足下に星屑 別に隠していたわけじゃないけど、知られるのは気恥ずかしい。それこそ、プロデューサーにしか言えないし、言ってなかった。こんな、幼稚な夢。
雲に突っ込んで視界不良になるのすら愉快だ。星の間をくぐり抜け、真下にある町並みの灯す光を眺めている。こんなに間近にある月に照らされて、俺のシルエットが大地に降りる。風を裂く音を置き去りにして俺はスイスイと夜空を泳ぐ。
みんなは少ししたら飽きてしまったゲームだが、俺にとってはすごく楽しくてわくわくするゲームだった。内容は空を飛ぶだけ。朝、昼、晩。雨の日、雪の日、曇りの日。様々な日の空を渡り歩くゲーム。
勝敗はない。スコアアタックはできるが、飾りみたいなものだ。少しプレイしてお蔵入りになりそうだったのを、借りてきて、なんだかんだでずっと遊んでいる。
「何がおもしれーんだよ」
それこそ、コイツがベッドに転がってても遊んでいる。コイツが焦れるまで、だけど。
コイツはゲームを見るといつも同じようなことを言ってくるから、特段このゲームをけなしているわけではない。だけど、それにいつものように返せなかったのは、俺の夢を否定された気がしたから。
「面白いだろ……空が飛べるんだぞ」
こんなこと、橘さんが似たようなことをぼやいたときには言わなかったのに。
「空ぁ? だからなんだってんだよ」
「空、飛べたら嬉しいだろ。ずっと飛んでみたかったんだ……ゲームだとしても、楽しい」
ポロッと言った、というよりは、理解してほしくて口にしたんだと思う。幼稚な夢だ。気恥ずかしい願いだ。それでも言わずにはいられなかったんだろう。俺はコイツのことを理解したいのと同じくらい、コイツに俺を理解してほしかった。おかずに手を付ける順番とか、ロードワークのペースとか、唐揚げを取られたらどれくらい怒るのかとか、どこを触られたらくすぐったいとか、どんな時にキスをしたくてたまらなくなるだとか、抱き合って眠る夜にどんな夢を見るのかだとか。
なあ、オマエはどんなゲームならやりたい?
そう問いかける前にコイツが口を開いた。どうでもよさそうな声色で、とっておきの秘密を打ち明けるような吐息で。
「……おいチビ、次の土曜日は空いてるか?」
「オマエ、その日はレッスンだろ。俺もだ」
「夜だけでいい。夜はどうせ暇だろ?」
「夜は空いてる……けど、次の日は仕事だ」
これは夜のお誘いなのかと考えて、コイツが予定を聞いてきたことなんてないと思い直す。日曜日は、まぁ、夜をためらう程度には朝が早い。
「気合で起きろ。決まりだ。出掛けるぞ」
「……はぁ?」
話は一方的に終わり、あとはなしのつぶてだ。何度聞いても、ニヤニヤと返される。「楽しみにしとけ」と。
悪気なんて何一つない意地悪な目。今にも舌を出してきそうな唇。その赤を思い切り塞いでやろうとベッドに身を乗り出す。後ろで主人公が墜落する音が聞こえる。ゲームオーバー。
***
コイツは一言「海まで」と言った。そこで初めて、俺は目的地を知ることになる。
タクシーに揺られながら、こういうときに早く大人になりたいって思う。自分で車を出して、コイツをコイツが望む場所まで連れていきたい。円城寺さんと三人で出かけるのも楽しいと思う。円城寺さんと交代で運転して、温泉とかに行きたい。でも、最初はコイツと二人っきりで。
そういえばバイクの免許ならもう取れるんだっけ。そんなことをのんびり考えていたら目的地についた。ずっと眠っていたコイツを起こして精算をする。
夜の海はきれいだった。幾億もの砂の粒が孤独をまとい、一つの結晶のように佇んでいる。足を踏み入れるとそれが一つと一つになり、もう一歩進めばそれは四つの他人になる。そうやって群衆をかき分けて近づけば、月明かりを浮かべた海が凪いでいた。俺はそれを見て、初めて今日は満月だと気がついた。
アイツはためらいもせずにまっすぐに進んでいく。水に入るのだろうか。濡れるぞ、と言っても聞いちゃいない。それどころか、アイツは早く来い、と俺に指図する。
アイツのニヤニヤした笑みを思い出す。アレは俺のために何かを思いついた笑みだと知っている。だから、素直に聞いてやろうと思う。靴を脱いで、靴下を脱いで。
裸足になるまでの間に、ずっと文句を言われた。
「そういうのいいから、早く来いって言ってんだろ」
「良くないだろ。濡れるぞ」
「濡れねえよ。ほら、見てみろ」
足元から顔をあげると、そこには夢のような光景が広がっていた。
アイツが、水面に浮いている。
「は?」
夢、なんだろうか。それとも、何か仕掛けがあるのかもしれない。タネなんて検討もつかないけど、ドッキリだとしたら、カメラはどこだ。
「ほら、早くこい」
らしくない、一つ年上のトーンでアイツが諭す。きっと迷子を見つけた親ってのは、こうやって近づいてきて、こうやって手を差し伸べるんだろう。
「手、つないでてやるから」
だからなんだ。それでもいいか。アイツと手がつなげるし。俺だけ沈み込むにせよ、せいぜい腰くらいまでだろう。俺はリアクションが下手だけど、未来で映像を見る司会者がなんとかしてくれる。
手を取り、踏み出す。最初の一歩、あまりにも想像しやすい水の感触。
「……なんでだ?」
思った気配はしなかった。水の上に俺は浮いていた。
浮いていた、というか、沈まないのだ。俺は水面に突っ立っている。
「月があるからな。映った月の上にのりゃ……まあ、オレ様とこうしてりゃ、沈まねえよ」
そうして俺たちは歩き出す。命綱のようなコイツの手を握りしめて、置き去りの靴と靴下に見送られながら夜を歩く。
「すごい景色だな……」
「まっ、チビだけじゃぜってー拝めねえ景色だろうな」
偉そうなコイツに何か言ってやりたくても、事実そうなので反論できない。仮にこれが夢だとしても、この不思議な体験はコイツの力で成立しているような気がしていた。
危なっかしい足元でも、怖くはなかった。地平線の真ん中、コイツと二人ぼっち。月に気圧された星と、王様みたいな月。足元に広がる暗闇と、つないだ真っ白な手と二つの満月。この全てをクッキーの缶にいれてどこかに隠せたら、その秘密だけで死ぬまで幸福になれるような美しいもの。
言葉がでなかった。美しくて、不安定で、怖くて、幸福だった。どの感情を伝えたかったんだろう。俺はコイツの手を握りしめていた。
「……空の上だと思え」
あまりにも些細な呟き。それは、手のひらの温度に対する返事だったのか。
「あそこでキラキラしてるのが星。霞んでるところが雲。見えねえけど……海の底がオレ様達がいつも歩き回ってる、地面。……空の上だ。空より強い。飛んでるみたいなもんだろ」
これは、俺の幼稚な夢への贈り物なんだろうか。こんな、とっておきの秘密みたいな宝石。
「…………オマエがそんなこと言うなんてな」
「あぁ? チビ、人がせっかくオマエを、」
「いや、悪い。違うんだ……うん、きれいだな。それでさ、うれしい。俺、今空の上を……空を飛んでるんだな」
「……そういうことにしとけ」
それきりコイツは黙ってしまった。月に透ける皮膚に紅が浮かんで、ああ、照れてるんだなってわかる。
俺は昔読んだ絵本を思い出した。手を引かれ、空を飛ぶ女の子。結末は、忘れてしまったけど。
「……っ! やべえ、戻るぞ!」
「えっ? どうし」
「走れ!」
しばらく二人でのんびりしていたんだ。沈黙に輝きと愛を乗せて、二人で一緒に呼吸をしていた。
それがどうしたことか、いきなり、思い切り手をひかれる。コイツは説明もなしに、砂浜目掛けてダッシュした。
「おい! オマエ、いったい、どうした」
「月がなくなる!」
「月?」
そういえば少し雲が出てきた。それもきれいだと思うんだけど。
「足場がなくなるだろ! バカチビ!」
そういうものなのか。ああ、なんか、月がどうとか言ってたっけ。俺たちは全力で水の上を走る。
走ったかいがあって、もうじき戻れる。その矢先、がくりとからだが揺れ、浮遊感に支配された。ついで、ドボン、という音。からだを取り巻く冷たい温度。塩辛い味。ああ、海に落ちたのか。
思ったよりもパニックにならなかったのは、すぐに足がついたから。胸元までぐっしょりと濡れた俺たちは、少しの間ぼんやりと月を仰ぐ。握った手は、離さずに。
たっぷりとした沈黙があった。何度目か、視線が絡む。戻るか、って。コイツは言いかけたんだろう。それより先に俺が口を開いた。
「夢、叶った。オマエのおかげだ」
サンキュ、って。その言葉にコイツはいつもみたいな態度をとる。
「はぁ? 別に。オレ様ならこの程度、わけないって見せびらかしてやっただけだし」
「そうか……そうだな。オマエは、あっけなく俺の夢を叶えてくれるんだ」
どう言おうか。もしもいいって言ってくれるなら、これからも俺の願いを叶えてほしい。側にいて、抱きしめて、キスをして。自分で叶える願い以外、オマエに対する願いはオマエが叶えて欲しい。
オマエが俺に何かを願った時、必ず叶えてみせるから。
「また何か……俺がオマエに何かを願ったら、どうする?」
「……気が向いたら、考えてやらねーこともない」
「……そうか。じゃあ、これは叶えてくれるか?」
ずい、と。顔を近づけて月にとろけそうな蜂蜜色を見つめれば、触れるだけのキスが返ってくる。
「叶ったかよ」
「……足りない」
「くはは! 余裕ねえな。帰ってからだ。風呂はいりてえ」
「……そうだな。おい、これタクシー乗せてもらえるのか?」
ざぶざぶと、砂浜まで歩く。水は重たいし足場は悪い。つないだ手は、まだほどかない。
「……俺だって、オマエの夢は叶えてやるからな」
オマエは、俺に何をして欲しい、って。
「じゃ、明日のラーメンは味玉をよこしやがれ!」
「……いいけど、よくない。そういう意味じゃない」
砂に足を取られて、思ったように動けないまま、一歩ずつ、一歩ずつ。
「ま、帰ったら期待してやるよ……ってか、いいのかよ。明日撮影なんだろ?」
「…………気合で起きる」
タクシーまであと何メートルだろう。あとどれくらい、手をつないでいられるんだろう。
もしもタクシーにのせてもらえなかったら、手をつないで歩いて帰ろう。そんな無茶だって、きっと悪くない。