向上心は猫をも絆す 知識なんて最低限でいいと思ってた。それがとんだ思い上がりだったことにこの歳で気がつけたのはよかったことなんだろう。何事も、遅すぎるということはない。
「知識は必ず君たちを助ける」と言われた時、「知識がないと困るよな」って言うことしかわからなかった。困ったことはこの仕事になってから度々あって、その筆頭は台本の漢字が読めないってこと。その都度人に聞くもんじゃない。ちゃんと覚えなきゃ。それってのは必要に迫ってのことだった。
だから「知識があると楽しめる」と知った時はなんだか不意をつかれた感じだったし、その瞬間はピンとこなかった。だって、俺は台本が読めて、買い物をするときに単純な足し算ができればいい。正直、二割引とか言われたって、「安くなるんだな」って程度しか思わない。だから、俺は自分に最低限だけを課し、それ以上を見つめることをしなかった。視野が狭かったんだ。
『知識があると楽しめることが増える』
気がついたのは恭ニさんの一言だった。
「あ、これアレだ。北欧神話が元になってるな……」
「ほくおーしんわ?」
橘さんが浮かべた疑問符に、俺と兜さんが同調する。隼人さんだけがふわりとした感覚で持って恭ニさんと言葉を交わしていた。
「えっと……ああ、オーディンとか?」
「そうそう。世界の成り立ちとかもな、似てるんだよ」
恭ニさんの説明はわかりやすかった。「詳しくはないけど、」と前置きされた知識を踏まえてゲームのストーリーを反芻すると、それは新しい発見に満ちていて心が踊った。盛り上がるみんなの声を聞いて、俺は「知識が自分を助ける」ということの意味を知った。知識ってのは、あればあるほど人生が広がるんだ。
「で?」
「で、じゃない。オマエは俺の話を聞いてたのか?」
「聞いてもワケわかんねえから言ってんだ」
ベッドの上で俺たちは向かい合っている。普段通りふにゃふにゃごろごろとベッドを蹂躙していた野良猫の王様は、俺が姿勢を正すのにつられて同じように正座で向かい合う。
「知識とか発見とか、何が言いてえんだよ」
訝しげな視線と不満げな声。それを晴らしてやるべく、俺は教材となったサイトをスマートフォンいっぱいに写す。
「……本当に気持ちいいキスのやりかたぁ……!?」
端末を見たコイツは見出しを読み上げ、一瞬真っ青になったあと一気に真っ赤になった。最近はかわいいと思えるこの七変化、たまに暴力が伴うのはいただけない。
「バッ……カじゃねーの!? バァーカ! バァーカ!」
ぼすぼすと枕で叩かれていると、慣れってこういうことかなって思う。初めての時は俺もコイツもガチガチに緊張してて、ぶつけた歯の音がやけに大きく聞こえたもんだ。今ではコイツは大抵を偉そうに笑いながら受け入れるし、キャパがオーバーすると逃げ出さずに柔らかい攻撃に訴える。
「馬鹿じゃない……見様見真似は上達しない。ボクシングだってそうだ。拳法だってそうだろ?」
「そっ……だけど……」
「正しいやり方ってのは、絶対知っておいたほうがいい」
円城寺さんに教えてもらった『守破離』の概念は格闘技だけでなく、大抵の物事に当てはまると俺は思う。コイツとのキスはいつだって気持ちいいけど、もしかしたら、もっと。
「チビ一人でやってろよ……」
「一人で出来るわけなんだろ。二人三脚と同じだ」
すっと手を握れば緊張が伝わってくる。俺も緊張してる、って伝えようとしてやめた。調べてきたのは俺なんだ。俺がしっかりしないと。
「……いいか?」
「……好きにしろよ」
コイツのこのセリフを聞くことが多くなった。でも、受け取る感情が全然違う。思い上がりでも、自惚れてしまう。
「第一ステップ……『お互いにキスをしてもいいか確認しあう』……これはクリアだな」
「オレ様は好きにしろって言っただけだし!」
「わかってる……次、『ボディタッチ』……こうか?」
ぐっと距離を詰め、しなやかなからだを抱きしめる。硬直した全身をほぐすように優しくさすってやれば、うう、と弱々しい声が聞こえてくる。
「……オマエがこんだけで黙るの、珍しいな」
「チビが変な雰囲気にすっからだろ!?」
変な雰囲気ってなんだよ。でも、言い換えればそれはムードがあるということだろうか。頬の下に透ける血の色に意識が割かれる。俺と同じで、きっとコイツも欲情してる。
「えっと、『求めあってることを確かめるために、声を出します』」
「ぜってーやだ!!」
「だろうな……じゃあ、次……は飛ばそう」
『緊張をほぐしてリラックス』は、少なくとも今は無理だろう。
「最後……結構種類があるな。よし、これ、やってみるぞ」
は、という疑問符を飲み込んで口づける。思い切り見開かれた満月をずっと見ていたいけれど、ちら、と端末を盗み見る。
少し強引に、歯茎などを舌で舐める。愚直に実行してみれば、鼻にかかった声が漏れてくる。なんだ、声、出せるじゃないか。おすすめは上顎。どうやら性感帯らしい。考えてみたら俺たちって勝負事みたいなキスしかしてこなかった。丁寧にやるキスって普段と違った気持ちよさがある。歯列をなぞるように舌を動かして、そのまま上顎をちろちろと舐める。あ、そうだ。ここでもボディタッチが良いと書いてある。左手で首筋を撫で、右手で耳たぶを撫でれば、声がますます大きくなる。そのまま教本に従い舌を吸い上げれば、限界を迎えたらしいコイツに思い切り腹を蹴られた。
「……満足かよ」
「こっちのセリフだ。よくなかったか?」
「うっせぇ! それ貸せ!」
貸せ、と言われたが貸す前に端末は奪われた。コイツは画面を見ながら眉間にシワをよせ、俺に向かってこう言った。
「見てろよ……最強のキスでぜってー泣かせてや……」
画面を見て固まる眼の前の好きな人。画面を覗き込めば、最後の一文にはこうあった。
『実践で回数を重ねていく事が、上手くなる近道です』
「……実践、するしかないな」
他の人に迷惑をかけるなよ、と言い切らないうちに結構な力で突き飛ばされる。頼むから他の人とはするなよ。念押しの一言に「誰かするか!」と吐き捨てて、見慣れた銀の髪は布団に潜り込んでしまった。しないなら、いいや。