猫が胡桃を回すよう 猫の牙とライオンの牙は本数なんかは一緒らしい。大きさが違うから別物に見えるけど、本数はおんなじで三十本なんだって。
人間の歯は親知らずを入れたらそれよりもちょっと多くて、入れなかったらちょっと少ない。まぁ差がちょっとだから口の中には収まるもんなんだろう。三十本の歯がいま、コイツの口の中に収まっている。
あんぐりと大きくあけた口の中には立派な牙。人間のそれじゃない、猫科の牙だ。
大抵の物事には意味と理由があるって思ってたけど、成長するにつれ──こうやって大人に混じって仕事なんかをしているうちに知った。世の中には意味の無いものがあって、理由を気にしても仕方が無いことがある。だからコイツの歯が猫科のそれになってしまったことについて、俺や円城寺さんの困惑をしれっとした笑顔で流してプロデューサーは「しかたないね」と笑ってその場を締めくくった。
自分の歯が猫の歯になってしまったコイツはもう順応してチャーシューを囓ってる。肉以外は食いにくいんだろうか。
そんなコイツの変化を知っているのは俺たちとプロデューサーの四人で、変化を気にしているのは俺と円城寺さんだけだった。いや、オマエは気にしろよ。ラーメン食えないの困るだろ。
放っておけば治るのだろうか。それはあまりにも楽観的な気もするけど、いまできることはない。俺と円城寺さんは不思議だ不思議だと言いながら布団を敷いて、畳に転がっているコイツをごろんと布団のほうに転がした。
明日には治ってるといいな、なんて。そんな会話を四回した。五回目の会話が起きる前にアイツは円城寺さんの家に飽きてふらりとどこかに行ってしまった。探すのは俺の仕事だった。俺はアイツなんていなくてもいいけど、プロデューサーと円城寺さんが心配するから毎回探すことになる。アイツを見つけるのが得意なわけじゃないけど、見つかったアイツが逃げ出さない人間は俺なんだ。
だいたいアイツは路地裏にいる。チャンプもだいたいそこにいるから、アイツはチャンプとセットでいる。俺が加わると猫が一匹と人間が二人。そのはずなのに、なんだか俺が仲間はずれみたいに感じてしまうのはなんでなんだろう。
今日も俺だけ仲間はずれのままアイツを連れ戻すんだろう。歯が猫になって、次は耳でも生えるのか? チャンプと一緒にいるアイツは人間をいつやめるか楽しんでいるようにも見えてくる。こんな考えはおかしくて、被害妄想ってわけじゃないけど、なんとなく褒められないことをしてる気分になってしまう。
妙な感覚だ。イメージはマンガみたいに突拍子もない。チャンプが「人間なんて早くやめちゃいなさいよ」って瞳を輝かせる。やめちゃうか、ってこともなげにアイツは口にして、猫の耳が生えてきて、からだがどんどん縮んじゃって。
「…………なにボーッとしてんだよ」
ふ、と。気がついたら座り込んでいたコイツが目の前にいた。魔法みたいに現れたコイツは猫の牙が見える以外なんにも不思議なところなんてなくて、ただ俺の意識が明後日の方向に逸れていたって事実だけがある。
「探しに来た。いまオマエ普通じゃないんだから、円城寺さんの家にいろよ。もし何かあったら……」
「やーだ。別にらーめん屋の家は悪くねぇけど、もう飽きた」
一から十までわかりきっていた回答だ。別に俺は『探す』ってことをしたわけだから『連れ戻す』が失敗したっていい。それでも引き下がれないのはなんでだろう。
「ぐだぐだ言うな。帰るぞ」
二の腕を掴んでひっぱりあげようとすると、コイツは「がうっ」と吠えて牙を見せてきた。
「ビビったか?」
「ビビったように見えるか?」
鋭くて大きい牙だ。猫とライオンの牙って大きさだけが違うんだっけ。じゃあ、コイツはいま猫じゃなくてライオンに近いのかも、なんて。
「全然こわくない」
それでも、全然怖くなかった。イーっと見せられた鋭い牙に触ったって恐怖心なんて湧いてこない。
ちゃんと見たら怖く見えてもおかしくないんだけど、これがコイツの口に収まってるってだけで恐怖心はない。この俺の喉笛なんて一瞬で切り裂けそうな牙も、ちょっとかっこいいなって思うくらい。コイツの歯ってまじまじと見たことないけど、きっと人間の時も虫歯ひとつないピカピカの歯をしてるんだろう。
コイツは牙を見せるのに飽きたのか、口を閉じて呆れたように言う。
「覇王はビビってたけどな」
そう言ってコイツは立ち上がる。俺はそれを見て円城寺さんの家に歩き出す。コイツはきっとついてくるし、コイツがついてこない日はどれだけ探したって、どれだけ訴えたって、どれだけ求めたって無駄なんだ。
背後で気配がした。肩を掴まれて、空気が張り詰めて、背筋がぞくりとした。でも、それは本能的なものだ。俺は理性でコイツを恐れることを放棄している。
首もとに、鋭い牙が触れた。
「……ビビったか?」
「……だから、言ってるだろ」
怖くない、って。
コイツは首筋に突き立てていた牙を肩に移動させて、力を込める。
「本気で噛んだら、腕、あがらなくなるかもな」
「そんなこと言われても、全然こわくない」
じり、と牙が食い込むけれど、コイツは甘噛みしかできないんだ。俺を試すように立てられた牙は本来の役目を果たさず、俺は血の一滴も流さない。
「帰るぞ」
俺は歩き出す。手を取ったりとか、肩を抱いたりとか、円城寺さんみたいに担いだりとか、そういうことはしない。ただ、コイツを見つけて、コイツが逃げないのをいいことに背中を見せる。
「……なんかムカつく」
「じゃあ人間やめたりすんなよ」
「好きでなってるわけじゃねーよ」
そっか。それならいいんだけど。
口には出さないけどコイツが人間やめちゃわないならそれでいい。
牙が鋭くなって、耳がピンと立って、手のひらがぷにぷにの肉球になっちゃったって、オマエが人間やめないって言ってくれるならそれでいいんだ。それなら、俺はずっとオマエなんて怖くないから。