影のてのひら その日は雨で、俺は憂鬱で、食べたメシは味がしなくて、つけっぱなしのテレビは頭に入ってこなかった。
雨が降ればいいって思った。曇天を後押しするようにそう願う。星の見えない道、街灯がチカチカと瞬く道を歩いて、アパートの階段を上る。カンカンカン、って音ががらんとうの頭に反響してひどく痛い。俺はこんなにも雨音を待ち望んでいるのに。
鍵を差し込まずにドアノブをひねる。がちゃがちゃと反抗的な音が脳を揺らす。カンカンカン、がちゃがちゃ。埋まる音を言葉にしてなぞる。観念したように鍵を差し入れる。なんとなしに、負けた気分になる。
合鍵は作ったことがない。渡す相手なんていない。きっとここで倒れたら、俺を抱きかかえるやつなんて一人も居ない。死ぬ予定はないけれど、合鍵がほしくなる。受け取ってほしい相手を描く。乱雑にポケットにそれを放り込んで、勝手に上がり込んで我が物顔でテレビを見ているアイツが浮かぶ。
ああ、雨が降ればいいんだ。
雨が降ればアイツがくる。来ない日もあるけど、来ない日のほうが多いけど、アイツがうちに来るときは絶対に雨だから。
雨宿りをしにきたくせに、アイツは『来てやった』という態度を崩しはしない。俺が屋根を貸してやってるんだ。普段ならそう思うはずなのに、今だったらきっと、『来てくれたんだ』って思うんだろう。
つけっぱなしのテレビは消した。余分な感覚を削っていくように、部屋の明かりを消して目をつむった。そうやって、雨音を待った。本当に待っていたのは、誰かが階段を上がる音。カンカン、カンカン。
一分か、一日か。暗かったからわからない。きっとこうなる予感があった。雨の音。ぽつぽつ、そうして、ざーざーと。全部の音をかき消して、世界をすべて洗い流すように。
雨が強ければ強いほどいい。月を消し去って、アイツの居場所を奪ってくれ。自分の身勝手さに吐き気がした。なんでこんなことを思わないといけないんだろう。俺はただ、アイツに会いたいだけなのに。
カンカン、カンカン。
ハッと、音に身を固くする。待ち望んだ、恐れていた音がする。会いたい、会いたい、でも、こんな姿は見られたくない。泣きそうなのは嬉しいからか悲しいからか、怖ろしいからかがわからない。
どんどん、って、音がする。逃さないというような、大きな、乱暴な音。待ち望んだ、愛おしい音。
扉を開ければずぶ濡れのアイツがいた。不機嫌そうな顔は俺と真っ暗な部屋を見て、どうでもよさそうな驚きに変わる。こんなこと初めてのはずなのに、それなのにアイツはいつもの通りため息をついてみせる。こういうとき、コイツは騒がない。寄り添い方が、影に似ている。
アイツは電気をつけると、まっすぐにケトルを手にとってお湯をわかす。そのまま風呂場に移動して、狭っ苦しいユニットバスにお湯を張る。沸いたお湯にティーバッグを入れて、一度だけ口をつけて俺に差し出してきた。俺は終始無言でそれを受けとる。コイツの体温じゃない、火傷しそうな暖かさが手のひらを満たす。
アイツはタオルの場所を知っているはずなのに、髪も拭かないで俺の隣に座る。それは俺の望む距離だった。雨が降って、ずぶ濡れになってここにきて。でも、こんなはずじゃなかったのにな。俺は文句を言いながらアイツの髪の毛を乾かして、梳いて、増やしたマグカップで一緒に暖かいお茶を飲んで、買い置きのカップラーメンを一緒に食べたかったのに。
胃に落ちた感情を溶かそうと、熱いお茶をすする。こうしてコイツが隣りにいてくれればいつか融解するはずの感情。それなのに、それなのに。
コイツが立ち上がる。頭に手のひらが乗る。何か、コイツが言っている。読み取れない唇の動きを追う間もなく、コイツは玄関へ、まっすぐに歩き出す。
認識が脳を焼く。腕を掴むはずの、伸ばした手。何を間違ったんだろう。気がついたら俺はコイツを抱きしめていた。一拍遅れで、フローリングをマグカップが転がる音が聞こえる。きっと、お茶がたくさん溢れた。そんなの、どうだってよかった。
「……ここにいろ」
ここにいろ、って。
ここにいてくれ、って。言えたらよかったのか、わからない。でも、俺はコイツにお願いができなかった。俺はコイツにお願いをしない。仕事ならともかく、こんな、閉鎖された小さな箱では、言えないんだ。
だって、オマエもそうだろう。オマエは俺にお願いをしない。きっと、二人して恐れてる。お願いなんてしたら、俺達の中の何かが変わってしまう気がして怖いんだ。こんなにも弱さを、醜態を晒してなお、そう思う。
だからって、命令も何か違うのかもしれないけど。
「ここにいろ」
返答が降ってくるのを待っているのに、聞こえる音は階段の音。カンカン、カンカン、上っているのか下っているのかわからない、硬質で無機質な足音。俺が一人の部屋に帰る音。コイツが屋根を求める音。踏み外した時、オマエは手を取ってくれるんだろうか。引き上げられるのも落ちるのも変わらない。一緒なら、どっちだっていい。
「……メシ」
「え?」
「メシ、買ってくるだけだ」
笑いもせず、振り向きもせずに言う。
「熱い茶飲んで、風呂入って、メシ食えば治る」
だから、大丈夫だと言う。
無責任だと思った。優しいと思った。突き放されたと思った。愛されていると錯覚した。
この腕を離したら、コイツはどこに行くんだろう。行き先なんて近所のコンビニに決まってるのに、今離れたら取り返しがつかなくなるような気がして、俺はさらに力を込めてコイツを抱きしめる。
「おい」
「こうしてれば治る」
だから、ここにいろ。三度目の命令。聞き覚えのあるため息。触れ合う手と手。
「食いたいもん、買ってやるから」
だから、と手を取って、コイツは俺が拘束を解くのを待っていた。俺が力を弱めた瞬間、手をひかれる。優しくもない、強引でもない力。そういえば、手と手が触れ合うなんていつぶりなんだろう。力加減に心当たりはなくて、もしかしたらこの手はうんと優しい手なのかもしれないと、ぼんやり考える。
そうやって、俺たちはコンビニに行く。コンビニの自動ドアをくぐるまで、手をつないで歩く。俺はきっと、なんにも食べたくないのにコイツと一緒にカップラーメンを買う。目についた、どうでもいいカップラーメンを買う。
本当は、ずっと手をつないでいたいのに。