恋愛はシロウトです 五年近く付き合ってるうちの、チビが酒を飲み始めてからはいつも横にいる。ずっと見ててわかったんだが、チビの酔い方は面白え。いや、めんどくせー時のが多いんだが、今日のこれは、まあ笑える部類だ。
「だから……これは……浮気じゃない……わかるだろ……?」
チビがこの広い家に引っ越して二年。倍くらい大きくなったテレビには、真剣な顔をしたチビが大きく映っている。そんで、オレ様の真横には、テーブルに突っ伏してぶつくさ呟いてる、チビに磨きがかかったチビ。耳の赤さは酒のせいだろう。額をテーブルにこすりつけてなお手放さない缶チューハイは何本目だろうか。なんつーか、チビは安っぽい酒を好んで飲んでいる。
「見るなよ……バカ……何見てんだよ……」
リモコンを取るために伸ばした手には缶チューハイ。バカだろコイツ。それじゃリモコン持てねえだろ。なんなんだ。今日は家に帰ってきてから、癇癪を起こしたみたいに飲んでやがる。現場でなんかあったんだろうが、チビがここまで荒れるのも珍しい。
「んだよ……チビの演技でも拝んでやるって言ってんだ。黙って酒でも飲んでろよ」
テレビで流れているのはチビが主演のドラマだ。チビは青春モノのとか恋愛ものとか、いわゆる『王子様』と言われるらしい配役が増えた。ワンクールに一回はコイツの爽やかで不器用な笑顔がそこらで流れているんだ。今だって、ほら。
「あ、キスした」
「見るなよ……みるな……ばかやろう……ひっく」
見るなと言われても、流れてくるんだから見るだろ。てか、見てやるって言ってんだ。
オレ様もチビももうキスで照れるような年じゃない。お互い、ドラマだの舞台だので飽きるほど、初対面に近い相手とキスしてる。オマエだってオレ様の最強のキスシーン見たことあるだろ。そう言ってやればチビはガバッ、と顔を起こして悲鳴のような声を出した。
「してない!」
「あ? 何がだよ。キスぐらいお互いしてんだろーが。別にオマエのキスシーン見るのだって初めてじゃ……」
「だから、俺たちは初めてしてないだろ!」
何言ってやがんだ、コイツ。
「何言ってやがんだ、バカチビ」
「バカじゃない。バカはオマエだ。バカ」
さっきから、誰がバカだ。だが、オレ様はもうオトナだ。酔っぱらいチビの言葉にいちいち反応するなんて、それこそバカらしい。放っといてテレビに目を向ければエンディングが流れている。次のドラマにはあの弁護士が出てたっけ。アイツの演技はまあ、参考にならなくもない。このまま続けて見ていようとしたら、いきなり頬を鷲掴みにされて真横を向かされた。どろっどろに酔っ払った真っ青な目がゆらゆらと俺のことを縫い止めている。
「八回」
「は?」
「俺は八回で、オマエは三回だ。覚えてる……オマエはバカだから忘れてるんだ……」
何の回数なのか検討もつかないが、チビのほうが多いのはなんだか負けたようで気分が悪い。何が、と聞けば、悲しそうな目がこちらを見た。こういうちっこい犬、見たことがある。
「……キスした数」
「はぁ?」
「仕事、だけど。俺はオマエじゃない女とこんなにキスしたんだ。オマエだって、俺じゃない女と……」
そう口にして、自分の言葉にしょんぼりとしてみせる。そんなの自分で言う通り、仕事なんだからしかたねーだろ。仕方ない、仕方ない。そう何度か口にしたチビがまたはじかれたように声を張る。「仕方なくないだろ!」
チビの腕がオレ様の首に回って抱きつかれる。バカみたいに握りっぱなしの缶チューハイから液体がぼたぼたと溢れて、オレ様の背中を少しだけ濡らした。
「……俺たち好きあってるじゃないか。でも、なんでまだ一回もキスできてないんだよ。仕事だから仕方ないけど、俺たちがキスしないのは仕方なくない……」
この声を否定できないのは、五年間の長さとチビの言葉を覚えているから。チビはオレ様が黙ったことで不安だか不満だか不服だかになったんだろう。もにゃもにゃと耳元でしゃべりつづける。
「好きだ。オマエもそうだ。だって好きって言ったときに『オレ様も嫌いじゃねえ』って言った。だいたい、見てればわかる。オマエは俺のこと、大好きだ」
「あ? 調子乗ってんじゃねーぞ。オマエがオレ様のこと大好きなんだろうが」
「キスしたい……」
「聞いてねえし……」
チビの頭が首筋にうまる。硬めの髪の毛が頬にあたってくすぐってえ。ちら、と見たテレビでは、弁護士が化粧の濃い女優の首筋に舌を這わせ、歯を立てていた。
「俺、羨ましいんだよ。オマエとキスするやつ全員。俺もキスしたい。絶対俺のほうがオマエのこと好きなのに、キスしてないっておかしいだろ……」
おかしいのかはわからねえが、コイツがオレ様とキスしたいってのはアホほど伝わってきた。別に、してやったっていい。なんとなしに、タイミングとかそういうのがあわなかったからしてこなかったってだけで、してやったっていい。してやったっていいんだ。
「オマエはしたくないのか?」
したいのか、と言われて少しだけ考えてみる。そもそもキスがなんのためにあるのかもよくわかんねえし、しなくても死にゃしない。キスが特別だってんならチビがしてきた八回のキスはなんなんだって話になるし、そもそもキスなんざしなくてもチビはオレ様のもんだしな。
でも、まあ、チビが泣いて喜ぶならホドコシをやったっていい。
「してやったっていいぜ?」
「じゃあキスしろ……」
「……オレ様からすんのかよ」
んっ、と唇を突き出すチビの目はがっちりと開いていて、ろくに知りもしないキスのセオリーからは外れてるんだってわかる。なんだかその様子がやたらおかしくて、しばらく顔を近づけては遠ざけたり、人差し指でぷにぷにとチビの唇やら頬やらをつついて遊んでやった。大きな目がさらに大きく見開かれて、ふるふると震えている。ガキみたいなチビって本当に笑えるなって思って、そのまま口に出した。「ガキみてえ。ケッサクだな」
ぎゅっ、と不機嫌そうに寄った眉。からん、という缶がフローリングに落ちる音。っていうか、まだ缶持ってたのかよ。チビの手がオレ様の肩をガッチリと掴む。チビが低い声で口にした。その目は据わっている。
「……オマエがしないなら俺がする」
チビは言う。覚悟しろ、と。チビがこんなんだから、全部勝負になっちまうだろ。それだって、別にいいんだけど。
「いいのか? これ、あれだろ。ヨッタハズミって言うんだろ?」
それでもいいなら。たった三回の記憶を頼りに目を閉じた。
チビの呼吸だけが聞こえる。チビの熱だけを感じる。少しだけ、期待している自分がいる。
チビの吐息が唇にかかった。酒臭くて、熱っぽい。心拍数があがっていって、瞬間、
「……っダメだ! 酔ったはずみはダメだ!」
大声と同時に立ち上がったチビは、何かを振り払うように一直線に寝室へと向かう。開いたふすまに背を向けて、オレ様に向かって言い放つ。
「明日キスしろよ。しろ。いや、するからな。約束だからな。二言はないからな」
「ま、酔っぱらいが覚えてたらな」
「忘れない……あ、それ」
ふと、チビの目線がオレ様から外れた。視線の先にはテレビがあって、弁護士がオレ様もチビもしたことのない深い深いキスをしてる。キスシーンが終わるまで、二人でバカみたいに口を開けてテレビを見てた。
「……ああいうキスだからな!」
シーンが終わる。チビの宣言と共にぴしゃりと閉まるふすま。オレ様はまだ寝たくないからもう少しだけテレビを見る。
もし寝てるチビにキスをして、翌日教えてやったらどんな顔をするんだろう。かなり笑えることになりそうだが、あの真剣な目を思い出したら、ちゃんとキスしてやろうって気分になった。