楽園ではすべてがうまくいく 夏が好きだった。昔からずっと。
小学生にとって、夏ってのは楽園の象徴みたいなものだろう。蝉時雨に後押しされた大きい笑い声。焼けるような日差しから逃れるように飛び込んだプールに満ちた塩素の匂い。学校の授業なんかなくて、一日中遊んでいられたあの日々は姿が見えないほどごちゃごちゃにこんがらがって、幸せの形に固まっている。中身なんかはわからない、漠然とした光だ。
高校生になると、夏に対しての意識は変わる。夏の好きなところ、問われたとして俺は言葉が出てくるんだろうか。
楽園はおしまい。蝉時雨はただうるさいだけだし、日差しはランニングのじゃまになる。手に届かない積乱雲と、一滴一滴に嵐を内包した激しい雨。そして、幼い頃はただ美しかったはずの、切なさを引き連れてくる花火。
飛び込んでしまえば楽園の欠片に手が届く。それは美しい熱を帯びて輝きだす、ヒロインのまつげほどの煩わしさをまとった宝石のような季節。俺はこの季節を嫌いになれず、ただひたむきに愛していた。
始業のベルが、この屋上まで響く。瞳をあければ黒板ではなく、夏の日差しが視界を奪う。ふと遮った手はトーストの耳みたいな色をして、夏に傷つけられたと泣いている。
クラスの男はたいていがこんな色の肌をしていたから、この時期は白い肌のほうが目を引くだろう。そんな白い肌を持った男が今、屋上で寝転がっていた俺の顔に影を作っている。ゆらりときらめく銀の髪。見知った白さは間違いなく、圧倒的に『牙崎漣』だった。
「やっぱり居やがったか!」
「やっぱり来やがった……」
漣は愉快そうに、俺は面倒だと隠しもせずに声を出した。同じタイミングだと俺たちを笑う声はここにない。屋上には俺たちしかいなかった。だって今は一時間目が始まったばかりで、そもそも屋上は立入禁止だったから。
漣は当たり前みたいに俺の隣りに座って、くあ、とあくびをひとつ。つられて俺もあくびがでた。
「数学のテスト、オレ様に勝てそうかよ。万年赤点野郎」
「オマエに負けたことなんて一回もないだろ。全教科で負けっぱなしの気分はいいか?」
「次のテストで全教科負けるのはタケルだぜ? せーぜー油断してろ、バァーカ」
漣は俺に負けっぱなしのテストでわざわざ張り合おうとする。コイツは集団戦が苦手で、足は俺のが少し早くて、テストは似たりよったりのドベ。だいたいがいい勝負なんだ。俺がコイツに負けるとしたら身長くらいだろう。それだって、今だけの話だ。俺の背は絶対に伸びる。伸びる。根拠はないが、絶対に伸びる。だって毎日うまい飯をたらふく食って、鍛えすぎないように気を使ってるんだ。成長期が少し遅いだけだろう。
最初は戸惑ったけど、漣と競うのは楽しい。いつの間にかそばにいたコイツとのお別れが思い浮かばないくらい一緒なんだ。小学生の時から一緒な気がする。中学生で出会ったんだっけ。いや、高校一年生の秋、コイツが転校してきたような気がしてきた。もしかしたら、もう少し先でコイツは待っているのかもしれない。
楽園の欠片を紐解くとそこにコイツの姿はなくて、もっともっと奥、得体のしれない未来で漣は柔らかく笑っている。ひとりぼっちにはしないと俺のことを抱きしめる、白い腕に血管が浮いている。
おかしな話だ。変なことを言うやつだ。だって、俺は一人だったことがない。友達がいる。両親もいる。妹も、弟もいる。それなのにイメージの中の俺はアイツにしがみつく。『いつ手を離したっていい』と、アイツが聞いたこともないような静かな声で俺をあやす。
こうやって思考の迷路にハマるのはいつだって夏だった。コイツと過ごす何度目の夏だろう。煩わしいはずの熱、しなやかなからだに内包された嵐、牙崎漣という人間。俺たちを照らす光、赤く、青く、黄色く揺れる熱、熱狂。
「……楽園は終わったはずなのに」
あの夏は帰ってこない。それなのにコイツは笑う。
「楽園は終わらない。ずっと」
「ずっと?」
「オレ様たちが目を覚ましたって、オレ様とオマエの世界はここにある」
続くんだ。そう言って漣はごろんと寝転んだ。目線の高さが同じになって、視線が絡む。
続くのか。この夏が。終わったはずの楽園が。何よりも愛したこの季節が。
頬に手を伸ばした。俺の手よりも涼やかな頬。するりと首元までを撫でれば、猫のように目を細めたコイツが身を伸ばし、俺に触れるだけのくちづけをした。
「楽園ではすべてがうまくいく」
俺はこれを間違いだと思ったけど、どうやらそうではないらしい。コイツが口ずさむ歌を俺は知っている。触れた唇からこぼれるフレーズを、熱狂のなかで聞いたことがあるはずだ。俺はどうやら、欠けたピースがあることを知っている。それをはちみついろの瞳が埋めて、俺たちの楽園は雨を待つ。積乱雲が遠くに見えて、俺たちは二度目のキスをする。
夏が好きだった。あの日、出会った時からずっと。