ハートに火をつけて エディと一緒にスラムから抜け出て、初めて知ったものがたくさんある。その中で記憶に強く印象づいたのは、レナートのつけているロザリオだ。
あれはきれいでいい。レナートを見ているときっとあれには特別な意味があるんだと思うけれど、人を殺した時にロザリオを握るつらく悲しそうな顔を見ていると、あれが本当によいものなのかと少し考えてしまう。
あれの意義をレナートに聞くのは憚られた。ミハイルは高尚な遊びだとうそぶいていた。リーダーは支えで、キールは枷だと言っていた。きっとどれもが真実なんだろう。
ともあれ、きれいなものはきれいだ。朝日を反射する様だとか、闇から瞳のように光る様だとか、真夏に焦がれる様だとか、そういう輝きが好きだった。ロザリオの変化はどれも、レナートの銀色の髪によく似合っていた。レナートの着るどんな服よりもレナートにぴったりだったから、ロザリオは彼の首にぶらさがってるのが一番間違いがなくていい。
一度、鮮血に染まったロザリオが見てみたい、だなんて考える。それはきっとおれがレナートの信頼を裏切るときだ。それはきっとおれがレナートを守りきれなかったときだ。それはきっと、おれが死ぬ時なんだ。
*
商談に応じる時、おれはきれいなスーツに着替えたり、着替えなかったりする。ポイントは威圧感が必要か否か。見極めるのはレナートだ。
今日は戦闘服でレナートに付き従った。おれはこっちのほうがいい。落ち着くし、飴を舐めていても怒られない。レナートが教えてくれたんだ。内緒だと言って、たまにこっそりとくれる飴玉が好きだった。そうしておれたちは賭けをする。飴玉を舐め終わるまでに相手が銃に訴えたら、次の休みは一緒に街に出て、チーズのたっぷりとのったピッツァを食べる決まりだった。
応接室は薄暗い。おれの視界を遮るためだとしたらそれは無駄な努力だ。でもこれはそういうのじゃなくて、雰囲気をつくるためのもののように感じる。
調度品、色の濃いワイン、やる気のないおぼろげな電球、テーブルに揺れる柔らかな火。
ふわりと甘い匂いがした。お菓子を焼いているのだろうか。そう思った瞬間にレナートが言った。「バニラの香りがしますね」。相手が笑顔で返す。「キャンドル集めに凝っていて」。そう言ってテーブルの上に佇む炎、その下にあるガラスに入った蝋を示す。あれが甘いってことだろう。
レナートの声が聞こえている間、自分が二人いるみたいな感覚があった。一人はいつものようにレナートのために存在し、彼の命令を待っている獣だ。もう一人はぼやり、キャンドルの火を反射して見たことのない色に染まるロザリオを見ていた。
時間が経って、レナートが立ち上がる。商談成立だ。おれはレナートの背中を守りながら付き従う。ふっと、後ろでキャンドルの火が消えた。
*
「どうした」
「キャンドルがほしい」
望みが形を得たのは三日後だった。それまで、おれはずっとレナートのロザリオを見ていた。レナートはおれの目に何かを感じ取って、おれの希望を引き出す。そう、おれはキャンドルがほしかったんだ。
甘い匂いがして、レナートのロザリオを淡く照らし出すもの。あの光がもう一度見たい。
「……おれの給料で買えるんだろうか」
「ふふっ……ああ、簡単に手に入る。買い物に行こうか。せっかく今日は二人とも時間があるんだ」
そう言って立ち上がるレナートはまっすぐに部屋に向かう。おれはついていく。レナートと出かけるときに着る服はレナートが持っているから、おれは何を着るかなんて考える必要もなく、ただあの匂いを思い出しながら足を動かす。
「バニラ以外のキャンドルもあるぞ。いくつも買える程度の値段だ」
「……いや、ひとつでいい。あの匂いがいい」
ドアが開く。クローゼットが開く。レナートがおれの服を見繕う。おれは楽しそうなレナートを見ている。レナートはおれに服を選べと言わないから、きっとこうやってずっとレナートはおれの服を選ぶんだ。それは、好ましい。欲しかったものじゃないけど、ずっと失いたくないと思う。
*
帰り道、レナートが複雑な模様のブリキ缶をくれた。
「おまえは吸わないだろう」
ピンとこなかった。
「煙草」
合点がいった。
確かに、おれは手元に火を付ける道具がない。すっかり忘れていたおれのために、レナートがこっそりマッチ缶を買っていてくれたんだろう。レナートは優しい。それなのに、ミハイルはレナートの優しさを演技だの偽善だのと吐き捨てる。これに関してはミハイルと意見が合わない。こういうとき、おれはあいつを「エディ」と呼びそうになる。
「レナート、今夜酒を飲まないか? ワインも買ったんだ」
「ワインを? 口にあわないと言っていたのに」
「深い赤色で、きれいだったから。今日はきれいなものが見たいんだ。きれいなワインをグラスで泳がせて、きれいなキャンドルの灯にゆらめいて、きれいなロザリオを見ていたい」
「……大層な口説き文句だ。まぁいい、僕はワインにはうるさいぞ」
「まずかったら、持ってるだけでいい。それで充分きれいだから」
「……いいだろう。貸し一つだ」
貸し一つ。これはレナートの口癖だった。おれはレナートに、三十八の借りがある。
「レナート、借りるのはいいんだ。ただ、借りは返したい。だからレナート、望みがあったら言ってくれ」
「今度な。返すまで死ぬなよ」
おまじないみたいな呪いだ。
「不老不死になりそうだ」
レナートの望みはなんなんだろう。
*
夜、レナートがおれの部屋に来た。そこでおれはこの部屋にグラスがひとつしかないことに気がつく。その一つのグラスだってなんだか不格好で、せっかくのワインを台無しにしてしまうんだろう。なんだか、とても悲しくなった。
「……ほっておいたらおまえはマグカップでワインを飲みそうだからな」
でも、レナートは華奢できれいなワイングラスを持ってきてくれていた。レナートはおれのことをわかってくれている。レナートはキールのことも、ミハイルのことも、リーダーのこともわかってるんだと思う。おれは特別じゃない。うれしくて、苦しい。
ワインを注いで、キャンドルをつけた。ぼや、と灯ってわくわくしたけれど、部屋の電球が邪魔をしている。わずらわしくてスイッチを切れば、キャンドルの周りは真っ暗になってしまった。なんだか、望んだものと違う。これはスラムで最後の一つになったマッチを擦って捨てられた新聞を燃やして暖を取ろうとしたときの、あの様子に似ていてちょっと傷つく。思い出したくないわけじゃないけど、今はきれいなものが見たかった。
「……あまり楽しくなさそうだな」
レナートはおれのことをわかってくれている。
「……もう少し、きれいになるはずだったんだ。なんでなんだろう。スラムで見た火に似てる。あのときは別物に見えたのに」
火は火でしかなかったのだろうか。あの時間は夢幻だったのだろうか。そうやって過去があやふやになると、あの時のスラムに逆戻りしそうになる。あの日に受け入れてくれた、このイグニスも幻想なんだろうか。だったら、レナートも、存在しないんだろうか。
すっと、レナートが立ち上がる。きれいな動きに少し慰められる。おれはレナートが何人かいると言われたら信じてしまうかもしれない。それくらい、レナートの動きは同一人物とは思えないときがある。猫のようにしなやかな時。親友のように愛がある時。王様くらい偉そうな時。暗闇くらい恐ろしい時。
今回は優しく慈しみのある動きだった。そっとおれのそばによってきて、肩に手を置いた。
「……おまえの欲しいものはこれじゃなかったか?」
きれいなワイン。きれいな火。きれいなロザリオ。あの日見たものと、同じはずなのに何もかもが違う。
それなのに、レナートの声はそれら全てに新しいうつくしさをもたらした。レナートが問いかけるだけで、新たな色が失望した全てを彩った。
「……これじゃない。でも、きれいだ」
暗闇の中に浮かび上がるオレンジの灯り。甘い匂い。交じるアルコールの匂いと、レナートの気配。薄い唇が照らされていた。これに噛み付いたら、苦いのだろうか、甘いのだろうか。
「不思議だ。レナートにキスしてみたくなった」
「……は?」
ワインの味は嫌いだ。バニラ味ならもっとほしい。一度、甘ったるく蕩けたバニラアイスのプールで溺れてみたかった。
「したら怒るか?」
「……理由による」
「怒らないのか。やっぱりレナートは優しい」
「理由によると言っている。くだらない理由なら、僕はこのワインボトルでおまえに殴りかかる」
それはもったいないからやめてほしい。でも、この中身の大半はレナートが飲み干す予定だから別にいいのかもしれない。
「バニラ味なのか、赤ワインの味なのか、知りたくなった」
おれは嘘をつかない。仲間が相手ならなおさらだ。それなのに、レナートの顔には「嘘だろ?」と書いてあった。
「……バニラだったら?」
「もっとほしくなる」
おれは、きっとバニラ味なんじゃないかって思ってる。甘い匂いがレナートと混じり合う。
「口説き文句は落第点だ。出ていくほどじゃないけどな」
レナートが俺から離れるから、おれは少しさびしくなる。レナートは対面に座って、くるくるとワイングラスをまわして微笑む。
「……きれいか?」
ワインは赤い。キャンドルの灯はオレンジで、ロザリオは淡く光ってる。
「……きれいだ」
それなのに、それよりも、おれはレナートの満月のような瞳をきれいだと思い始めていた。