共鳴ノイズ スポットライトに奪われた、心のタガが外れた月夜。
好きだと言った。縋るように抱きしめた。三度目の夜、キスをした。
三度とも、望む答えも恐れた返事もなく、コイツはなんだか不思議そうに、だけど愉快そうに笑っていた。
ただ、ただ、必死な俺を見て、ざまあねえなと笑っていた。
最悪だ。泣いてしまいたいのに涙なんかでない、歪んだ顔をしていたんだろう。アイツはそんな俺に気がついて、何か取り返しのつかないことをしてしまったと言わんばかりに慌ててみせた。もちろん、そんな動揺をさとられないように、偉そうな態度は崩しもせずに。
「……何でそんなツラしてんだよ」
最悪だ。何が悪かったのかなんてわかっていない、蟻の巣を潰す子供のような声。暴力的な無邪気さがあんなに近くに居たコイツをさらっていってしまって、俺だけが取り残される。なんだか、広い砂漠にぽつんといるような。たまに俺が抱くコイツへの畏怖っていうのは、自然に対するそれに似ている。
「わかってくれないか?」
好きなんだ。もう一度、何度も、縋るように、引き止めるように、繋ぎ止めるように。
それでも感情は響かない。共感する音色をコイツは持たない。『好き』がないとコイツは言う。オレ様は誰も好きにならないだなんて、言う。
「どうしてだ?」
「最強だから」
当たり前のように返ってきた言葉。まるで、愛することは弱さの証明だと言うように。
それは間違っている。わかっているのに、なんにも言えなかった。
シャワーが直接かからないようにと貼られた絆創膏が、役目を終えてぺりぺりと剥がされる。だが、逃れたはずの水滴はアイツのずぶ濡れの髪から遠慮なく垂れてきて、さっきまで守られていた傷口とじっとりと濡らした。
俺はため息をつくこともなく、従者のようにタオルで軽く水気を拭き取って髪をまとめてやる。キレイでサラサラの髪は、俺の不器用な手付きでぐしゃりとタオルに巻き込まれていく。
傷口にかかる髪も水滴もなくなったのを確認した後、指にねっとりとした嗅ぎ慣れない匂いの軟膏を塗っていく。その赤い肉に指が這っても、コイツは身じろぎすらしなかった。
コイツは無言だった。俺も無言だった。双方意図せずに、お互いの愛猫のように沈黙を守っていた。それは手元の幸せのためではなく、もっと遠くて大きなものの幸いのためのような気がしている。
俺の指先で、傷口がまた絆創膏に覆われる。守るもののない背中は少しだけ曲線を帯びていて、白い。俺はそこに口吻を一つ、落とす。
傷は今日、収録の合間につけられた。
俺達と四季さん、春名さん。仕事に来ていたのはこの五人で、怪我をしたのはアイツと四季さんだけ。
円城寺さんと春名さんは少し離れたところに居て、アイツと四季さんは撮影で使う玄武さんくらいの高さがあるガラス板の横に居た。俺はアイツと四季さんに、変更のあった台本を渡しに行くところだった。
俺が投げかけた声に二人が振り向く。四季さんが楽しそうに笑って、俺はなんだか嬉しくなる。アイツが笑ってくれたらきっともっと嬉しいのに。思って、いや、そんなことをされたらドッキリを疑ってしまいそうだと思い直す。そんなことを考えていたら突然、突風が吹いた。
ガラス板は固定されていたけど、向こう側にあった色も形も大きさもまちまちな大道具たちはそうではない。そのうちのいくつかが風に思い切り煽られてガラスに当たる。大した強度のないガラスはたちまち粉々になって、風に乗って俺たちに降り注いだ。
突発的アクシデント。それでも、そんなことがどうでもよくなるくらい、衝撃的なことが起きた。
ぱりん、とガラスが割れる音がなってから数秒もない、スローモーションみたいな世界で確かに聞いた、「チビ!」という悲鳴のような声。
世界の速度が戻って、周囲が音を取り戻す。襲ってきたガラスは断末魔のような声とは違い、冷静になればそこまでの量ではなかった。ざわざわと周囲は慌てたが、大事には至らなかったとわかると誰もが落ち着き払って、俺達にガラスを踏まないようにって声をかけてきた。
それを俺は、コイツの腕の中で聞いていた。
俺はコイツに抱きしめられていた。コイツが、俺を、かばった。
どくどくという心臓の音が聞こえるくらい距離が近い。どちらの心音かなんてわからない。ただ、無条件に守られるのは、こんな気持ちなのか。
四季さんの声に俺もコイツも我に返る。コイツは俺のことを突き飛ばすこともなく、そっと腕を遠ざけた。離れる寸前、四季さんの方を見て「ごめん」、と言いかけたのを、俺は聞いた。
そうして、コイツの肩には小さな小さな傷がついた。そうして、心は大きく大きく揺るがされた。
俺はコイツの動揺を、その原因をわかっている。いや、知った気に、なっている。
コイツはずっと戸惑っているんだ。あの日、何が俺を傷つけたのかわからずにうろたえたあの日のように。『好き』に共鳴する手段を持たなかったコイツが、自らの内側で鳴る甘ったるい音にうろたえている。
強いはずなのに、なぜか憐れさすら感じる背が、膨らんだ肺が月光を揺らす。「どうして」と。
何に対しての疑問なのか、俺は知ってる。きっと、俺だけが知っている。コイツを見ていた、コイツのことが好きな、俺だけが。オマエ、不思議なんだろう。四季さんじゃなくて、俺をかばった自分自身が。
「たまたまだろ」
どうして、に対する返答は当たり障りのないものを、時候の挨拶みたいに。だけど、心のどこかでは、答えを知っていてコイツを追い詰めている。
「たまたま俺が近くにいたんだろ」「絡んできた四季のほうが近かった」
「たまたま俺が目に入ったんだろ」「オレ様が見てたのは会話してた四季の方」
「たまたま……たまたま今日は俺を助けただけ」
コイツは答えを持っている。そうして、答え合わせだけをされて、途中の証明がわからずに呆然としている。
あの日望んだ答えが、いびつな形でようやく返ってくる予感。薄暗い悦び。
「……きっと、何度やったってオレ様はチビを助けるんだ」
何かに操られているように。何に操られているかわかっていないように。主を見失ったからくり人形のように呆然と、理解ができないと、肩も声も震わせずに、淡々と。
背中から手を回し、鼓動を確かめるように後ろから抱きしめる。とくとく、とくとく、心臓の音が聞こえてくる。
「……好きだ」
好きだと言った。縋るように抱きしめた。四度目の夜、初めての気持ちでキスをした。
四度目も、望む答えも恐れた返事もなく、コイツはただ不思議そうに、なだらかなシーツに呆然と視線を預けていた。
「……なんでそんな顔してるんだ?」
顔なんて見えやしない。顔なんて見なくてもわかる。蟻の巣を潰す子供が命の意味を知ったような。無邪気さと無知に裏切られて、引きずり落とされてしまった生まれたての人間。
「……わかんねぇ」
好きなんだ。俺の感情に共鳴する胸の内が、まだコイツには理解できていない。言ってやりたかった。「オマエは俺のことが好きなんだ」
でも、きっと言っても余計に混乱させるだけだ。だって、きっとコイツは四季さんのことも好きだから。
コイツはまだ、『特別』を知らないから。
なぁ、オマエが俺を助けたのは、俺のことが好きだからだと思うんだ。俺はきっと、オマエの『特別』だと思うんだ。でも、これはまだ、知らなくていい。知らなくていいから。
「……俺は、オマエのことが好きだ。『特別』に、好きだ」
何度も繰り返した愛の言葉を、今日ようやく生まれた感情で受け取って欲しい。今ならきっとオマエは笑わない。なぁ、笑えやしないだろう?
オマエは過去の自分が吐いた言葉で身動きがとれなくなっている。「どうして?」「最強だから」
行動の後からついてきた気持ちが、最強の定義に収まっていないのが怖いんだろう。当然のようにオマエは言った。まるで、愛することは弱さの証明だと言うように。
「……愛してる」
それは間違っているんだ。もう少ししたらきっと伝わる。だから、俺はもうしばらく、オマエに気持ちを捧げ続けることにする。