余生は二人で旅に出ようか 少し寄りたいところがある。そう言ったのは道流だった。
タケルはじゃんけんで負けたので重たい缶詰の詰まったエコバッグを持っていたが、文句を言うことはしない。数歩先を歩いていた漣が面白くなさそうに歩調を緩め、道流の数歩後ろに移動した。
立ち寄ったのはクリーニング屋だった。普段は利用しない店だ。彼らの衣装はいつも他人の手によって整えられているし、クリーニングが必要な衣類には出番があまりない。そもそも、タケルと漣は手入れが必要な衣類自体を持っていない。漣に至っては、ここがどういう店なのかすら理解していなかった。
道流が引き取ったのは真っ黒な服だった。タケルは少しだけ心当たりがある。礼服か、喪服だろう。どちらなのか、それを聞くことはしなかった。
ぴかぴかになった礼服──あるいは喪服を手に道流がまた歩き始める。用事は終わったと見なしたのだろう。漣がまた家路への道を数歩先行して歩き出した。
円城寺さん。タケルが問い掛ける。道流は内容を待たずにそれに答える。
「ああ、この前……ちょっと不幸があってな。喪服だ」
「もふくぅ?」
漣が振り返る。
「人が死んだら着る服だ」
「死んだら着る? わけわかんねぇ」
タケルだって着る意味はよくわからない。でも、弔う気持ちの表れだろうとか、そういうことを考えることはできた。
道流は漣と少し言葉を交わしている。タケルにもそれは聞こえたが、話に混ざることはしない。手にしたエコバッグの中にあるトマト缶の重さだって、変わりはしない。
「ふたりも、必要になるときがくる」
道流は少し悲しそうに言った。タケル、あるいは漣がそれになにかを返す前に、それを打ち消すように笑う。
「お祝い事の礼服も、仕立てないとな」
***
タキシードを作ろう。三人がそう話してから数日が経った。人間、急になにが劇的な変化が起こるとは思わないもので、まだタキシードも喪服も仕立ててはいない。
「俺が学生だったらよかったんだけどな」
そうしたら制服でよかったのに。数日前に知った知識をもとに、タケルはぽつりと呟いた。漣とふたりきりの時によく聞く声だ。相手が聞いていても聞いていなくてもいいような、なにも期待していない声が呆気なくふたりっきりの部屋に溶けた。
漣は返さない。タケルはそれを咎めることも残念に思うこともなく、続ける。
「お祝い事の服はあったほうがいいけど……喪服ってのはあんまり考えたくないな」
必要なんだろうけど。これもまた、呼びかけであり独り言だ。漣が応じれば呼びかけになり、漣が応えなければ独り言になる。
「喪服っての、意味わかんねぇんだよな」
言葉は呼びかけになった。呼びかけは会話になり、タケルの手元へと戻ってくる。
「みんな着るから、ひとりだけ着ないわけにはいかないだろ。そもそも、葬式に色のついた服ってよくない……と、思う」
「別に、みんな好き勝手な服着てたけどな」
タケルの意見は想像で、漣の言葉は実体験だった。タケルは少し驚く。漣が葬式を経験していること、そしてその葬儀ではみんなが喪服を着ていなかった事実に対して、だ。
「オマエ、葬式したことあるのか?」
「ある」
さすがに漣も葬式の経験の有無で競うような人間ではない。ただぽつりと言って、思い出すようにぼんやりと天井を見る。なんだか、その仕草はねこに似ている。
「なんか……村のやつらが集まって……こう、死んだやつを鳥に喰わせてた」
「鳥に?」
それは葬式ではないのではないか。タケルの疑問に漣は首を振る。
「葬式だって言ってた。それに死んだやつにどうこうするんだから、葬式だろ」
確かに、連の意見におかしなところはないように思える。こういうときに道流がいればきっと答えを教えてくれるのだろうが、あいにく今はふたりっきりだ。かといって、タケルは電波の届かない無人島にいるわけではない。スマホを数度タップすれば、求めていた情報は手元にやってくる。
「……鳥葬?」
「ちょーそー?」
「そういう葬式があるんだな……」
漣が見たという葬式はおそらく鳥葬だろう。詳細なやりかたが書いてはあったが、それをじっくりと見ることはしなかった。
「なんか、通りがかった村でやってたんだよな。家族は見れないから、見てやってくれって頼まれて、見た」
そう告げる漣の目はなんだかぽっかりと間延びしていて、少し記憶を辿っているようだった。はちみつ色をした空虚な月をぼんやりと眺めながら、タケルはイメージする。
穏やかに死んでいる老人の死体だ。その目玉をついばむ、想像上の大きな鳥。だんだんと骨にされていく死体はファンタジーのようで、グロテスクは薄かった。ただ、家族が見れないというのは、少し寂しい。そう目を伏せる。
「……そんなに酷ぇもんじゃねーよ。オレ様が見に行ったときはもう肉になってたし。らーめん屋が作るチャーシューの塊くらいだぞ」
「鳥葬の話からチャーシューに持ってくなよ」
チャーシューを目の前にして鳥葬を思い出したらどうする。ため息と共に吐き出された言葉に、漣は呆れたように返す。
「んなこと気にするのかよ」
「気に……はしねえけど……」
鳥葬を思い出そうがなんだろうが、きっとチャーシューはキレイさっぱりたいらげてしまうだろう。なんならおかわりだってする。タケルは黙っていたが、漣にはそれがわかる。くはは、と漣が笑う。
「ってか、これが普通じゃねーのか?」
「普通ではない。……少なくとも、日本じゃそんな葬式はしない」
普通。あいまいな言葉だ。国が違えば常識も違う。別に、漣が間違っているわけではない。
「日本だと燃やすんだよ。そんで、骨にする」
「燃やす……? なんでだよ」
「なんでって……そういう決まり……なのか? よくわからないけど、燃やすんだ」
「ふーん」
気のない返事。そうしてぽつりと呟く。骨はどうするんだ、と。
「骨壺だっけな……入れ物にいれて、家族が引き取る」
「その骨はどうするんだ?」
漣は骨のその後が気になるようだ。鳥葬のように命の輪に組み込まれるでもなく、ただ無機質な入れ物に収められた命だったものをどう扱うのか、と。
「えっと……奉る? 違うな。それにお祈りするんだ……いや、お祈りってのも違うか。……大事にするんだ。その人が、生きた証だから」
バカバカしい。漣はタケルを否定するような事は言わなかったが、瞳に現れてしまっていた。漣は嘘をつかないが、道流に出会って『何も言わない』ことを覚えていた。
「……チビ、死んだらどうなるんだ?」
「え?」
「チビの探してるやつは、チビの骨をもらうのか?」
ぞく、と背筋が冷えた。そりゃそうだろ。唯一の家族なんだ。
「当たり前だろ」
当たり前ではないのに、当たり前だと思った。妻が出来たら妻が看取るだろう。子を成したらその子が受け継ぐだろう。でもタケルには空想のような未来より、地続きの夢のほうが現実的だった。
「チビの骨をもらうやつがいる」
確認のような漣の言葉。しみじみと呟いた後、獣のような瞳を三日月に歪めた白銀の青年はニヤリと笑う。
「奪ってやる」
「……はぁ?」
ずい、と漣が距離を詰める。タケルは少し怯みかけたが引くことはない。自然とふたりの距離は近くなる。
「チビの骨はオレ様がもらう」
「なんでだよ」
タケルは意味がわからない。
「……俺の骨を手に入れて、どうすんだ?」
「喰う」
喰う、と。その存在の残滓を飲み込むのだと漣は言った。一瞬の逡巡もなく、まっすぐに言い放った。
「はぁ……そうかよ」
人間、突飛なことを言われると平凡な納得しかできないものだ。タケルは驚愕ではなく半ば呆れて、至近距離にある漣の目を見つめた。深い海の色と、遠いはちみつの色。ふたりでいると、どうしても動物のような側面が出てしまう。威嚇し合った獣のように、双方瞳が逸らせない。
「意味わかんねぇ……いや、オマエが言うと、なんかわからなくもねえけど……」
言葉は口にした人間次第で意味を変える。漣が口にしたとんでもない悪事の計画は、なぜだかストンと腑に落ちた。
「そうか……じゃあ、注意するように言っておかないとな」
遺言にでも残せばいいのか。『俺の骨を狙っているやつがいる』だなんて。コイツは俺が死んでもなお、俺から離れない気なのかと。
「それから……もしオマエがうまいこと俺の骨を盗めたら、そしたらさ」
にっ、と牙を見せたのはタケルだった。俺が死んだとしても、主導権を握るのはコイツじゃない。
「そしたら、アイドル辞めて旅に出てくれよ。鳥みたいにさ」
オマエが俺の生きた証を奪うなら、俺がオマエの未来全部を奪ってやる。
「……そーかよ! くはは!」
漣ははじかれたように笑う。タケルが苦笑する。なぁ、とタケルが声をかける。最後に知りたいことがあると。
「……鳥葬の鳥はさ、どっかに旅したりするのか?」
ようやく距離を離してタケルは一杯の水を飲んだ。すっかりぬるくなった水は命に近い味がする。
「知るかよ。すぐ村を出たし、どうだっていいだろ」
漣は旅に出ることを約束してくれなかった。漣は本当を言わないことを覚えていたけれど、これは言わなくても双方が理解している不文律なのだ。
「そうだな。どうでもいいことだ……それでも、いいから」
消えそうな声は呼びかけであり独り言だ。タケルの言葉を独り言に変えて、漣はひとつだけあくびをして横になった。
ふたりがひとりとひとりになって、タケルの喉を潤したなまぬるい水のような温度が空間を満たす。そういえば、この泥棒──強盗だろうか──は喪服でやってくるのだろうか。タケルにはそれだけがどうしてもわからない。