ハッピーバースデー!「オマエ、変だよ。うん。人間じゃねえな」
目の前の男は確か初対面のはずだ。遠慮のない蜂蜜色の双眸で、頭のてっぺんから爪先までを値踏みするように眺めてからのこのセリフ。ましてや出会い頭、銀髪が揺れる程度に会釈をした男に同じく返した会釈、そうして僅かな世間話をしてからのこれだ。意味などわかるわけもなく、暴言だとわかったとしても反応ができなかった。
俺の反応はどうでもいいらしい。新しく雇われたらしいネゴシエーターの噂に風貌が完全に一致した男が偉そうに御高説を垂れる。
「あのな、人には欲ってのがあるんだ。ああ、三大欲求なんてつまんねえもんじゃねえぞ? あんなのは猿でも持ってるからな。わかりやすいのは地位とか名誉とか……まあこの辺は猿以下に教えてもわかんねえから言わねえけど」
猿以下、とは誰のことなんだろう。コイツの目の前には俺しかいないが、コイツに猿呼ばわりされる覚えはない。そのあとも何やらぺらぺらと喋っていたが、俺はそれを半分以上聞き流して、たまにちらりと揺れるロザリオを眺めていた。
「ま、そんな感じでな。人間には欲がある。動物じゃあ持てねえような、至らないような欲が」
だからオレの仕事が成り立つのだと、コイツは言う。文脈から察するに、コイツが噂の交渉人であっていそうだ。どんなタダ飯だろうとコイツの歓迎会には行かないと誓う俺の眉間にコイツは人差し指を突きつけて、楽しそうに宣ってみせた。
「つまり、なんの欲もないオマエは人間じゃねえ。三大欲求もないとなると、猿以下だな」
三大欲求くらいはある。だって飯はちゃんと毎食食べてるし、何事もなければ毎日たっぷり八時間は寝てる。セックスとなると話は変わるが、自慰くらいはするし、必要とあらばちゃんと機能するはずだ。口にはしなかったけれども、猿以下と言われる筋合いはない。
一人納得して立ち去ろうとする俺の行く手を阻んで、コイツは一言、猿、と言った。
「どうせ生きてく最低限の欲求しかねえんだろ? しかもそいつは自動的に与えられるときてる……そんなのは欲求じゃねえよ。渇望があるぶん、猿のがマシだ。猿以下ってなると、なんだろうな、オマエは」
クソつまんねえやつ。そういって弧を描いた唇の隙間から、すこし尖った牙が見えた。それを見て、その白を見て、意識を逸らすようなコイツの唇の薄さが気になった。さっきまでの暴言は全部聞き流せたはずなのに、その薄い赤を見て、少しだけカチンときた。
「欲くらいある」
ある、はずだ。仕事と言えたらよかったのかはわからないが、あいにく俺は戦闘狂じゃあない。食事のメニューは決まってる。寝る時間はいつも一緒。ほとんど事務的に慰めて、サラリーマンが書類に判を押すように人を殺す。振り返るとコイツの言う通りなのかもしれないが、別に悪いことじゃないし。認めてしまえばよかったのかもしれないが、それはなんだか癪だった。そもそも、コイツに俺の何がわかるんだ。
コイツは俺になんの欲があるのかすら聞いてこなかった。コイツの中ではもう決定事項があって、正しいとか正しくないとかに関わらず俺はそれを覆せない。
欲くらいある。嘘をついた。いや、あるつもりではいたんだ。ただ、なかったことに気がついたのが今この瞬間ってだけで。
「ないね」
「なんでわかる」
正解とか不正解とか抜きで、純粋にムカつく。
「それがオレの仕事だからだよ」
ふに、とコイツが伸ばした人差し指が俺の唇に触れる。ああ、仕事着だったらマスクがあったのに。そのままコイツは俺の横を通り過ぎていく。カツカツと、硬質なヒールの音が鳴り響く。
「人間になれるといいなぁ?」
その言葉に振り向けば、アイツはこっちを見もせずに手を振っていた。最悪な第一印象と少しの違和感を残して、アイツは突き当りを右に曲がった。
「なあ、この林檎、ほしくないか?」
「いらない」
「なんだ、まだ猿以下なのかよ。困るんだよなぁ、欲がない……目的がない人間とは交渉ができない」
会話にならない。そう言いつつもこのテーブルから離れない理由は前に聞いた。俺がいるテーブルには誰も座らないから、食堂でスマートに座りたければ俺の横が一番いいのだと。
コイツは事あるごとに俺に何がほしいかを聞いてくる。そうして、俺にほしいものなんてないことを確認すると、愉快そうに、残念そうに、呆れたように笑ってみせる。
コイツはたいそう優秀らしくて、ねじ伏せられない交渉はないらしい。だが人間関係は最悪だと聞いている。あくまで俺に対する対応から察するしかないのだが、コイツは『交渉しかできない』
だから俺みたいに目的がないやつとは会話がなりたたない。コイツが人間と呼ぶ、欲がある人間はすべてコイツの手玉に取られるのが関の山。関わらないのが吉なのだ。コイツのフィールドに乗ったが最後、それはすべてをコイツに差し出すのと同義だから。
コイツはあらかたの人間をからかい終わったのだろう。最近は俺にご執着のようでひっきりなしにちょっかいをかけてくる。なんとか俺に欲を持たせて、『交渉』で俺を転がしたいと隠しもしない子供の目を輝かせている。
会話にならない。コイツは言う。そうじゃないと思う。俺は『交渉』じゃなくて、『会話』ならしてやってもいい。そう思ったのは、例えば俺にこんなに話しかけてくるのはコイツくらいだというよくある話でも、俺の中を埋め尽くすからっぽを見抜いてくれたのがコイツだからとかいう目の覚める話でもない。
ただ、俺の脳裏にコイツの薄い唇が焼き付いているからだ。
その唇が目の前で動いている。白い牙が時折覗いて、唇に比例するような肌が透き通っている。ゾクと背筋が泡立つのがわかった。見慣れた赤と目の前の白、コントラストにクラっときた。
りんごを摘んでいた手、細くて白い手首を掴む。コイツが関わる赤なんてこれくらいなんだろう。一回、俺の仕事場にきてみればいいんだ。ああ、想像上の赤と白がぐしゃぐしゃに混ざり合う。
「お? 林檎がほしいかよ」
笑っている。嬉しそうに笑っている。違う、ほしいのはそんなんじゃない。その手を思い切り引き寄せて、思い切り手首に噛み付いてやった。
「いっ……! ……はぁ!?」
落ちたりんごがコロコロと転がっていくが、誰も拾いやしない。コイツは真っ赤になって怒ればいいのか真っ青になって怯えればいいのかがわからないんだろう。ひたすら俺を罵りながら手首を振りほどこうともがいているが、俺が少し力を入れるだけでコイツの顔は痛みに歪む。つないだ手と手首はコイツじゃあ一ミリも動かせない。
確信があった。『俺はいつかコイツを飲み込む』
それは今まで持ち得なかった欲だ。三大欲求にも至れなかった俺の食欲と性欲がごっちゃになって、そこに信じられない量のスパイスをぶち込んだみたいな凶暴な感情。
マスクがないのが悔やまれる。俺の口元はニヤついてはいないだろうか。コイツは俺の欲に気がついたのか。気づかれてもいいか。オマエは俺のほしいものを知って、どうするんだろうな。
手首を開放すれば、一目散に逃げられた。せっかくオマエの手のひらの上に乗ってやろうと思ったのに。せっかく、俺も人間になれたのに。
アイツはまた俺に話しかけてくるんだろうか。俺の欲を見抜いて、自らを交渉のカードとしてチラつかせながら、楽しい『交渉』を始めるんだろうか。
「……会話じゃあ、もう物足りないよな」
ぺろり、舌で拭った口元から血の味がする。慣れたはずの鉄の味が、妙に甘く感じた。