星の川に愛を願う バレている。この腹の奥底に溜まった泥は隠せていると思うけど、上澄みの部分はきっとバレている。証拠と呼ぶには心許ないけれど、「らーめん屋」と呼ぶ声が、二人きりの時だけ少し甘ったるくなる。ような、気がする。
初めは無意識だったけど、思い返してみれば始まりに心当たりがある。
秋の日だ。晩飯の時だ。タケルと漣、二人の皿に肉が平等に入るように取り分けていたら、肉が一つ余ってしまった。
そのとき、二人の皿よりも肉が少なかった自分の皿に肉を入れればよかった。いや、いれるべきだった。だが、自分の手は自分の物ではない皿の片方にしれっと肉をいれ、ほとんど無意識に、だけど意図的に、その皿を漣の前に差し出した。
その日の夜、眠る前に少し考えて、少し考えて考えるのをやめた。タケルには次の食事と時に肉を多めにやればいい。それで平等だ、と。
だけど、そうはならなかった。いつだって肉は平等に分配されたし、余った肉は必ず漣の皿に入れられた。おかしいな、と思った。少しして、マズイな、と思った。これじゃあ、まるで、と。そうして、ずるずると目を逸らし続けていたら、いつの間にか胃の奥にはどろどろとしたモヤが溜まっていた。
愛、恋、慈しみ、羨望、憐憫、認め難く度し難い欲。
混濁してく感情の正体を掴めないままにモヤは泥になり積み重なる。ぬかるんだ感情の中を何度も足掻き、そうしてようやくぷかりと浮かぶキレイな気持ちだけを認める気になった。自分は、漣が好きだ。
認めたって、態度は変えなかったつもりだ。いや、変えないように心がけた。その心がけがうまく行かなかった日は、心の中で何度も言い訳を重ねた。だけと、内側で叫ぶ弁明を覆い隠すように、漣の声がその瞳の色を纏って、蜂蜜のように甘く響く。
バレている。ような、気がする。あまり考えたくないんだけどなあ。
商店街に笹の葉が飾られる季節になった。事務所にも飾られたそれは、カラフルな願いを背負って空間を彩っている。
漣は七夕を知らなかった。その様を愛しく、悲しく思う。勝手な庇護欲と憐憫だ。また一つ、胃が濁る。
家に来ていた漣に、夕飯の献立と七夕の話をした。後者の説明をさして興味もなさそうに聞く漣に、切りそろえられた色紙を差し出して、こう言った。
「漣も願い事をしてみないか?」
うちにも小さな笹の葉を飾る。三人分の願いなら飾れるだろう。事務所の分とはまた別に。そう投げかければ、漣は短冊に一言「うまい飯」と書いてごろりと畳に寝そべってしまった。
一人で仕事に行ったタケルが戻って来るまでには、まだまだ時間があった。自分も願い事が書き終わったら、漣に何かを作ってやろう。そう考えながらペンを握る。願望を乗せたインクが真っ青な色画用紙に滲む。
『事務所のみんなとビルのみんなが、健康に楽しく暮らせますように』と書いた短冊を眺めて、これでよし、と一人頷く。事務所の笹にも同じ願いを託すつもりだった。願いはいくつかあったが、金は自分で稼ぐし、男道ラーメンは店のみんなで盛り上げる。そして虎牙道は三人で頂点を掴む。だから、願い事はこれだけでいい。そんなことを考えていたら、漣がこちらにごろごろと転がってきた。膝にぽふりと乗った頭に少しだけドキッとしたが、顔にはださない。「どうした?」と視線を向ければ、漣は目も合わせずに真っ青な短冊を手にとって、その文字を見て「ふーん」とだけ口にした。
少しの沈黙。近づいたままの体温。少しだけいたたまれなくなって、口実のように七夕を引っ張り出す。
「……漣、飯だけじゃなくてこういう願い事はないのか?」
「ねーよ」
漣は返事に詰まることがあまりない。きっと、いつも思ったままを口にしているんだろう。
「他に願い事……書いてないこととか、ないのか?」
「らーめん屋だって書いてないことあんだろ」
自分の言葉は疑問で、漣の言葉は断定だった。二つの満月が、まっすぐにこちらを見つめている。まるで答えを知っていて、それを自分が口にするのを待っているように。
だけど、漣の言葉に心当たりはなかった。今から振り返れば、その時は見ないようにしていたのだ。何を、と口を開く前に、膝に乗った猫が鳴く。
「オレ様とのこと」
願い事。と言われて、ぶわ、と汗が吹き出した。羞恥か、焦りか。その温度は自分ではわからない。
ただ、顔はきっと赤かった。自分の顔を見た漣は、まるで何か一つ、自慢できるものを手にしたときのように笑って、こう続ける。
「おら、書いてみろよ。叶えてやらなくもねぇからよ」
試すような声色、試すような言葉、欲望を引きずり出そうとする、甘ったるい金色。いや、甘ったるく見えるだけ、かもしれない。もうずいぶんと、正しい色が思い出せない。
誤魔化すならここしかなかったけれど、どうせ誤魔化しきれなかっただろう、と。観念して手にとったのは、真っ赤な短冊。黒いマジックが記すその線は、いつもより震えて汚い。は、と息を吐いて、真っ白な手にうやうやしく願いを手渡した。トドメを刺されるなら、今がいいと。
『漣と付き合いたい』
その文字を見たときの、得意げな顔はきっと一生忘れない。子供みたいに無垢な、自分の汚い感情なんて一つも想像していないまっさらな笑み。
「くはは! やりゃあできんじゃねーか!」
快活な声と共に、さっきまで腹のあたりにあった手が伸びてくる。顔を胸元にうずめ、甘えるように、慈しむように、抱きつかれ、抱きしめられた。
「叶えてやる。付き合ってやるよ」
体温に思考が止まって、しばらくそのままでいた。見慣れたつむじが見慣れない位置にある。時間をかけて、覚悟を決めて、そっと手を伸ばして抱きしめかえせば、聞き慣れた笑い声が聞こえる。
「……こんな形で願いが叶うとはな……」
しみじみと呟いた。
「オレ様が! 叶えてやったんだよ。バァーカ!」
誇らしげな声。叶ったのは上澄みの願いだけなのに、それがこんなにも嬉しいなんて。
「……漣の願いも叶えてやらなきゃな」
うまい飯を作るよ。そう言えば、漣は顔を上げてキラキラとした目を向けてくる。
自分はそれを見て、少しだけ唇を見て、キスをしたら怒るだろうかと考える。この子供は『付き合う』って言葉の意味をどれだけ知っているんだろう。
それを、ゆっくり時間をかけて知っていきたい。そうして、自分が思うその意味と、わだかまる泥のほんの一部を伝えられたら、きっと純粋な愛が残る。
もう、大丈夫だと思った。きっとこれからは肉が余っても、平等にわけることができる。自分は二人を慈しんでいて、たった一人を愛している。もう間違えることはないのだ。
体温が溶け合うくらい長い間抱き合っていた。幸せの象徴のような体温を手放し難くて、タケルがインターホンを鳴らすまでずっとこうしているつもりだった。
ふと、問いかけた。
「いつから気づいてたんだ?」
やはり、回答に迷いはなかった。
「ずっと、前から」
ああ、なんだ。やっぱりバレていた。