小さな恋の歌 僕らの中で一番『普通』に近いのは、セブン。と見せかけて、実はファングだったりする。
でもそれは僕らの関わらない世界の『普通』だから、ファングはこの世界じゃちょっとした異端者だ。別にファングは人を殺すから圧倒的に世間の言う『普通』ではないんだけど、その他大勢と同じ神様を信じてる。キリシタン、ってやつだ。
僕は神様を信じたことはないけど、宗教をバカにしたりしない。ただ、散々汚いことやってきておいて最後の最後で神様にすがる人間をバカにしてるだけ。だからファングがどんなに宗教に傾倒してても変わらずに大好きだし、ファングが大好きな神様なら好きになってもいいかなって思ったりしてる。
でも神様なんかより、僕は聖歌が好き。正確に言えば僕はファングの歌が好きなんだけど、親も学び舎もないファングが知ってる歌はこれしかない。
ずっと不思議だったんだ。僕とおんなじで掃き溜めみたいなスラムで生きてきたファングがどうして聖歌なんか知っていて、神様なんて信じてるのかって。それをファングが教えてくれたのは、僕が初めての殺しを終えた夜だった。
その夜、ファングはわかりやすく僕を心配していた。僕は動いてお腹が減ったからハンバーグをたらふく食べた後だったのに、爽やかな香りがするオレンジを三つ持ってきてベッドサイドで剥いてくれた。僕が布団をかぶっていたのはたんにお腹がいっぱいで眠たかっただけだったのに、ファングは僕がふさぎ込んでいると勘違いして頭をなでてくれた。ファングの勘違いに胡座をかいて存分に甘えていたら、大好きな人は穏やかに歌い出した。
今はわかる。ファングの歌って普通よりもヘタクソ。ちょっと苦しそうな高音は小さい頃当たり前に出していた音域を無理やり出しているからだろう。声を伸ばした後の吐息は独特で、きっとどんな声に紛れたってファングの歌はわかる。クセが強い歌声。瞬きの間に、世界で一番好きな歌になった。
「これは?」
歌を遮ったのは、この僕の質問だげ。
「神様のための歌」
ぽつり、呟いた。そうしてまた歌を紡ぐ唇。僕はこの敬虔な信者が初めて人を殺したときのことを考えていた。ファングの生み出す音の波に揺られて、知りようのないことをずっと思想していたかった。
歌が終わる。さざなみが引いていく。
「ねえファング。もっと歌ってよ」
「これしか知らねえよ。オレは歌なんざ知らねえ」
そう言って、一度だけ僕を撫でて立ち去ろうとするファングの腕に抱きついた。寂しくも苦しくもなかったけど、ファングから離れるって選択肢はなかったんだ。
「じゃあさ、なんで今の歌は知っているの?」
普段、余計な詮索をするとファングの眉間にはしわができる。でも、今日は特別な日だったみたいだ。ファングはちょっとたじろいだあと、どうでもよさそうに呟いた。
「スラムで世話になった爺さんが教えてきたんだよ。……熱心なキリシタンでな。地獄みたいな場所に居るくせに、神様のことを信じてた」
ファングは何かを懐かしむことはないはずなのに、じゃあ、あの視線はなんだったんだろう。
「……なら、ファングが神様を信じてるのって、」
「ああ、爺さんの受け売りだよ。別に、オレは神様なんてどうでもいいんだ……呪いみたいなもんだろうな」
最後はほとんど独り言だった。おやすみ、って僕の額にキスをして、ファングは部屋から出ていった。ファングがキスをしてくれたのは、僕が眼帯をつけてから初めてのことだった。僕が泣かなくなってから、初めてのことだった。
*
ファングは受け売りだって言った。本当に彼自身が神様を信じてるのかは分からず終い。ファングは相変わらず人を殺すし、祈りを捧げている様子もない。ただ、ロザリオをいつも手放さないだけ。
そうやって、そのままでファングは大人になった。僕はまだ子供のままで、ただ、二人共、人殺しだった。
*
僕は人殺し。必要なら罪のない人も殺すし、拷問だってするし、仲間だったものだって消す。それでも僕には回ってこない仕事ってのがあって、それはいわゆる色仕掛けって言われるたぐいのものだった。
ファングが初めて男に抱かれた日を覚えてる。抱かれたって明言されたわけじゃないけど、それは仕事内容と真っ青になったファングの顔色から容易に察せられた事実だった。
ファングが部屋にこもってしまったから、あの日のお礼にオレンジを持って部屋のドアを開ける。ファングは布団をかぶっていたから顔色は見えなくて、それが無性に気に触ったから顔を見せてって分厚い布越しに話しかけた。
震えたファングの声。一言、自分を傷つけるように口にした。
「……神様が許さない。同性愛って、許されないんだよ。わかってるんだ。くだらない迷信だよ。わかってる、わかってるんだ……」
震えるからだ。震える声。聞いた瞬間、笑ってしまいそうだった。ターゲットを殺す時みたいな嘲笑を引っ込めるのに必死になる。何をいまさら。ねえ、じゃあ人殺しを神様は許すの? ファングを傷つける言葉が、湯水のように沸いてきて脳を埋める。ファングのこと、バカだなって思った。こんなに愛おしい生き物、いないって思った。
ファングはきっと、初めて人を殺した時もこうやって震えたんだね。
「ファングはターゲットを愛してないでしょ。だから愛じゃないよ。神様だって何も言わない」
人殺しのこと、言わなかった。傷つけるようなこと、言わなかった。
ファングは手の震えがなくなるまで、たくさん人を殺したんだろう。こうやってファングは一過性の嵐を堪え忍んで、心を殺す。手を汚して、からだを汚す。セブンが言ってた。こういう仕事はファングに任せるって。ファングがそう望んだって。だから僕にはお鉢が回ってくることはなくて、ああ、なんてバカな生き物!
「愛じゃないよ」
そう口にした。僕の初恋が終わる音がした。僕がトドメを刺したんだ。
そのはずだった。
それなのにファングは笑う。弱々しいはずなのに、僕なんかよりずっと強い笑顔だった。
「許されなくていいんだ。いまさら、だろ」
そう言って顔を見せてくれる。真っ青で、泣きはらした酷い顔。
「ただ、長年信じてたもんだからな。震えが止まらないんだ。それだけだよ」
そういって抱きしめてくれた。「わかってる。オマエの気持ち」そう囁いて額にキスをくれる。
恋してていいの? 愛してていいの? 最後まで聞けないまま、今度は僕から血の気の失せた唇に自分のそれを重ねた。