じゃなかったけど、無性にドキドキした。
二度目は二十歳の夏だった。
その頃の俺はわりと忙しいほうだったと思う。受験勉強で大忙しの四季や、大学生になった隼人達に比べて進学をしなかった俺は時間があった。その分仕事を多めにいれてもらっていた。二十歳になって、出来ることも増えていた。
その日はたまたまプロデューサーが迎え来てくれて、プロデューサーの運転する車に乗り込んで自宅に向かっていた。プロデューサーからタバコの匂いがして、少し興味がわいた。
「ねぇ、プロデューサー。俺もタバコ吸ってみたい」
二度目の興味は純粋な好奇心だったけと、もしかしたら最初の時みたく、なんかどっかで投げやりな気持ちもあったのかもしれない。その理由がしばらくみんなと会えてないからって言うのは情け無いから誰にも言えないけど。
プロデューサーはたいそうビックリしていて、俺はこの車が事故らないかが心配になる。プロデューサーはやめてほしいけど、だとか、いいもんじゃないよ、と前置きしてから、春名も二十歳だもんね。自由にしていいよ。と言った。ただ、タバコは分けてくれなかった。
「もし吸うとしても、アイドルとしてのイメージがあるからね。High×Jokerは青春キラキラってのがウリだし」
そう、別れ際に釘を刺された。俺は帰り道に母ちゃんと同じ銘柄のタバコを買った。
その日から、本当にたまにだけど俺はタバコを吸う。
正しい吸い方なんてわかってないし、いまだに美味しさとかはわかってないけど。カッコつけとは違うと言い張りたいけど、オトナから見たら似たようなもんかもな。
その日も事務所のビルの非常階段でタバコをふかしていた。カンカンカン、と階段を上がる音がしたので誰かが吸いに来たのかな、と思う。吸うようになるまで気がつかなかったが、三一五プロにもタバコを吸う人はそれなりにいる。だが、予想に反して現れたのは隼人だった。
「あ、春名いた。あとちょっとで打ち合わせだよ」
そう笑う。喫煙自体はメンバーに隠していないので、隼人は特段驚きもしない。初めて吸ってみせた時は、たいそう驚いていたけれど。
「おー、今いく」
「あ、いいよ。それ吸い終わってからで」
それなら、とタバコを吸い続ければ、隼人からの視線が刺さる刺さる。
「……やっぱり、メンバーが喫煙してるとキツい?」
「え!? いや、ううん。ただ春名ってタバコ吸うのも様になるなーって思って」
俺じゃ多分カッコつかないよ、と笑う。そりゃ未成年じゃあな、と笑い返したが、きっと隼人は二十歳になっても三十歳になってもタバコなんて似合わない気がする。
「……どんな味すんの?」
興味深々、と言った様子で聞いてくる隼人相手に、ないと思ってた三度目の魔が差した。
「味見してみる?」
「え?」
煙を思い切り吸い込んで、隼人の返事を待たずに彼の顎を持ちあげ少しだけ空いた隙間に唇を這わせる。そのまま人口呼吸のように煙を隼人の口の中に吐き出した。
このまま、舌をいれたら怒られるかな。でも唇が柔らかくては離れがたい。そんなことを考えていたら思い切り肩を押され距離が離れる。
怒ってるか、泣いちゃうか。覚悟を決めて見た顔は真っ赤に染まって茹で蛸みたいだ。
「……なにか言えよ」
ここで、言えたらよかったのかな。ずっと好きでしたって。
「……おいしかった?」
「バカ!!」
そのままガン! ガン! と音を立てて階段を降りる音を聞きながら、さてどうしようかとあの日以来の盛大な溜め息をついた。