看病イベント 任せるんじゃなかった。申し訳ないが、そう思った。
小さな袋麺が一つ、ちょうどよく収まる鍋。その中身は何を使ったんだろうか、緑の絵の具と紫の絵の具を絞り出したような、混ぜても混ぜても混ざり合わない分離した色がマーブル色をなしている。ときおり浮かぶあぶくは限界まで膨れてから弾けていくから、その様から粘度があると触りもしないでわかる。
このめまいは熱のせいではあるまい。三十九度に発熱した頭でそんなことを考える。
「おら、とっとと食え」
「……いや、自分は」
「アァ? 誰のために作ってやったと思ってんだよ」
それは自分のためだろう。それが痛いほどにわかるから、困っているのだ。
恋人が風邪を引いた自分を看病してくれる。憧れるシチュエーションだが、自分には無縁のイベントだと思っていた。だって、相手はあの漣だ。
だから期待はしていなかった。むしろ、扉をあけて漣が入ってきた時、風邪が伝染るから帰れ、と言ったのだ。
はたして帰る場所はあるのだろうか。疑問を無視してそう告げれば、漣は素直に帰っていった。ように見えた。
だが、数十分もしないうちに漣は戻ってきた。両手にビニール袋を掲げて。
何か買ってきてくれたのだろうか。少し、ポカリスエットみたいなものを期待した。だが、入っていたのは肉と野菜で、残念だが今は食事を作ってやれないと告げると漣は言った。
「オレ様が作んだよ」
そうして、自分を布団に押し込んで台所に立つ漣をぼんやりと眺めていた。
なんだ、料理できるのか。
なんとなしに寂しい気持ちになった。なんだ、漣は料理ができるんだな。自分が何もしなくても、ああやって台所に立てるのだ。そんなことで悲しい気持ちになるなんて、きっと病気で心が弱っているんだろう。そう結論づけて、醜い感情に蓋をした。この感情の名前がわからない。独占欲だとか、そういう名前がつくのだろうか。
そんなことを考えていたらこれだ。なんだか、安心すらしてしまった。
ただ、その柔らかな感情と、目の前のこの、控えめに言ってもヘドロのようなものを食べられるかは別問題なのだ。漣の目が不思議そうにこちらを射止める。しばらくしたら漣は思い至ったようにスプーンでヘドロをすくって、ふーふー、と息を吹きかけてこちらにスプーンを突き出してきた。違う、漣、そうじゃないんだ。
しかし、ここまでやってもらって食べられないとは言えない。愛しい恋人の手料理だ。あの漣が看病をしてくれているんだ。大丈夫、元は食材だったヘドロだ。死にはしない。念仏のように脳内で唱えて口を開けた。無遠慮に口内にツッコまれるスプーン。大丈夫、ほのかに香る匂いは食べ物の匂いだ。ただ、なんの食べ物なのかだけがわからない。
「………………え?」
信じられない。失礼だが、これはヘドロに抱く感想ではない。それなのに、これは、
「…………うまいな」
「たりめーだろ、オレ様が作ってやったんだ」
名も知らぬヘドロはおいしかった。野菜のほのかに甘い味がした。なんだろう、粥に近いのだが、うっすらと野菜の味がして、米も入っている様子がない。粘度がある分、うまみが口に残る。気がついたら、小鍋一杯の名前のわからないものを食べ終えてしまった。
「ごちそうさま……驚いた、漣は料理ができたんだな」
てっきり、得意げに笑うもんだと思っていた。だけど、漣は少しだけ機嫌が悪そうに、こちらを無視するように呟いた。
「……コレしか知らねぇ」
そうなのか。また、そんな言葉に安心してしまう。そういう目で見ないようにしているのに、何もできないこの子が愛しいと思ってしまうのをやめられない。
「おいしかったぞ。見た目はビックリしたけど」
「うまけりゃなんでもいーだろ」
そう言って立ち上がる。帰る、と一言だけ零して。
本当は残ってほしかった。だけど、帰ってほしかった。恋人に抱く感情と、愛しい子供に抱くような感情。
それでも引き止めることはできない。自分がとったのは後者の感情だった。気をつけて、と布団の中から手を振れば、やっぱり不機嫌そうな声。
「……うっぜぇ」
なんだか、見抜かれた気がした。抱いた二つの感情も、さっき抱いた汚い感情も。
扉が閉まる。自分は布団をかぶる。夢だったら寂しいけれど、夢のほうがよかったかもしれない。