透明なマニキュア 誤解を恐れずに言うのであれば、自分は漣の見た目が好きだ。
誤解をされたくはないので補足をするが、もちろん中身が一番好きだ。ただ、内面から滲む漣の素直さだとか、凛とした芯の強さだとか、タケルの居ない時に見せる気怠げな様子だとか、そういう自分が好ましいと思う部分をきれいに表してみせる外面も好きだというだけの話。きれいなものが好きな人間は多いだろう。自分はもれなくその一員で、漣の美しさを気に入っている。
ただ、漣はそうではないから自分の美しさをいつだって蔑ろにしてみせる。きれいなものはきれいなままでいてほしい。きれいなものは、もっともっときれいでいてほしい。
それを自分の手で、もっときれいにできたら。これはどういう感情なんだろう。形はわからないけれど自分にはそういう欲求があって、漣はそれを叶えてくれている。
*
猫の爪切りのように漣を抱えているのは向かい合うよりもやりやすいから。左手で押さえた指先は白く、長く、少し節くれ立っていて、その先にほんのりとした桜色の爪がある。自分はそれを整えるのが好きだった。
爪にやすりをかけるときは一定の方向に。爪を短く整えるために目の荒いやすりを使っていたが、最近はこまめに整えているので必要なくなってしまった。長さを整えて少し丸くしたら、今度は表面をポリッシャーで磨いていく。あまりやりすぎると爪の層が薄くなったり、痛みを感じるときもあるらしい。漣なら痛いと文句を言うのだろうか。それともじっと我慢してしまうのだろうか。考えると苦しくなるから、これは最小限にしなければいけない。
甘皮はこの前処理したから今日はそのままにしておく。甘皮の処理はあまりやりすぎても爪が痛むらしい。漣の爪に触れさせてもらえるようになってから、知識が増えた。次はネイリストの資格でも取ってみようか。
そういえば、爪や皮膚が柔らかくなっているからこの習慣は必ず漣の風呂上がりにやっていた。手がしっとりとしていて、抱えた体がぽかぽかしていて、髪からは漣のためだけに買ったシャンプーの香りがする。みのりの選んだハンドクリームをなじませていたら、テレビを見ていた漣がくぁ、とあくびをした。
最初は師匠に頼まれていたんだ。漣は放っておくとハンドクリームを塗ったりだとか、髪を整えたりだとか、そういうことをおろそかにしてしまうから。だから気がついたら漣の手にハンドクリームを塗ってやるようにしていたのが冬の話。それを楽しく思えてきたところで、きれいに彩られた咲の爪を見たのが冬の終わり。
本当は真っ赤なマニキュアが似合うと思っている。だけど、自分が漣に塗るのは透明なマニキュアだ。
理由をうまく言語化することはできないけれど、きっとこれは臆病さだとか無責任だとか、そういうところからくる遠慮に似た距離のとり方なんだろう。自分は多分そういうことがうまくて、少しだけ嫌になる。
指の腹で撫でた桜貝のような爪はつるつるとしていて、我ながらいい仕事をしたと思う。ビカビカに磨いたシンクだとか、傷一つなく剥いたゆで卵だとか、そういう努力の形が見えるきれいなもの。
でも、これで終わりではない。マニュキュアの小瓶を開けるとツンとした、独特の匂いが鼻を突く。そういえば、漣は最初この匂いを嫌がっていたっけ。今ではすっかり慣れきって、自分に体重を預けている。
もしかしたら爪を塗る時は向かい合ったほうが楽なのかもしれないが、面倒だからそのまま塗ってしまう。するりと筆が滑るたびに光沢を帯びていく爪。動いたら台無しになってしまうと漣は知っているから、じっと身を固くして液体が固体になるのを待っている。あの自由な存在が自分の手でおとなしくなる姿は愛おしい反面、いつだって罪悪感も連れてきた。
最初、塗る意味があるのかと漣は言っていた。それはマニュキュアが透明だからだろうか。マニキュアそのものを塗る意味を問われたのだろうか。わからないけれど、漣は拒絶したりはしなかった。ツヤの増した爪を見て、何も言わずに納得するように目を細めていた。
*
「らーめん屋。コレ取れ」
朝の七時。我が家に訪れた漣は先程まで玄関のドアを叩いていた手をぱっと開いて自分の眼前に突きつけてきた。その爪が緑色に染まっていた。それだけだ。
その色はどこにでもいるようなモデルの指先を彩っていたとしたら美しい色だっただろう。だけど、それが漣の指先に付着しているとわかれば、それは水槽にこびりついた藻のような、なんとも言えない不快感をもたらした。
「……漣、それは?」
わかりきっているのに口にした。透明な輝きを塗布したはずの指先にまとわりついていたそれはマニキュアだ。いや、欠けたところからヒビが入っている。多分、ジェルネイルというやつだろう。
「あ? まにきあじゃねーのかよ。」
カリカリと、剥がれたネイルを漣の爪が引っ掻いている。その音に以上に心がざわめいた。確か、ジェルネイルは無理やり落とすと爪が痛むと書いてあった。漣の爪が痛むのは嫌だ。
「撮影で塗られたんだよ。落とせって言ったのに時間がねーって……下僕が言ってた。三日後に落とす場所に連れてくって。でもらーめん屋ならすぐ落とせんだろ」
まっすぐな信頼だった。それにすぐ応えられない自分が歯痒かった。情けなくて、悲しくって、泣きたくなった。
「漣、それを落とすには専用の道具が必要なんだ……店が開いたら買ってくるから、それまでうちにいてくれ。朝飯、まだだろう?」
「別に居てやってもいい……けど、らーめん屋今日収録あんだろ?」
パパっと落とせねえのかよ。呟いて漣はどこかに行こうとする。衝動的にその手首を掴んだ。くしゃりと力を抜いた指先で毒々しいほどに鮮やかな指先が揺れる。
「……夜に、落とすから。絶対にいじっちゃダメだぞ」
だからうちにいろと、そういった。自分で言ったくせに朝食のことなんてもう頭になかった。
*
撮影に集中できないほどではなかったが、ことあるごとにあの指先の緑色がチラついた。
休憩中に抜け出して、道具を買う。控室でジェルネイルの落とし方を繰り返し見る。師匠には何も聞けなかった。きっと緑色の爪をした漣は大きなポスターになって街並みを飾るんだろう。見たくない。そう思う。
だって、漣に似合うのは赤いマニキュアだろう。イライラというか、もやもやした。
光沢のある緑色の爪。あの指先に色を乗せた最初の人間は自分ではない。その事実が脳内で反響した。残念とか、腹が立つとか、そういうのじゃない。こういうとき、自分はたったの二十数年しか生きていないのだと思い知る。誰にも伝えるつもりはないけれど、伝える言葉が思い浮かばなかった。
撮影を終えて、誘われた食事を断って急いで家に帰る。今も漣はヒビの入った爪を持て余しているんだろうと思ったら、胸が苦しかった。本当は、漣がさほど気にしていないというのもわかっていた。ただ、ほんの思いつきで自分を頼っただけだということを。
階段を登る。玄関の鍵を開ける。余裕なく飛び込んだ部屋は静かで、暴れる心臓の理由がのびのびと眠っていた。畳に銀の糸が揺蕩って、蛍光灯の灯りを浴びてきらきらと光っていた。
やっぱり気にしていなかったのか。近寄ると、小さなパールを踏んづけた。でも、顔をしかめた理由はそんな些細な痛みではない。漣の中指、その指先の根本が剥がれていた。その下には薄い層が剥がれたような、痛ましい爪が見える。
呆れるくらい小さな傷だ。それでも、悲しい気持ちが抑えられない。きっと、どこかに引っ掛けたんだろう。広がっていない傷跡のようなヒビはそのままで、漣が自分の言葉を守ったんだとわかる。
ふわり、思考が逸れる。一瞬だけ漣のことを忘れていた。昔に見た、人間の捨てたストローが刺さって血を流すウミガメのことを思い出していた。
「……んあ? あー……おせーぞらーめん屋」
そう言って漣は立ち上がり、風呂に湯を張り始める。早くジェルネイルを落とそう。そう言えば爪をいじるときには風呂に入るんじゃないかと首を傾げられた。
「必要ないんだ」
いつもと違うと理解したらしい。それでも漣はいつものように、自分の胸に背中を預けた。
*
「すげーめんどくせえ。いつものやつじゃねーんだな」
「そうだな……ずいぶん違うもんだ」
ジェルネイルは普段塗っているマニキュアとは全然違った。付け方も全く違うから、別物だと思ったほうがよさそうだ。
まずは爪にまとわりついたジェルをヤスリで少し削る。さりさりと色素が落ちていくのが、ひどく心を満たした。全部削ってしまいたい。でも、爪も一緒に傷つけてしまう可能性がある。
表面を削ったら、コットンにリムーバーを浸して爪に置く。その上からアルミホイルを巻いて、次の指へ。十本すべての指が銀色に包まれたのを、漣が不思議そうに眺めていた。
「なにしてんだよコレ」
「ああ、リムーバー……コットンに染み込ませた、色を落とす薬が飛んでくのを押さえてるんだ」
「ふーん。変なの」
ぼんやりとぼやくように口にして、アルミホイルで隠れた爪の先を眺めている。その指先をそっと取り、自分の手の中に包み込んだ。
「……あたためると、取れやすくなるんだ」
そう言って、自分の手よりもあたたかい漣の手をずっと握っていた。お互いに何も言わない、永遠のような時間だった。
体温が溶け合って、滲みあって、自分は本当の美しさについて考える。
あとは思ったよりもスムーズだった。薬剤の染み込んだジェルはあっけなく漣の指先を離れていく。よくない液が触れているような気がして、手を洗うように促した。これで終わりだと手を拭く漣に、もう一度膝に乗るように言う。漣はよくわからない顔をしたけれど素直に自分の膝収まった。
愚直だ、と思う。愛おしさと、罪悪感と。
開放された指先にキューティクルオイルを塗っていく。やわらかな花の香りが漂って、そういえば漣はまだ風呂に入っていないことを思い出す。まあいい。オイルはもう一度塗ればいい。
こうやって漣の指先をケアしたり、毛先をつややかにしたり、野菜を食べさせたり。そういうことをしていると世界のバランスについて考える。何もできない人間について考えてしまう。
漣はびっくりするほどいろいろなことができる。育ってきた環境にあった、生きるための行動ができるんだ。きっと世界には何もできない人なんていなくて、何もできないふりをして自分のような人間をあやしてくれる人がいるだけなのかもしれない。自分のような、誰かを慈しんでいないと生きていけない人間のために神様が使わせた、天使のような存在が。そんなこと、あるわけがないのに。
「おい、透明のやつぬらねーのかよ」
そうやって、お前さんは献身を受け止めてくれる。自分だから許されているような、そんな錯覚を得る。
「……煩わしくないのか? さっき嫌そうにしてただろう。……もしかして、自分がしていたマニキュアも我慢してたんじゃないのか?」
なんだか、マニキュアを塗る気分にはなれなかった。どうしようもなく、ひどく間違っているような気がしていた。
「あ? らーめん屋だから許してやってんだろうが」
それが間違っていてもいいのか。聞いてみたかった。聞けるわけがなかった。こういうのは間違っているとか正しいとか、そういう問題じゃないということを、痛いほどわかっている。
「イヤならとっくに言ってるっつーの。あれはらーめん屋がオレ様にホーシした証だからな! ま、悪い気分じゃねえ」
与える側と受け止める側。果たして、どちらが強いのだろう。
「ぜんぶ自己満足だ。付き合ってくれるのか?」
「くはは! ジコチューになってるらーめん屋のバカ面は見てておもしれーからな! オレ様にマジになってる面、嫌いじゃねえ」
傑作だ、と漣は笑う。自分はやっぱり二十数年しか生きていない若造で、その言葉はまるで恋のようだと思ってしまう。
漣は自分が好きなんだろうか。それが思い込みだとしたら、少し悲しい自分がいる。じゃあ、自分は漣が好きなのだろうか。人間として、ユニットの仲間として、弟分として。そうだとしたら断言できる愛は、恋に形を変えるとたちまち捉えることのできないなにかになってしまう。
「あれ、なんだったんだろうな。なんか光を指に当てて……」
「ああ、それは硬化用のライトだろうな。そもそもコイツはいつも塗ってるやつとは別物で……」
漣が自分を頼ってくれる。嬉しい。
漣には何でも教えてやりたくなる。本当だ。
何でも教えてやりたいのに、自分の気持ちがわからない。漣の気持ちだってわからないから、それが恋なのか愛なのか教えてやることもできない。
もう一度その爪に透明の輝きを塗布して、漣がじっと動かない間に抱きしめてみたらわかるんだろうか。マニキュアが乾くまでのほんの数分、人生二十数年の中の一瞬みたいな永遠。
それでも、自分が漣を抱きしめることはない。その指先に赤いマニキュアを塗ることもない。きっと、たぶん、絶対にそれは美しいのに。