フクワウチ 二人分の体重を受け止めた安っちいマットレスのスプリングはいつもどおり不満げだ。
腰掛けたオレ様が差し出した豆を受け取ったチビは、不思議そうな顔をしていた。
それはオレ様が何かをチビに差し出したってことを驚いてるんじゃなくて、単純に、今日と豆が結びついてないんだってのが、聞いてもいないのにわかった気になっちまった。
セツブン、って呟けば、チビはああ、って声を出す。流れに任せていたら正解に辿り着いた人間の、ちょっとぽかんとしたマヌケな声。チビのマヌケヅラってのはもう少し面白かったはずなのに、オレ様は全然笑えなかった。
「なんでだ?」
問いかけに含まれた意味の全てを理解したとは思えないから、いくつかの答えを投げてよこす。
「四季に聞いた……セツブン……豆は四季が押し付けてきたんだよ」
「そうか」
あとでお礼を言わなきゃな、ってオレ様じゃなくて自分に確認するように呟いて、チビは豆を受け取る。豆を持ったチビはやっぱりなんだかぼんやりとしていて、それはオレ様を苛立たせるには充分すぎた。
「……鬼は外、フクワウチ、だろ」
知ってるだろ、って。ほとんど脅すように口にしてしまった。願望がこんなに暴力的な形を取るなんて、なんだか信じられなかった。
「知ってる。……ど忘れしてただけだ。もう思い出した」
鬼は外、フクワウチ。誰もいない空間に豆がぺいって、数粒。辛気くせーなって発破をかけても、掃除がめんどうだと返される。足元がふわっと揺らぐ。コイツ、撒く豆の量も忘れちまってんじゃねーのか? 四季はもっと、こう、手のひらいっぱいに掴んだ豆を豪快にばらまいてみせた。それが正解のはずじゃねーのか? だって、下僕も賢も、みんな笑ってた。
正しさを背後に隠してチビを見ていた。なにもないって、この背中にはなにもないって。
だって、知らなかった。セツブンなんて。それでも当たり前にアイツらがはしゃぐから、当然オマエだって知ってると思うだろうが。いや、コイツは知ってはいたんだけど、それでも今の今まで忘れてた。なんなんだよ。毎年毎年やってることじゃねーのかよ。理不尽だってわかってても、どうしようもない苛立ちは四季へと向いた。
「オマエはもう食べたのか? ……どうせ、好きなだけ食ったんだろ」
「ああ? なにが」
「豆。年の数だけ食うんだ」
なんなんだよオマエ。さっきまでなんにも捉えきれてなかったくせに、今度は諭すように口にする。そうやって、コイツが思い出をひとつひとつ手繰っていく道にはところどころに穴が空いていて、それに気づく度にオレ様はイライラしてしまう。
「懐かしいな……節分なんて、何年ぶりだろう」
カリッ。豆を齧る音。あー、うぜえ。ほら、またそうやって、たまに、無意識に、ぽっかりとした空白を見せてくる。弱さで何かを誘うとか、そういうんじゃなくて、本当に無意識だからたちが悪い。でもわかってる。そう感じてしまう自分が、一番悪い。
チビの弱いとこを見てえわけじゃねえ。でも隠し事はムカつく。きっと、どっちの感情も間違いなんだ。
「年の数だけ……知らなかっただろ。確か豆の他にも……思い出すから、待ってろ」
聞いてもいねえのにチビは勝手に悩みだした。それは何も知らないオレ様に何かを与えたいという善意なんだろう。オレ様はそれをいろんな気持ちで受け取るけど、疑ったことはない。
思い出すから、って。チビは言う。
思い出せるのは知ってるからだ。知っているのは、教えられたからだ。きっと、チビには誰かがいた。もともとなんにも持ってないオレ様とは違う。だから、大丈夫。ほんとうを聞いたわけじゃない。でも、きっとチビは持ってたはずなんだ。
ああ、またチビのことを勝手に決めつけてクソほどどうでもいい自分の心を守ってる。くだらなさに、吐き気がする。
思い出した、ってチビは言う。二人っきりの時、コイツはオレ様に対して、少しだけ笑う。
「魚を棒に刺して、庭に刺すんだ。さすがにコレは家じゃできないな……」
魚。なんの魚か、聞けなかった。きっとこれは魚は魚でしかなかったころの記憶なんだ。きっと、この記憶が今とつながるまでには、いくつもの穴が空いている。
穴に気がつくことなく、チビは歩く。チビはいつもチビだけど、こういうときのチビはますますチビに見える。頼りないってのとはちょっと違って、不安って言えるほどオレ様は心臓にチビを住まわせることができちゃいない。
無意識に、無作為にチビは歩く。時々穴に足がもつれる。チビはそんなことにすら気が付かない。何も間違っちゃいないんだって顔をして、背筋を伸ばして歩く。あまりにも堂々と歩くから、間違っているのはオレ様なんだって、イヤでもわかる。
オレ様の視界にもやがかかってるんだ。
オレ様を取り巻くのは憂鬱とか苛立ちとか同情とかをごちゃまぜにした濁った空気で、ちょっとした毒みたいだった。そんな錆びた色の空気に飲まれて、チビが見えなくなる。目は役に立たなくて、鼻は棒に刺さった魚の生臭さを嗅ぎ取る。耳に届くのは聞いたこともないガキの声で、オレ様は手をのばす。
触れるしかないんだ。オレ様の手はチビの二の腕に届く。
確認するには触れて、掴んで、抱きしめて、遠い記憶なんて意味がないくらい、ここにコイツを留めるしかない。オレ様はどんな顔をしてたんだろう。近すぎる距離に何を勘違いしたのか、仕方がないって顔をしながら舌を伸ばしてくちづけようとしてくるから、手で制して頬を寄せた。チビはよくわからないって顔をしたけれど、晒した首筋に歯を立てることをせず、柔らかな接触を受け入れていた。
くちづけを受け入れて、そのままベッドになだれ込んで、そのままぐしゃぐしゃになっちゃって。
そうすればよかったな。めんどくせえ。そうやって、今オレ様の頭を埋める感情全部をどろどろの欲望にしちまえばよかったのに。
なんであのキスを拒んじまったんだろうな。きっと、いつまで経ってもわからないってのだけわかる。それでも、それが正解なんだって、きっと一生思い込んでいる。