不公平ゲーム「シユー?」
「試遊、な」
「ふーん」
俺の手元を覗きこんでいたコイツは頬に触れそうなほどの距離をあっけなく離す。シユーの意味を聞かなかったのは興味がなかったわけではなく、単純に面白くないという気持ちが勝ったのだろう。
さっき散々プロデューサー相手に騒いでいたから、言いたいことはもうないらしい。それでも気が済んでいるかといえばそうではなく、俺のことをじっと見つめている瞳は不満げだ。
「……なんだ?」
「チビだけかよ」
「オマエはゲーム好きじゃないだろ」
俺の手元には、まだ販売されていないゲームがある。俺が何度かインタビューやトークで「好きなんだ」と話していたゲームの続編、そのテストプレイをなんと俺が担当することになったのだ。
「……試遊ってのは、試しに遊ぶってことだ」
聞かれていないことをわざわざ答える。
「遊んでるのが仕事なのかよ」
「そういう仕事もあっただろ。食ってるだけの仕事とか」
正確に言えば試遊というのはただ遊んでいるだけではない。それでも俺はそれ以上の説明を諦めてゲーム機の電源を落とした。コイツには言っていないが、面白かったで終わることはできない。感想をまとめないと。
事務所からもらってきたボールペンと紙を取りだして、とりあえず一言『面白かった』と書いた。さすがにこれだけではダメに決まっているのだが、試遊の感想でネタバレはできない。内容には触れず、でもおもしろさは伝えなければいけないし、当然だが嘘は吐けない。
シューティングゲームといえどシナリオはちゃんとあるから、なんとか内容には触れずに伝えたい。でもそうするととたんに言葉がなくなってしまうのだ。
あーだこーだと悩んでいたら、いつの間にかコイツとの距離がまた近くなっていた。俺は動いていないのだから、コイツが近寄ってきたということだ。
「下僕のやろー……オレ様にも仕事を持ってこいってんだ」
「これは俺が好きだって言ってたものを持ってきたんだ。……オマエは、なにかを好きって言わないだろ」
コイツは好きって言葉を使わない。悪くないだとか、嫌いじゃないとか、よくやっただとか、だ。チャンプのことでさえ、優秀な子分だとしか言わないのだ。それは315プロの人間にとどまらず、全人類が同じような言われようだし、それは俺だって例外じゃない。
俺たち、付き合ってるのに。そう考えて思い直す。付き合うってなんだろう。
キスだってして、もっとすごいことだってしてるんだ。いや、コイツにとってそれは大したことじゃないのかもしれない。俺には大したことだけど、コイツのことはなんにもわからない。たいしたことじゃなかったら嫌だけど、わからない。俺はコイツが知らないやつとキスしたりセックスしていたらきっとすごいショックを受けるんだけど、コイツがどういうやつとセックスするのかがわからない。
でも、俺は好きって言った。それを聞いたコイツは心底愉快そうに笑ってたんだ。上機嫌にそれを受け入れたから、俺はなにもわからないままそういうことだと思ってる。
「好きだなんだって言って、なんかイイコトあんのかよ」
子供みたいに拗ねていた思考が聞き慣れた声に引き戻される。じゃあ、オマエは『イイコト』があれば好きって言うのかよ。
「言わないよりいいだろ。現に俺はこうして仕事をもらってる」
なんでもかんでも言えばいいってもんじゃないけど、と付け加えたが、最近の俺はちゃんと好きって言うことを心がけている。
「プロデューサーが言ってた。好きだって口にすると優しい人が覚えててくれて、それをくれたりするって。だから好きなものはたくさん好きって言うといいって。……だから、オマエもたいやきとか、ちゃんと好きって言ったらどうだ? そしたらたいやきの仕事がくるかもしれないだろ」
きっとプロデューサーなら覚えててくれると思ってそう口にした。コイツはもっと、好きを示したり感謝を伝えたりしたほうがいい。
「…………チビ」
なんだ、と口を開く前に目と目があった。すっと細められた瞳は三日月に似ている。
「好きだ」
ひゅっ、と自分の喉が鳴る。少しだけ聞いてみたかった言葉は、コイツの口からこぼれるだけで俺の心臓を速めることなく、一瞬だけ鼓動を止めた。
「……って言ったら、どーする?」
なんかイイコトあるのかよ。そう笑う。コイツをかわいいって思うとき俺は猫の目を思い出すけれど、いまのコイツは猫ってよりは蛇に似てる。
「……初めて聞いた」
「そりゃ言ってねぇからな」
ほんとかよって聞いてやればよかった。でも嘘って言われたら、それが嘘でもやっぱり傷ついてしまう気がして話を変える。
「……俺は仕事をとってこれない」
「じゃあ下僕に言えばいいのか?」
「バカっ! いいわけないだろ!」
俺が慌てるとコイツはからからと笑った。からかわれているとわかってもどうしようもない。コイツに人をからかう脳味噌があったと知ったのは、ここ最近の新発見だ。
「いまは下僕のことはどーでもいい」
とん、と。白い指が俺の心臓の上っ面を押した。
「チビはオレ様になにをよこすんだよ」
人間の目って漫画みたいにきらきらしない。星だってロマンスだって生まれない。ましてや蛇の目なんて。
蛇の目は蛍光灯の光を少しだけ取り込んで、その特徴的な瞳孔をきゅう、と細めている。近づいた距離をさらに詰めて、頬に触れる。
「指、」
呟いて、その距離のまま額に口づける。
「唇、」
二つ目、息を吐く。
「足は?」
「いくらでも近寄る。なんなら離れる。オマエ、俺のこと追っかけるの好きだろ?」
そう言ってそのままコイツに全部の体重を預けた。コイツは受け止めもせずそのまま床に落っこちて潰された。
「……これ全部、オレ様のもんか?」
俺の背中を撫でながら、楽しそうにコイツが笑う。
「……頂点取るためのモンだ。やれない」
俺は嘘を吐かない。でも『いまは』って言葉を言えなかったのはなんでなんだろう。
俺は黙ってた。コイツはさっきよりもっともっと楽しそうに笑う。
「くはは! そうじゃなかったら殴ってた。そうじゃねーと、つまんねぇ」
そう言って、まるで褒美みたいに俺の髪の毛をくしゃくしゃにする。自分の髪は触られるのも嫌がるくせに、こういうことをする。
「……手も、足も、口も」
コイツは少し笑い声を潜めて、そっと俺の声を聞く。
「俺のものだ。やるわけない。でも、」
「でも?」
「でも、オマエに乗り上げる足とか、オマエをやらしく触る手とか、オマエのいろんなところにキスする唇は、オマエだけのもんだ」
そういって鼻先をコイツの頬に寄せる。同じ石鹸の奥の方から、コイツだけの甘い匂いがした。
「ふーん」
わかってんのか、わかってないのかわかんない声。でも、興味がないわけじゃないから、言葉の続きを待っている。
「特別をやる。こういう、感情を」
キスをしてもいいのか迷った。コイツは少しだけ不機嫌になりながら、心底面白そうに口にした。
「もう、特別はいるくせに?」
コイツは俺の妹弟のことを知ってる。表面だけ晒けだした気持ちの、深いところを見抜いてるように見える。そうしてどこかつまらなそうに、諦めたように、見守るように、愉快そうに笑うんだ。
だからなにも言えなくなってた。でも今は違う。
「……昔だったら、オマエにやるもんなんてなかった。頭からつま先まで、全部」
俺のからだは俺のもので、俺が持ってるものは目的のためにあった。誰にもあげるものなんてなかった。自分にすら、俺は俺をあげることができなかった。
「でもいまは違う。オマエに俺の一部をやれる。……オマエは俺の特別だから、特別をやる」
俺はコイツが好きで、プロデューサーが好きで、円城寺さんが好きで、315プロダクションのみんなが好きだ。みんなそれぞれ大切で、特別で、いろんな種類がある。でも、恋って名前が付くような特別なら、コイツしかいない。
「ライバルでいたい。仲間でいたい。でも、たまには恋人になりたい。……なぁ、キスしてもいいか?」
コイツは返事をしなかった。ただ俺の頭を撫でて頬をすり寄せてきたから、俺は頬に触れるだけのキスをする。
「……こういう特別だ。こういう心はオマエのためだけのもんで、そういうの、全部やるから」
「……やるから?」
「オマエの特別もよこせ」
「やーだ」
するりと、チャンプが足に絡みつくような柔らかさでコイツは俺のからだの下から抜け出した。
「ま、チビの言う特別は受け取ってやるよ。意味わかんねーけど、悪くねぇ」
そう言って、特徴的な笑い声をひとつ。それきり興味が失せたのか、ベッドに戻ろうとする肩を引き留めるように掴んだ。
「おい」
「アァ?」
柔らかな布団ではなく、硬いフローリングに膝を預けたコイツはちょっと不服そうだ。
「俺はオマエが好きだ」
「知ってる」
「好きだ」
「なんもやんねーぞ」
期待はしてなかったけど、少しだけ残念だった。でも安心してる自分がいたのも事実だ。ここでコイツが柔らかく笑って身を預けてチビになんでもやる、だなんて微笑みかけてきたら、本日二度目の天変地異だ。好きって言葉を思い出す。それが『イイコト』目当てであっても、少しだけ時間差でどきりとした。そして思い知る。俺はやっぱり、コイツから言葉がほしい。
肩にかけた手が掴まれる。ふりほどかれると思っていた手を唇に運んだコイツは舌を出して、不適に笑う。
「やらねー」
操られるまま、手の行き先をコイツに任せていた。俺の手は、そのままコイツの心臓に押し当てられる。
「……奪ってみろよ」
「……言ったな」
正直、好きだなんて言葉よりもずっとドキリとした。アスリートの本能に近い興奮で心臓が脈打つ。きっとこれは、狩りの本能に似ている。
コイツの手からすり抜けた手をそのまま後頭部へと運んだ。む、とコイツが眉を寄せるその前に唇を近づける。押さえつけるように動きを縫い止めて口づければ唇が触れたのはコイツの手のひらで、聞き慣れた笑い声をひとつだけ残して今度こそコイツは布団に飛び込んだ。
「簡単にやるわけねーだろ。バァーカ!」
そう言って眠ってしまう。そんな、なにもかも奪えと言わんばかりの無防備さで。
でも、話──じゃれあいは終わりなんだ。今日のところは、だけど。
今日のコイツは眠るし、俺だって試遊の感想をまとめないとならない。
ボールペンを走らせる。ふと、一瞬だけ思考がからっぽになって、ひとつの言葉がぽつりと浮かぶ。
ずるい。
俺ばっかり好きって言っててずるい。
オマエは好きって言ってこなくてずるい。
煮卵だってチャーシューだって、それが好きなんだと俺に言えば何個かはやってもいいってのに、ただ奪い去っていくだけなんてずるい。
なにが好きかこんなにわかりやすいくせに、好きって言葉の定義をわかってないみたいで、ずるい。
少し考えて、ボールペンを投げ出して数秒もしないうちに拾った。この時間はコイツにやれるものではない。奪われて、なるものか。
でも、やっぱりずるい。だって、奪うってのは俺にくっついてる言葉で、俺が起こす行動だ。コイツがなにかするわけじゃない。
オマエが俺に、与えてみせたらいいのに。
オマエから、何かしたらいいのに。ライバルとして、仲間として、いろんなことをされたし、してもらった。でも、恋人らしいことはひとつもなくて。
恋人ってなんだろう。まぁ、俺たちには奪ったり奪われたりがお似合いか。そっちがその気なら俺だってなんにもやらない。オマエだって奪ってみせろ。
でも、きっとまた、俺は特別を、捧げてしまうんだ。
諦めた俺はゲーム機の電源を入れる。このゲームのどこが好きか、ちゃんと言葉にできるようにならないとな。