ひみつの、二人 違和感は絵の具の赤に似ている。もうとっくに捨ててしまった絵の具セットの、一番右端にいた赤い色。
たとえばシャワーを浴びたりしながら、どうしようもなく視線が下がったときに僕はそれを見つける。当たり前みたいにくっついてる足の指10本。その全てにべったりと塗られたペディキュアは何回見たって不自然だ。濃くて、べったりとしていて、人間が肉の下に隠さなければいけない色がてらてらとまとわりついている。生とは切り離せないその色は、ひどく美しい。
感情の色だと思う。マユミくんの色だと思う。事実これを塗ったのはマユミくんだから、間違っちゃいない。どうしても欲しいとねだったものは二転三転形を変えて、今はこの色に落ち着いている。
僕、何が欲しかったんだっけ。ざあざあと流れるシャワーにも、その赤は溶けることがない。
ああ、思いだした。僕は特別が欲しかった。
マユミくんは正しいからアマミネくんと僕に差をつけて扱ったりしない。それはたとえ僕が重病人でも貧困層でも変わりないのだから、僕が恋人であるという事実はマユミくんの言動に何も影響することはない。
いいことだと思う。でも、欲が出た。引っ張り出されたと言っていい。だってマユミくんが言ったんだ。何か欲しいものはないか、って。
「……じゃあ、秘密が欲しい」
口を吐いて出たメロドラマのようなセリフが宙ぶらりんになってから少し考える。僕はこの関係を『言う必要のないこと』だと思っているけど、マユミくんにとっての僕は『秘密』なのだろうか。僕がマユミくんの許す限りあのシアタールームに入り浸っていること、あの暗がりで絡む指先の温度が生ぬるいこと、エンドロールから目を背けてキスをすること。
恋人の家に入り浸って映画を見てキスをするだなんて、我ながらとっても俗っぽいと感心すらしてしまう。僕にはそういう溶けたアイスに似た汚れがあったっていいんだけど、それでべたべたしているマユミくんの手はなんだか笑えて、酷く憐れに見える。
秘密、と呟いたきりマユミくんは黙ってしまった。彼にとってこの関係は秘密ではないようで、少しだけ安心して、少しだけドキドキする。言う必要のないことが足をもつれさせるのはこわい。僕の恋人はマユミくんだけど、恋人は生きてていい理由じゃないから。恋をしているのは僕とマユミくんだけで、それはこのシアタールームでしか生きられない亡霊みたいなものだった。秘密の恋人になりきれない薄暗い照明に希釈された存在が、僕らの言う『恋愛』だった。
マユミくんはフリーズしたまま動かない。僕はマユミくんのこういうところが嫌いだった。感情でものを言ってしまえばいいのに、思案を始めた彼の指先にはいつも正しさと言う糸が絡みついていく。
逆に、好きなところは、正しさの糸が切れる瞬間。
ぐい、と借りて着ていたトレーナーのえりぐりが僕よりも少しだけ骨張った手に掴まれて伸ばされる。
「マユ、ミ、くん?」
あ、と大きく開いた口が露出した肩に思い切り噛み付いてきた。生存本能からくる恐怖よりも、理性がこの異常事態を喜んで背筋をぞくぞくと震わせる。
「……これでいいか?」
歓喜に置いてけぼりにされた痛覚がようやく追いついた。歯を立てられた箇所がじくじくと痛み出す。悪くない痛みだった。これは確かに誰も知らない『秘密』になりえる。
「……ありがとう」
マユミくんは少し考えた後に服を脱いだ。血の味に興奮して一線を越えるとかだったらどうしよう。そう思ったら、どうやら僕も同じように痕をつけていいとのことだったので遠慮しておいた。別に秘密なんていくつも欲しいものじゃない。僕はたったひとつでもマユミくんが秘密を抱えたという事実に満足していた。
彼は正しいから隠すものなんてない。嘘だってつかない。秘密だって当然持ってない。
そんな潔白に傷をつけた。気分がよかった。きっと、家に帰ったら泣きたくなるってわかってても満足していた。
***
「もうダメかもね」
肩のかさぶたが取れるころ僕は言った。次の衣装のデザインを見せてもらって気がついたが、アイドルの衣装には肩を出すものもある。たまたまバレなかっただけで僕らは危ない橋を渡っていたのだ。
ダメって言葉をどう捉えたんだろう。マユミくんはしばらく考えて、そっと僕をソファに押し倒す。からだが沈み込む感覚がもたらすのは背徳感だ。でもそれは内緒で食べるクッキーみたいに、どうしても甘くて抗えない。
「ここなら平気だろう」
ここ、の意味はすぐにわかった。僕に跨がったマユミくんの指先が太ももの内側を辿って付け根まで滑っていく。
「……マユミくんって結構アレだよね」
「嫌ならやらない。他に案があれば言ってくれ」
「あはは、会議じゃないんだから」
全身のちからを抜いて身を任せる。マユミくんは僕が完全にぬいぐるみになったのを認めると、あまりにも躊躇いなく僕のズボンを引きずり下ろした。
「……こんなとこ、セックスするまで触られないと思ってた」
「俺も触れられるとは思わなかった」
セックスなんてしたことはないけれど、僕の太ももを持ち上げて肩に乗せるマユミくんって視覚情報は思春期の僕を勘違いさせるには十分すぎた。心臓はばくばくと鳴るのに、頭から血液が急速に引いていく。
自分の顔が真っ赤なのか真っ青なのかわからない。マユミくんの顔は影になっていてよく見えない。秘密を隠したシアタールームは感情を暴き出すには暗すぎる。ざらざらした光にはいつまで経っても目が慣れないから、手探りでわかりあうしかない。
いま、何時だっけ。
一瞬だけ、真夜中かと思っちゃったんだ。本当に一瞬だけ目の前のマユミくんから意識が逸れたと思ったら、太ももの付け根に近い部分がじわりと痺れた。噛み付かれたって理解する。僕は新しい秘密をもらうことができた。
痛みは全身に甘い倦怠感を伝播させた。痛覚からこんな蕩けるような感覚を得るなんて、我ながら狂ってる。
「マユミく……どうしたの?」
僕の太ももから血が流れているの見て、バッとマユミくんが飛び退いた。少しだけ見えた表情は険しくて僕はちょっと不安になる。
「……すまない」
「え?」
なんで謝るんだろう。謝られるのって、怖い。背後に否定の影がちらついて逃れられなくなる。痛くないよ、と縋るように口にした。
「いや、……その、トイレに行ってくる」
心配して損をした。実は僕もちょっと興奮していたのは内緒にして、うんと悪いことに彼を誘う。
「……あはは! ……このまま続きしちゃう?」
「しない」
「……したくない?」
やったことはないけど、性欲はある。僕にも、マユミくんにも、当たり前に。健全なる男子高校生である僕たちは、そういうはしたないテーブルマナーも知っている。
「するのであれば、事前に準備が必要だろう。俺は百々人に負担をかけたくない」
そう告げるマユミくんがまた正しさでぐるぐる巻きになってしまったので、僕はその背中を見送った。たったひとりになった僕をぼんやりとした照明が取り込んで暴く。
「マユミくん、ちゃんと僕で興奮するんだ……」
それは口にすれば熱になって肺を焼いた。一寸遅れで心臓に火が灯る。
「……でも、完全に自分が抱くつもりなのはマユミくんらしいなぁ」
言えば話し合いはしてくれるんだろうけど、別に抱かれる側でもいいかなぁって思ってる。そう思ってたらマユミくんが帰ってきたから、僕はなんだか笑顔になってしまう。それなのにマユミくんは険しい顔だ。
「マユミくん、どうしたの?」
「…………ズボンをはいてくれ」
そっか、忘れてた。
「マユミくんって案外えっちだよね」
「平均的な男子高校生のレベルだと思うが……」
マユミくんは間違っていないけど、平均的な男子高校生はえっちなのだ。俗っぽさでべとべとになったマユミくんの手は生ぬるくて、唇はなんとなく甘ったるかった。
***
四回くらい、傷をつけてもらったんだと思う。
僕の太ももを囓るマユミくんは見るたびに背筋がぞくぞくとして、草食動物が補食されるときに自らを慰めるために出す脳内麻薬ってこんな感じなのかなって思う。誰も触れない場所にマユミくんの歯が突き立てられるたびに僕はクラクラと熱に浮かされては息を吐いた。
だから、五回目がくると思っていた。それなのにマユミくんは正しさを引き連れて僕に突きつける。
「……それ、なぁに?」
マユミくんの手には小さなボトルがあった。一瞬だけ画材を思い出して気が遠くなる。それはマユミくんが持ってていいものじゃない。
「マニキュア……足に塗るから、ペディキュアと言うのか」
「ペディキュア……? なんだ……」
画材ではなかったが、どちらにせよマユミくんが持っていると違和感のあるものだった。マユミくんはいつもの声色で、いつもみたいに正しいことを言う。
「百々人に痕をつけるときはどうしても傷つけてしまうから、これを塗ればいいと考えた。これなら他人には見えない位置に塗れるし痛みもない」
そう言ってマユミくんは僕のつま先に指先を滑らせる。セックスのような酩酊はないが、背徳感はこれまで以上に僕を震わせた。
「……僕に、塗ってくれるの?」
「そうだ」
「一人で塗れるよ。これは二人じゃなきゃ出来ないことじゃない」
「俺がやるから秘密になる」
マユミくんはもう僕に「嫌か」とは聞かない。僕らが無言で取り決めた時間だけたっぷりと沈黙して、僕がなにも言わなかったら『そういうもの』として淡々と手を進めていく。
僕に沈黙を破ることは出来なかった。マユミくんの手がするりと僕のくつしたを脱がせる。
「……足、洗ってきた方がいいかな」
「問題ない」
「でも……あ、きれいに拭いてからじゃないと、マニキュアが定着しないかも……」
「そうか。なるほどな」
呟いてマユミくんは部屋を出る。僕はぼんやりと待つ。電気もつけず、ざらざらとした暗闇に目が慣れるのを待っている。
「待たせた」
マユミくんはタオルを持ってきていた。僕をソファに座らせて、おとぎ話の王子様みたいに跪いて僕のつま先を持ち上げる。
僕が冷たくないようにだろう。タオルはあったかくて気持ちよかった。マユミくんは淡々と僕の足を拭いている。目が合わない。
「マユミくん」
それでも僕が声を出せば彼は翡翠の双眸をこちらに向けてくれる。僕が何も言わずに笑っているから、彼はまた取り決めた時間をたっぷりと泳いで、再びつま先に視線を落とす。
暗くて、小さくて、よく見えない。爪に感覚なんてないから、何をされてたってよくわからない。
それでもマユミくんが何も言わないのはそういうことなんだ。彼は正しく僕を守り、生々しくなんてない、美しい秘密を残そうとしている。
僕よりも大きなからだを折りたたんで、小さい爪に色を残す。僕はされるがままが心地よくて、その秘め事が何色なのかも知ろうとしない。
「マユミくん」
律儀に視線があがる。彼は僕の目を見てこの色をどう表現するんだろう。
「ふとももを噛むのさ、セックスに似てたよね」
だからやめたの? とは聞けなかった。僕はたまに踏み外すように落っこちちゃいたいときがあるけど、マユミくんはそんな僕を正しさって糸でぐるぐる巻きにして、背負って、丁寧に階段を降りていくんだってわかってたから。
「セックスがどういうものか、まだわかっていない」
だからわからないとマユミくんは言う。こういうところが髪の先まで『マユミエイシン』なんだよなぁ。僕たちは男子高校生なんだから、セックスなんて甘くて、苦くて、気持ちいいものってことだけ知った気になってればいいだけなのに。
マユミくんは僕のつま先を持ったままぽつりと呟いた。
「……痛くないか?」
愛おしそうに、彼の指先が足の甲を撫でる。マユミくんはたまにバカだから気がつかない。こんなの、夏になれば日差しに暴かれてしまうほど脆い秘密だってことに。
「痛くないよ。ペディキュアを塗っただけなんだから」
言えなかった。秘密なら、痛い方が気持ちいいって。
「よかった」
いつ乾くんだろうって、どっちも口にできなかった。秘密がよれてぐちゃぐちゃになってしまうのが恐ろしくて、僕らはずっとずっと息を殺してじっとしていた。