ネームレスラブソング 秋の花が綻ぶ香りは空の高さを意識させる。見上げる空に浮かんだ飛行機雲を指さしたってもう俺の隣にアイツはいないから、一枚だけ写真を撮ってどうでもいい一言を添えてSNSに投稿した。顔も知らない人間に拡散されていく空は平等に広がっているんだから、今日はカーテンを開けて空を見ていてくれたらいいんだけど。
冬に備えるように恋の歌が増えてきた、と思う。手のひらの温度を求めたり、一人寝の夜を怖れたり、クリスマスに浮かれてみせたりする、そういう歌。ちょうどいい長袖があっという間に店頭から消えるように、秋は戦線に乗っかれないままに金木犀を道連れに死んでいく。そういえば、俺もあまり秋の歌は作らない。
いま作るとしたら騒がしい歌になりそうだ。高校生になって生徒会長になって、金木犀の香りは多忙と結びついた。文化祭シーズンになって俺は少しだけ慌ただしく過ごしていたし、同じくらい先輩たちだって忙しかった。
取り留めのないことを考えながら少しだけ足早にレッスン室へと歩を進める。別に遅れていないけど余裕があるわけじゃない。鋭心先輩は生徒会の仕事で遅れるって連絡があったけど、百々人先輩は来ているはずだ。
レッスン室では百々人先輩が書類を広げて忙しそうにしていた。俺の足音に気がつくと耳を塞いでいた安っぽいイヤホンを外して、ふにゃりといつもの笑顔を見せる。
「あ、アマミネくん。ごめんね」
「別に大丈夫ですよ。鋭心先輩もまだだし、レッスン開始時間じゃないですし」
先輩も俺と同じで事務処理に追われているのだろう。要領がよさそうなのに意外と雑務を引き受けているようで、散らかった紙の多さがそれを物語っていた。
先輩がこの様子なのに自分だけ練習するのもどうかと思い、俺も書類を広げることにする。本当は全部データにしたいけど、まだ我が校は紙媒体に執着しているのだ。ため息が出てしまう。
「練習しなくていいの?」
「家でやろうと思ってた仕事をいまやっちゃおうと思って。いまこっちを片づけて、家でコソ練しますよ」
そう言って百々人先輩の隣に腰をおろす。書類が混ざらないように注意しながらぼんやりと、少し距離を取ったほうがよかったのかと思い直す。いまから遠ざかるのも感じが悪いから黙って手を動かそうとすれば、百々人先輩がイヤホンをくるくると丸めているところだった。
「何聞いてたんですか?」
ふと気になった。百々人先輩はどんな歌を聴くんだろう。
「ん? ああ、これ最近クラスで流行ってるんだよね」
流行は確実に押さえているはずなのに、タイトルを聞いてもピンとこない。そう呟けばどうやらこれはかなり昔の歌らしく、百々人先輩のクラスで局地的にブームが巻き起こっているようだ。
「聞いてみる?」
百々人先輩が当たり前みたいに呆気なく片方のイヤホンを渡してくるから俺はもっと距離を縮めないといけない。書類を放り出して耳にイヤホンをねじ込めば、百々人先輩の指先にあわせて音楽が流れ出した。
恋の歌だった。ゆったりとしたリズムにのってアコースティックギターとウッドベースが揺れている。ウッドベースの音はあまり使ったことがないから新鮮だった。アコースティックギターからも使ったことのない弦の音がする。そういえば俺は打ち込みが多いけど、次はギターを生音で取りたい。この事務所にはバンドを組んでいる同年代がいるようだし、収録に協力してはくれないだろうか。
俺が真剣に耳を傾けているからだろう、百々人先輩は終わってしまった曲をもう一度かけた。ゆったりとした弦の音に併せて、どうしても俺の悪癖が顔を出す。
「俺だったら、ここはベースをもっと強調するな…………今の流行りにあわせるならアレンジも変えて…………あ、すみません」
膨らんだイメージが唇から零れ落ちるのを百々人先輩は笑って見ていた。音に溺れそうな俺を一度捕まえてみせたのに、ほほえみながらその指先を離す。
「いいよ。もっと聞きたいから、続けてよ」
百々人先輩の柔らかい声はまるでひとつの楽器みたいで、その音色に新しいアイデアがどんどん湧いてくる。俺の言葉に百々人先輩はひとつひとつ頷いて柔らかな肯定をくれるから、なんだかそれがとても嬉しくて俺は何個も何個もアイデアを出した。きっと俺は、恥ずかしくなるくらい誇らしかったんだ。
「アマミネくん」
ふと、俺の言葉を百々人先輩が遮った。俺が息を吸うタイミングに合わせて百々人先輩がふわりと目尻を下げる。
「歌ってみてよ」
「え?」
「アマミネくんがこの歌をどう歌うのか、聞いてみたくて」
さっきのアレンジで、お願い。そういって百々人先輩は瞳を閉じた。無防備な先輩はよけいな物音を立てたら崩れてしまう砂糖仕掛けのオブジェによく似ている。
何を考えて歌ったんだろう。たださっきまで俺と先輩を繋いでいた幻想を形にするようにひとつひとつ音を辿る。形のない正解を押し込めるみたいに声を発して、自分の声で世界を作り上げる。
歌い終わって数秒か数分か。百々人先輩がゆっくりと目を開けて、彼がよく使うスタンプのひよこみたいに手をたたいて「すごーい」と笑った。
「ありがとう、アマミネくん」
その笑顔が絵本を読んでもらった少年のようだったから、少しだけ俺は気恥ずかしくてぶっきらぼうに返してしまう。
「別に……俺だったらこうするなー……って感じで……」
「うん。聞いてたよ。アマミネくんは、こうやって恋を歌うんだね」
「……え」
それは初めて受け取る賞賛だった。よきせぬ言葉は俺から呼吸を奪ってしまって、咄嗟に何も返せない。
「アマミネくんが作る恋の歌って、こんな感じなんだなぁって。アマミネくんが思う恋って、こういう音をしているんだね」
自分と恋を唐突に結びつけられて、カッと頬が火照るのがわかった。どくどくと耳元で血液の音がして、鼓動が早い。
恋を語るならベースの低音を強調して、テンポを少しあげて、もう少し感情を抑えて。
「なんだか、告白されたみたい」
そう声を弾ませる先輩の腕を知らず知らずに掴んでいた。まったく意に介さない先輩の目を見て、はっきりと告げる。我ながら、必死で情けない。
「俺が恋を歌うなら」
「うん」
何もかも見透かしたような、春を閉じこめた紫陽花色の瞳。
「一から恋の歌を作ります。こんな手垢のついた歌の使い回しなんかじゃない。何万人に向けて歌われたラブソングなんかじゃない」
自覚、なのだろうか。騙されている気すらする。ただ浮かれた熱に煽られて、恋を語る音楽が心臓の奥からあふれ出して止まらない。
「俺の、歌を」
鳴り止まないメロディのすべてが百々人先輩と結びついている。柔らかい笑顔だとか、震えるような歌声とか、たまに曇る瞳とか、ちょっとよくわからないところとか。
「……それを聞ける人は、幸せだね」
それなのに、突き放すようなことを言うからたちが悪い。自覚しているのかいないのか、やっぱり底が知れないほほえみは少し怖い。
それでも、引けない。気がついたなら止まれない。鳴り止まない音楽が心臓を押しのけて言葉になった。
「作ったら、百々人先輩に聞かせます。……聞いてくれますか?」
こんなの、もう全部言ってしまったのとおんなじで、それすらも熱に浮かされて愛にならない。世界に、この溶けるような声に騙されて、大音量で恋の歌が脳内を駆けめぐる。
「うん。楽しみにしてるね」
するりと俺の手から逃れて先輩は書類に手を伸ばす。マユミくん、遅いね。だなんて嘯いて、視線はそれきり紙の上だ。
レッスン開始まであと少し。俺は仕事なんか手に着かなくて、ずっと伝えたいワンフレーズを脳内で繰り返していた。