ガラスの靴は二年後に「なんだこれ……ヒールの置物か?」
「酒だってよ。ったく、食えるもんよこしやがれってんだ」
今日は撮影だと言っていたから、てっきり円城寺さんのところに行くんだと思ってた。だってここにはあったかい飯も客用の布団もない。
コイツが俺の家にくる理由って本当にない。それでもたまに、本当にたまにこうやってうちにやってくる。そこに意味なんてなくて、そこに理由なんてなくて、何かをするために来た試しがなかったもんだから、何かを片手にこうやってやってきたってのはわりかし非日常的だ。
「そのへん置いとけ」
「は?」
マヌケな声がでたから、きっとマヌケな表情をしていた。コイツはそんな俺を面白がることもせずにあがりこむ。俺んちにはたいしたもんはないってわかってるだろうに。
コイツは健気に冷蔵庫の隙間を埋めるスポーツドリンクを一本、我が物顔で取り出して一気に飲み干した。そして、俺が文句を言う前に風呂場へと向かう。どうやら今日は泊まっていくらしい。
アイツがしょっちゅう来るなら俺は布団を買ったっていい。でも、そうじゃないから今日みたいな『本当にたまに』が起きると、俺たちは男二人では狭いシングルベットで肩を寄せ合って背中を触れ合わせて眠らなければいけない。
洗い替えのタオルもそうだ。アイツがくると、タオルがなくなる。俺んちにはタオルがあんまりないんだ。つまりアイツがくると生活が狂う。だったらはじめからアイツを生活に組み込んでしまいたいのに、って話。
カラスの行水、だっけ。すぐに風呂から出てきたアイツは髪の毛から水滴をぼたぼた垂らしてまっすぐに冷蔵庫に。きっとまたスポーツドリンクが一本減るし、床はびちゃびちゃ。ほら、こういうことなんだ。俺は床を拭く雑巾とかもってないんだから。
食べ物も、布団も、タオルも、雑巾も、買ったっていい。でもコイツは本当にたまにしかこないから、ずっと後回しになっている。別に頻繁に来なくてもいい。ただ、たまにくるって保証があれば乗り気にもなるのに、っていつも思う。買い足して、もう二度とコイツがこなかったら、靴音がもう響くことがなかったら。そんなのあんまりじゃないか。
さっきコイツが押し付けてきた小さな箱。透明なプラスチックの箱を開けると、実物大であろう大きさのヒールを模した瓶の中で水色の液体がさらさらと揺れていた。形といい、色合いといい、小さい頃絵本で呼んだシンデレラの靴に似ている。
「……きれいだな」
「あ? 酒だぞ。飲めねーのにキレイでも意味ねーよ」
言うと思った。口には出さずにコイツを観察。腹は減っていなさそうだ。むしろ、これは飯を食って眠たい時の静かさだと思う。撮影帰りになんか食わせてもらったんだろう。
「もしかして、ヒールのCMをやったからか?」
俺も話は聞いていた。高嶺の花である女性を壁際から連れ出して踊る役。
「だとよ。オレ様はいらねーって言ったのに、二年後の楽しみ……だとか言われて、押し付けられた」
二年後。二年後。例えばコイツが一ヶ月家にこないだけで結構時間が経ったように感じるんだ。二年ってのは、わりと途方も無い年月に感じてしまう。俺が十九歳で、コイツが二十歳で。なんだか、それこそCMの設定みたいだ。
「で、それをなんで俺の家に置くんだよ」
「あ? 今飲んだら下僕がうるせーだろうが。オレ様が二年後に飲むんだ。勝手に飲むんじゃねーぞ!」
二年後。どうやらコイツは二年後もここに来るらしい。それまでに、コイツは何回この家の玄関に靴を放り出すんだろう。
「……ちゃんと取りに来いよ。三年後も取りに来なかったら、俺が飲む」
「誰がやるかよ。あふ……オレ様は寝るからな! オレ様の睡眠、邪魔すんじゃねーぞ」
そう言って、そのままベッドに飛び込んだコイツからは、数分と経たずに寝息が聞こえてくる。今のうちにすみっこにどかしておこう。枕も取り上げて、布団も半分は確保しておかないといけない。
あと七百三十日後、コイツは俺のところにくるんだろうか。帰ってくる、って言っていいんだろうか。嬉しいとか、嬉しくないとか、そういうのじゃない気がする。でも、なんだかちょっと安心した。
コイツが酒を飲む時、食べ物も、布団も、タオルも、雑巾も、必要だろう。だって酒を飲むなら何か食べるだろうし、コイツは酔い潰れて寝そうだし、風呂だって入るし、コイツが酒をこぼすかもしれないし。
食い物は無理でも、他のものは今あっても困らない。買ってしまおう。近くて遠い未来の予定にコイツが組み込まれたんだ。だったら、その一回のためでもいいかなってそんな気がしてる。なんだかんだ、コイツは来るような気もするしな。きっと、靴音は聞こえるはずだ。今まではわかんなかったけど、さっき、そう思ったんだ。