もう一回! 羨ましいって気持ちよりも、惨めだって気持ちが勝った。
部屋に来い、だなんて言葉、無視してやればよかったんだ。のこのこと足を運んだ俺がバカだった。ほんの少し、期待なんかしてしまって、ああ、とんでもない大バカだ。
ノックもなしに開けた扉。最初に目に入ったのはここの主である銀の蛇ではなく、現在真っ向から対立中の、できることなら会いたくない同期だった。蛇と、さながら大型犬。見慣れた二人は、見慣れない服装をしている。
出会う予定のなかった男は普段のチンピラじみた格好をしておらず、仕立ての良いスーツを身にまとっている。品の良いブルーのスーツは俺が持たない身長と見合ったガタイによく映えた。表情を隠すというよりは相手を威圧することを目的としているであろうサングラスは外され、見慣れない柔らかな瞳が笑っている。そう、明らかにコイツは今の状況を楽しんでいる。
「……なんのつもりで呼びつけた?」
元チンピラが余計な口を叩く前に完全なる無視を決め込んで、すでにニヤニヤを隠そうともしないはちみつ色の瞳に問いかける。そのしなやかさもまた、普段とは違う衣服をまとっている。
普段のチャラチャラしたスーツとは違った、清潔感のあるシルバーグレーのスーツに同系色でまとめたベスト。引っ張りにくそうな蝶ネクタイは艷やかな生地で、コイツのくせに別人のようだという違和感に拍車をかけた。色合いや柄は普段のほうが派手なのに、こっちのほうがうんと華やかに見えるのはなんでなんだろう。洋服のことはわからないが、コイツのことはわかった気になっていたもんだから、この呼び出しに好意的な意図がないと悟って、見抜けなかったことに少しショックをうけた自分に驚いた。普段より少し凝った髪留めが灯りを反射して、俺の惨めさを加速させる。
「似合ってるだろ? あんまり似合ってるもんだから、パーティに行く前にちょっと見せてやろうと思って」
確かに似合っていた。どうでもいいチンピラと違って、コイツは宝石みたいにキラキラしていて、掛け値なしに美しかった。
自分の服装なんて気にしたことがなかったから、俺のクローゼットには戦闘服と僅かな私服しかない。別に誰にどう思われようが知ったこっちゃないから、気を使ったことなんて一度もない。それに思うところもないし、今みたいにスゥエットでコイツらと並んでもなんともない。ただ、コイツらが二人で並んでいるときの身長差だとか体格の差、髪色の柔らかさだとか瞳の色、うまく言えない何もかもが絵になっていて、それがどうしようもなく惨めな気分を連れてくる。
「あんまからかってやりなさんな。単なる商談だよ」
俺をかばったのだろうか。わからないけれど、華奢な肩にまわされた腕にカチンときた。こういうとき、反射のように怒ってしまえたらいいのに意味がないと俺は怒れない。
言えたらいいんだ。コイツは俺の恋人なんだって。だから気安く触ってくれるなと。でも、わからない。コイツは俺の恋人なのかがどうか。
俺はコイツが好きだ。理屈じゃないけど、抱きたいって思う。きっとあんまり褒められたケースじゃない、『好き』。触れたいじゃ足りない。爪を立てたい、咬みつきたい、抱えて組み伏せて押さえつけて突っ込んでぐちゃぐちゃにして、コイツの全部を食っちまいたい。
コイツは俺が好き、なんだろうか。普段から俺に絡んでは楽しそうに笑ってる。俺に抱かれることを良しとしている。俺が必死に腰を振ってる間中、俺の頭をわしゃわしゃと撫でて「かわいい」ってずっと言ってる。でもそれは愛玩動物に言う「かわいい」と何が違うんだろう。コイツは俺に快楽と、紙よりも軽い「好き」を与えて軽薄なキスをくれる。
ぐるぐると考えていたら目の前に薄い唇が見えた。そのまま、いつもどおりに軽々しいキスが降ってくる。
「おお、見せつけてくれるじゃないか」
「サービスだ。興奮すんなよ」
そのまま俺の横を通り抜ける蜘蛛の糸。銀のそれは俺の絡め取って離さないはずなのに、コイツの気まぐれ一つで俺はたった一人に戻される。
「じゃあな。いい子で待ってたらお土産をやるよ」
「だってさ。じゃあな」
そう言う王と、従う従者がくぐったドアの閉まる音。部屋に戻る気も起きずに、勝手にアイツのベッドに寝転んだ。俺はきっと愛玩動物で、捕食者で、暴力だ。決して、従者にはなれないんだろう。
アイツの部屋はいい匂いがする。寝具からもいい匂いがする。それでもヤってるときは別の匂いで上書きされるから、これはアイツの匂いとかじゃなくて香水だとかそういう匂いなんだろう。
そういう、始まる前と終わった後の匂いに包まれて安心していた。油断していたとも言える。開いたドアの音にも気が付かず、気がついたら真横に気配があった。
「よお、いい子で待ってたみたいだな」
ペットにするみたいに俺を撫でる適当な手と香水と混ざりあったアルコールの匂い。ああ、ようやく帰ってきたんだな。うとうとしてたから、待ちわびてたとかじゃない。でも、『ようやく』だなんて思ってしまった。
「ほら、いい子には何があるんだっけ?」
「……お土産」
上出来だ、って呟いて、また気持ちなんてないキスをひとつ。テーブルにケーキがたくさんあるからな、って。
「パーティの余りじゃないぜ? ちょうど会場近くに評判のケーキ屋があるんだ」
ここのケーキは絶品だ、って言われて、少しだけ頭がピリッとした。だって、俺はこんなケーキ知らない。コイツは何も言ってないけど、俺の脳裏にはまだ王と従者が一枚の絵になってこびりついている。もしかして、アイツと、だなんて。
「………………だな。冷蔵庫にでもいれとくか?」
「……いま食べる」
コイツはなんだか喋ってたみたいだけど、半分も聞いちゃいなかった。ただ、寝ぼけた頭で強く思った。食べてしまいたい。
少し俺から意識を外したコイツの細い腕を引いて、その体を思い切りベッドに沈める。指輪で飾られた両手を右手ひとつで縫い付けて、空いた手で蝶ネクタイだとか、スーツだとか、ボタンだとかを力任せに引きちぎっていく。力の差はふたりとも理解している。組み敷かれたコイツはもう逃げられない。
「……くははっ! ベタなやつ!」
あーあ、このスーツめちゃくちゃ高えのに。コイツは楽しそうに形だけの抵抗をしてみせる。俺はぐちゃぐちゃにするのが好き。コイツはぐちゃぐちゃにされるのが好き。でも今日は従順な犬みたいにコイツの望む愛撫を与えてやる気にはならなかった。薄く上下する胸板を無視して、思い切り首筋に噛み付いた。
「っ……! ……なんだ、拗ねてたのか?」
快楽からくる声じゃない、痛みに引き出された声。でも、どっちでも同じだ。どっちでも、それは俺を煽る。
「拗ねてない」
ぺろ、と舐め取った血の味が口の中いっぱいに広がった。生クリームなんかより全然甘く感じるから、いよいよ俺の脳はイカれてる。
「……妬いたか?」
「……わからない」
わからない、って返答がたいそうお気に召したらしい。ケタケタと笑うたびにアルコールの気配が満ちていく。そのままガジガジと首筋を噛んでいく。強く吸う。こんな痕なんてつけたってコイツは困ったりしないんだ。いろんな人間に見せつけて、コイツは言うんだ。「やんちゃな犬を飼ってるんだ」って。
「でも、嫌な気分になったんだ。……俺とアイツは違う。同期だけど、仕事も、能力も、なにもかも」
俺は大事な話がしたかった。でも、それはコイツにとってのつまらない話なんだ。笑い声はやんで、とっくに開放していた両手で俺の頬を包み込んでくる。そうやっていつも俺の話は奪い合う呼吸に遮られて、大した話じゃないなだなんて思っちまって、いつもどおり全部を食い散らかしてしまうんだ。でも、今日は口に出してみたい。そうすれば、何かがわかりそうな気がしている。
「……つまんねえことが聞きてえわけじゃねえんだけど」
「俺と誰か。差はあって当然だ。差を埋められるとは思ってないし、埋めようとも思わない」
無視して音と気持ちを紡ぐ。「ガキ」、って一言呟いたコイツは心底呆れたようにため息を吐く。
欲を煽るような白い両手が俺の口をそっと塞いだ。舌に伸びたその指を絡め取り、しっかりと繋いだ。
「でも……二人で並んでるところを見せられて、嫌だった。心底みじめだった。俺にとってのオマエって、なんなんだろうって思った」
ぐちゃぐちゃにして、ぐちゃぐちゃにされて。それでいいんだけど、それじゃあいやで。
「選ばれたい。いろんな差、そんなの全部くだらないって飛び越えて、オマエがいいんだって言ってほしかった」
ほんと、ガキみたいだ。あの瞬間、新しい感情に気がついてしまうだなんて。
「特別になりたい。好きだから特別なんだって言われたい。こういうのが恋人なら、俺は恋人になりたい」
別にスーツが着たいわけじゃない。そもそも、窮屈な服は好きじゃない。でも、コイツと並んでいるのは俺がいい。コイツが好きなのは、俺じゃなきゃ嫌だ。
わかんない気持ちのほうが多い。ぐちゃぐちゃにしたい。ぐちゃぐちゃにしたくない。咬みつきたい。口づけたい。食っちゃいたい。一緒にいたい。好きだ。嫌いになれたら。
「……くっだらねえ。おら、離せ」
抵抗は無意味だけど、命令は通るとコイツはわかっている。そんな、俺が無視してしまえば意味のない言葉しかコイツは持っていないんだ。
それでも俺は手を離す。どけ、って言われたから、コイツの拘束を解く。
「……ケーキはテーブルの上。それ持ってとっとと出てけ」
「……俺は、」
「出てけ」
高圧的な声。今の関係じゃ従うしか無いけれど、これから違う関係になれたら。
何も言えなくて背を向けた。ケーキの箱を手にした時、声がかけられた。
「くだらねえこと言わなくなったら、また抱かれてやるよ」
頭冷やしてまた来いよ。そうコイツは言った。コイツが提示した関係でいることはきっと楽で、愉しくて、気持ちいい。でも、
「……もうあんな気持ちでオマエに触れたりしない。次にオマエを抱くときは、オマエが俺のことを好きになった時だ」
きっと振り向かせる。あんな動物に向けるような軽さの『好き』じゃなくて、いま俺の胸を焦がす衝動と同じくらいの『好き』がほしい。
「……我慢できるか? 俺のこと抱きたくて仕方ねえ動物のくせに」
「好きだから抱きたい。好きだから、抱けなくてもいい」
俺は人間だ。初めてそう口にした。どっちでもよかったことが、どうでもよいとは思えなくなっていた。
「元々、オマエからはじめた関係だ。次は俺からはじめる」
好きになってもらう。そう宣言して部屋を後にした。なんだか不安で、楽しくて、自己中心的で、献身的で、晴れ晴れした気持ちだった。
今が夜じゃなければよかったな。明日、ファッション雑誌でも買いに行こう。アイツがどんな服に惹かれるかなんて知らないけど、しばらくスゥエットは封印で。