遠くから聞こえる 聞いたことのある歌が聞こえる。夕暮れの足音が近づく窓の外から、子供の声が聞こえてくる。
穏やかなソプラノとアルト。淀みない旋律。本と本の隙間から見つけた絵葉書みたいに、その二重奏は俺の記憶を遠い秋風の向こうから連れてきた。合唱曲なんて、久しぶりに聞いた。
学校行事のコンクールとか、そういうのが近いのだろうか。そういえば、昔はそういう行事に積極的じゃあなかったっけ。あのときの自分が間違ってるだなんて思わないけれど、別の道もあったのかとは思う。横にいるコイツがついさっき耳にした音律をなぞる。ところどころ、キーが違うそれは記憶にある歌よりもずっと愛おしい。
俺はコイツが俺と同じような人生を歩んでいるとは思わなくなっていたから、当然知らないだろうという決めつけのようなものでもって合唱曲の題名を口にした。コイツはふうん、と言ったっきり、またたどたどしく歌い出す。気に入ったんだろうか。ソプラノパートとアルトパートをいったりきたりするコイツは、そういえばハモリパートを歌うのが下手だった。そんなことを思い出して口にする。
「合唱、したことないだろ」
「はぁ? 当たり前だろ」
当たり前だ。そのとおりだ。俺の辿ってきた人生とコイツのそれは全く別物だ。俺が知ってることをコイツは知らない。コイツの当たり前は俺の当たり前じゃない。こういうのは優劣じゃないから、そこには同情も憐憫も優越もいらない。俺はそれに気がつくまでに少し時間がかかってしまったけれど、コイツははじめからわかっていたように見える。
「……合唱曲は、パートを分けて歌うんだ。そう、この前の曲みたく……ああ、俺は声変わりが早くて、いつも下のパートだった」
懐かしいな、って口にする。俺はコイツに自分のことをよく話すようになっていた。俺のことを、もっと知ってもらえたら嬉しい。だって、俺はコイツのことが好きだから。
「……オマエは声変わり、遅かったんだろうな。昔とか、声高かったし」
声は今も俺よりかは高い。それでも大吾さんなんかよりは低い。でも昔はそうじゃなかった気がしてる。なんだか、昔はより一層キャンキャンとしていたイメージがある。
「んなわけねーだろ。オマエと会ったときには声変わりしてたっつーの」
そうやって噛み付いてくる声は少しだけ高めだけれど、穏やかなときのコイツの声は案外落ち着いている。ただそこに佇んでいて、目を向けるとすっと耳に落ちるような声。昔はこんな声、してなかったと思うけれど。
「なんか、変なイメージがあんだろ」
「どうだろうな。そういえば、初めて会ったときのオマエの声……思い出せないかも」
あんだけ毎日会っていて、あんなに毎日真横でわめいていたコイツの声が思い出せない。今の声、目、手、熱、全てに上書きされてしまったようだ。まるで、あの頃のコイツを失ってしまったようで少しだけ悲しくなる。
「……人って、忘れるときは声から忘れるって聞いた。そういうことなのかな」
オマエも俺の声、覚えてないだろ、って。別にコイツが覚えていようがいまいが何も変わらないけれど、なんとなしに、少しの気まずさは消え失せる気がしていた。
「知るか。ま、チビは声までチビだから、いなくなったらすぐ忘れちまうな。せーぜーずっとオレ様の横でピーチクパーチクわめいてろ」
「………………はぁ」
これは、ずっとそばにいろってことなんだろうか。それとも煽られているんだろうか。なんだか、どっちも正しい気がしている。俺は少しドキドキして、少し自惚れて、少しのぼせ上がって、それから少しだけカチンときた。
忘れさせなんてしないのに。俺は、コイツの前からいなくなったりしないのに、って。
「……おい、オマエ」
「あ?」
すっと、急に詰められた距離にコイツが身じろぐ。全ての感情を乗せて、意味ありげな言葉全てに返答するように、反論するように。真っ直ぐに瞳をあわせて口にした。
「……愛してる」
「……っ!」
「これは、流石に忘れられないだろ」
忘れるもなにも、ずっと一緒にいるんだろうけど。
疑いもなく信じていることだけど、これはなんだか口には出せない。別にずっと喋ってたっていいけど、今の俺の声をコイツの脳に叩き込んでやろうという気持ちがあった。
「ぜ、ぜってー忘れてやる!」
今度はコイツがピーチクわめく羽目になっている。この声もいつかは忘れてしまうのかな、だなんて眺めていたら、コイツはちょっとかわいそうなくらい真っ赤になっていた。そういえば、愛してるなんて口にしたこと、あったっけ。なんだか、俺の頬まで熱くなってきた。
しばらくわめいていたコイツが突然腕を掴んできた。勢い任せの馬鹿力だ。ストレートに痛い。
「おい、バカチビ」
「なんだよ」
痛いから離せ、って言おうとした。それでも呼吸が吐き出せなかったのは、さらさらとした銀髪が頬に触れるほど距離が縮んだから。耳元を甘い吐息が揺らして、脳髄にいつもより低い音が届く。
「……タケル」
瞬間、全身の血が沸騰した。コイツが、俺の名前を呼んだ。
「これは忘れられねえだろ! くはは! バァーカ! オレ様の何かを忘れるなんてな、百万年はえーんだよ!」
忘れられるわけがない。だって、オマエがその言葉を口にするのは、はじめてだ。
見ればコイツの真っ赤な頬はますます赤くなっていて、自分の言葉で照れてるコイツはなんというか、ちょっとだけ面白い。
「……死ぬまで覚えててやる。そっか……オマエはこうやって俺を呼ぶんだな」
「あ…………やっぱなしだ! すぐ忘れろ!」
「忘れられたくないのか忘れられたいのか、どっちなんだよ……」
慌てるコイツを見ていたら、俺自身はなんだか落ち着いてきた。こんな、とっておきのウルトラCみたいに呼ばないで、俺のことをいつも名前で呼ぶ未来がきたとして、俺はコイツの「チビ」って声も忘れちまうのかな。それはちょっと寂しいから、今しかないコイツの声をもっともっと聞いていようって思った。俺だけ覚えてるのは悔しいから、定期的に「愛してる」って言ってやることも、今決めた。
名前は、照れずに言える自信がないから、また今度。