シャンデリア・ワルツ 三拍子は馴染まない。ワルツは踊り慣れない。指先を伝う体温には、いつまで経っても心が追いつかない。
レッスン室には俺と鋭心先輩がたったふたりきりで満ちることのない呼吸を交わしていた。メトロノームの無機質な音に操られて俺と先輩はくるくると回る。見慣れないワルツは俺のロングスカートの裾をひらりと踊らせた。
右足で裾を翻してターン、離れては引き寄せられて腰を抱かれる。ツーカウントで後ろへ仰け反りすべてを先輩に委ねれば、晒された俺の喉元に先輩の薄い唇が触れた。
「……一度、休憩にしよう」
首先を吐息が掠めて数拍、体温が他人となって離れていく。俺は数歩遅れてスマホの元へと歩み寄り録画終了のボタンを押した。
「一度チェックしてみますか」
「ああ、頼む」
再生ボタンを押せば過去と現在のメトロノームの音が重なった。カチ、カチ、カチ、カチと鳴る音は規則性と規則性が重なって益体もない。忘れていた、と先輩がメトロノームを止めれば、静寂を過去のリズムが乗っ取った。
手のひらに収まる世界にだって、存在は俺と先輩だけだった。先輩は見慣れないローヒールを履いていて、俺はもっと見慣れないロングスカートを履いている。俺は俺としての個を消して、『眉見鋭心のパートナー』として彼の傍らに寄り添っている。
ふたりきりのワルツは俺のためのものではない。これは鋭心先輩が今度撮影するプロモーションビデオのための練習だ。
俺や百々人先輩には与えられなかった仕事だから、最初は心配にもなった。なにせ、彼は『眉見』の二世だから。まぁ蓋を開けてみたら事務所の十八才全員に同じ仕事が振られていただけなんだけど、こういうときに俺は少しだけドキリとする。
鋭心先輩のパートナーを見たことはないがヒールを履くとちょうど俺の背丈と同じになることだけは知っている。鋭心先輩が一度「すまない」と断って俺の腰を抱き寄せたことは記憶に新しいし、俺はその時の心臓の音を覚えている。理由を聞けば俺と仕事相手の背丈が同じだと言うことなので、ならば天才の俺が天才らしくサクッと振り付けを覚えて鋭心先輩のレッスンに付き合えばいいと判断して今に至る。空想上の相手をイメージしながら踊るより、代理でも誰かと踊った方が理解は早いだろうということだ。
「ここ、」
「はい?」
「どれくらい体重を預けてきた?」
画面の中に知らない先輩の表情が見える。俺の首筋に振れる唇は赤く、その目には少しだけ色が差している。
「……全部」
すべてを預けたと伝えた。先輩は少し思案した後に俺の体重を聞いてくる。相手の体重を知っているとは思えないが、一応正確な体重を伝えて二の句を待つ。先輩の指先が時間を巻き戻して、画面の中の俺はもう一度、先輩にすべてを委ねて瞳を閉じる。その光景を、過去の俺を妬ましく思う俺がいる。
この閉じこめられた数分間だけでも、先輩を独り占めしている画面の中の自分が羨ましくてたまらなかった。こうやって冷静になってしまえば気がついてしまうような事実さえ置き去りにして、たった二人で踊っている過去の自分が羨ましかった。
こうやって見ればわかる。先輩は俺を通して、見も知らぬパートナーを見ている。そこに情欲がないことも知っている。わかっていても泣きたくなってしまうのは、俺が先輩のことを好きだからだ。
偽るつもりはない。好きの種類だってちゃんとわかってる。触れたい、抱きしめたい、キスしたい。それでも伝えられない理由はたくさんあって、いくつもの言い訳がこの気持ちに『言う必要のないこと』というラベルを貼って、キレイに棚に飾ってしまうから、うまく手が届かない。
「…………ここの姿勢が悪いな」
「俺ですか?」
「いや、俺だ。秀に問題はない……付き合わせているのにすまないな。もう一度頼めるか?」
そう口にするくせに、返事も待たずに俺に差し出される手が憎らしい。それでも体温はあっけなく俺の心臓に火を灯して肺を焼く。待って、と一言呟いて、スマートフォンの録画ボタンを押した。
メトロノームが動き出し、ワルツが始まる。先輩は俺を独り占めするくせに先輩は俺のものにならない。俺を見て、俺に触れて、俺を抱いて、俺の首筋に唇を寄せて、特に情のない女の影を俺の背後に見る。そんなのわかってるってのに俺の思考はメトロノームの音に奪われてバラバラになっちゃって、最後はすべてを先輩に差し出して目を閉じてしまう。それが、こんなにも心地良い。
「……もう一度」
口を開いたのは俺だった。あと少しだけ溺れていたい。少し離れてまた結んで、カウントふたつでワルツが始まる。メトロノームが単調なリズムだけを刻んでいくのがなんだか催眠術みたいで滑稽だ。
指先が触れている。呼吸が鼓膜を揺らす。新緑を封じ込めたような翡翠の瞳に、見慣れない表情が映っている。リズムは俺を操って、ふたりきりという糖衣に包んだ麻薬のような時間が脳の裏側を痺れさせた。
単調なはずの三拍子に漂うさなか、ターンで一度足がもつれた。キュッと鳴るスニーカーの音に我に返る。スニーカーでワルツを踊るやつなんていない。代替品の証明みたいな音で、なんだか妙に醒めてしまった。
くるくる回るたびにスカートの裾が翻って絡みつく。浮かんだ悪い考えに従って、俺を導くはずの手を思い切り引っ張った。突然のことに体制を崩した鋭心先輩を腕に捕らえて抱きしめる。突然放棄されたルールに唖然とする鋭心先輩はなんだかちょっとかわいいんだけど、俺は誤魔化す言葉を持っていない。
「……秀?」
いまここで好きって言ったらどうなるんだろう。体温と引き替えに得るもの、失うもの、変わるもの。どれも魅力的だけど俺はまだ踏み込めないままだ。
「……間違え、ました」
「そうか」
だったら、この甘くて苦い時間に傷つき続けるのも悪くない。
鋭心先輩は何も聞かずに姿勢を正す。メトロノームは鳴り止まず、あと少しだけワルツは続く。踏み出して、踏み込んで、受け入れて、ターン。撮影になんて到底耐えられない安っぽいロングスカートが、幻みたいにふわりと踊った。