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    85_yako_p

    カプ入り乱れの雑多です。
    昔の話は解釈違いも記念にあげてます。
    作品全部に捏造があると思ってください。

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    秀→鋭。悪夢を見る鋭心先輩と、それが気になる秀くん。(2021/10/27)

    ##秀鋭

    いかんともしがたい「最近、悪夢を見る回数が増えた」
     そういえば、と鋭心先輩が呆気なく打ち明けた言葉を聞いたのは俺だけだった。自販機のぶーんという無機質な羽音を背に、あろうことかそれに対して俺が返した言葉は「新人紹介ラジオのトークテーマにしては、ちょっと。」だったから、なかなかどうしてままならない。
     事務所の先輩がすでに受け持っているラジオへのゲスト出演が決まった俺たちは、デビューしたてのアイドルがもらうには十分すぎる尺を飾るトークテーマをあれこれ考えているところだった。今は小休止ということで、俺は自販機の前でお茶かコーラかを悩んで、結局ボタンを同時に押して決めたりなんかをしてみてる。そうしたらいつの間にか背後に鋭心先輩が居て、なんの脈絡もなく「そういえば、」と口を開いたわけだ。
     全員分のおつかいを承ったのは俺なんだけど、鋭心先輩は財布に小銭がないことに気がついて自分で買いに来たらしい。律儀な人というか、なんというか。
     千円札を自販機に食わせて鋭心先輩は緑茶のボタンを押した。おつりを手にとって、それをそのままコイン投入口に入れようとして、ぴたりと動きを止めてしまう。
    「どうしたんですか?」
    「いや、百々人の分も買おうかと思ったんだが……秀はもう自分で買っているようだからな。百々人にだけ買うのは不平等だろう」
     どうやらあと十数秒ほどお茶かコーラかで悩んでいたら奢ってもらえていたようだ。間の悪さと先輩の正しい部分がくっついてべたべたになっている間に、俺はさっさと小銭を放りこんで百々人先輩が飲みたがっていた甘ったるい缶ジュースのボタンを押す。ガタン、という音に視線を向けた鋭心先輩に何の気なしに問いかけた。
    「最近、ですか」
     話が飛んだ。戻ってきたと言ってもいい。先輩は一瞬だけ目を瞬いて、ああ、といつも通りに声を紡ぐ。
    「最近だな。このユニットを組んでから見るようになった」
    「……えぇ? それ、なんか俺たちのせいみたいですね」
     予期せぬ言葉に思わず身構えてしまう。こんなのは被害妄想だろうか。でも俺たちと行動をし始めてから悪夢を見ているだなんて言われたら、原因が自分にあると考えてしまうのも仕方ないだろう。まぁ原因が俺だとしても俺は何も出来ないしする気もないからそもそもこんな気の引け目に意味はないんだけれど、それでも座りが悪いのはどうしようもない。
    「そうかもしれないな」
    「いや、そこは『そんなことはない』って否定してくださいよ」
    「タイミングがタイミングだからな。それまではあまり悪夢を見ることはなかった」
     先輩は俺がいつまで経っても缶ジュースを取り出さないから不思議に思ったかもしれない。硬貨数枚の義理堅さでひとりぼっちにされた百々人先輩には悪いのだが、俺はなぜだかこの人の悪夢に興味があった。先輩が最近見た映画のタイトルなんかよりずっと興味があった。缶ジュースが結露したって、百々人先輩が寂しがったって、あと少しだけふたりだけで話がしたかった。
    「どんな夢を見るんですか?」
     悪趣味、だろうか。しかし鋭心先輩は表情一つ変えずにぽつぽつと話しだす。
    「抽象的な夢だな。特に内容はなくて……それこそ起きたら断片的にしか覚えていないような夢だ。ただ、悪夢だったという感触だけが残るような……そういう夢だ」
    「……たとえば?」
     鋭心先輩らしくない夢だと思う。ろくに鋭心先輩を知りもしない俺はそう思った。似つかわしくなくて、それが目と興味を惹いてしまう。
     あやふやで、明瞭じゃなくて、実体も益体もない。そういうものは違うだろうって思うのに、興味だけが先行して口を吐く。この感情は、明確な欲求だ。
    「例えばと言われてもな。……ああ、そういえばこの前はピンク色の象が出てきた気がする」
    「……ピンク色の象?」
    「わからない。そんな気がするだけだ。本当に覚えていないんだ……悪夢だということだけしか、わからない」
     俺はもう少し話していたかったんだけど鋭心先輩はもう何も言わない。かと言って俺を置いて戻ったりもしないから、俺は観念して缶ジュースを手に取った。

    ***

     最近、眠る前に鋭心先輩のことを考えている。でもそれは彼の指先だとか、悪気のない視線だとか、冷たくも熱くもない声だとか、たまに持ってきてくれる差し入れのこととかじゃなくて、ただ鋭心先輩が見るという悪夢についてをぼんやりと考えている。
     他人の悪夢に興味があるわけじゃないんだけど、抽象的で伝達が不可能なほどのイメージが鋭心先輩にくっついてるっていうのがよくなかった。しっかりとした道を歩いている人が、脈絡もなく出所もわからない夢に振り回されている。でもそれはそこまで悲痛なわけじゃない。申し訳ないけどちょっと笑ってしまうような、それこそ一度だけ見たことのある鋭心先輩の寝癖みたいな、そういう愛嬌のある綻びに無性に惹かれてしまうのだ。
     鋭心先輩本人ですら形の掴めていない悪夢はいくら考えても正解がでないので、どうでもいい想像ばかりがとめどなく溢れてくる。だいたい悪夢って言うと死んだり燃えたり落ちたり壊れたりってイメージがあるけど、それすら先輩は記憶にない。たったひとつの手がかりはピンク色の象だ。なんだよ、ピンク色の象って。
     一応検索してみたらピンク色の象が大量に出てくる子供向けのアニメーションがヒットするもんだから、なんだか鋭心先輩の柔らかな部分に触れてしまったような気がしてしまう。これ、小さい頃に見て怖かったりしたのかな。覚えてないけど覚えてるのかな。教えたら思い出すんだろうか。でも、先輩が知らない先輩のことを俺だけが知っているのは──知ったつもりになっているのは気分が良かった。
     百々人先輩のわからなさっていうのは底が知れないくせに脆いから少しだけ怖いんだけど、鋭心先輩のよくわからないところはなぞなぞみたいなエンターテインメントと同じようにちょっとわくわくしてしまう。彼にはきっと隠すものはなくて、踏み込んではいけないところからは遠ざけてくれて、俺が少しでもマナー違反をしたら正論でぶん殴ってくれるであろうという安心感があるからだ。庇護下で遊んでいられる、みたいな。そういう安寧を振りまく癖が彼にはあるのかもしれない。
     でもそれは思い込みで、鋭心先輩は俺より二つ年上なだけの人間だ。鋭心先輩が傷つかないだなんて思ったことは一回もない。娯楽にしていいはずもない。でも、彼は俺になんて損なわれることはない、って期待してしまっている時点で、もしかしたらだいぶまずい。彼は俺より少しだけ正しいだけの、ただの人間なのに。
     ただの人間だ。でも、見慣れないタイプの人間だ。貴族っぽいというか、高潔というか、なんというか、武士みたいな。
     たぶん先輩の美徳っていうのはそういう正しさで、でもそういうところは好きとか嫌いとかじゃなくて、ああ、鋭心先輩だなぁってしみじみと思うだけの要素でしかない。そういう盤石な土台の上にちょっとノリがいいところとか、一寸だけ間の抜けたところとかがあって、今回はそこにピンク色の悪夢が乗っかってだけなのに、なんだかそれが無性においしそうで喉が渇く。ざわざわして、呼吸が上がる。
     危ないなって思う。鋭心先輩って名前のついた大きな木を目の前にしてるのに、落ちている果実ひとつだけを見てはしゃいでいるような感覚だ。悪夢なんかよりも知るべき事があるはずなのに、あんまりにもちぐはぐな組み合わせに目が眩んでいる。芸能人のゴシップよりも、クラスメイトの色恋よりも、よっぽどセンセーショナルで背徳的だ。結論もゴールもはじめっから存在しないのがよけいによくない。どうにもやめられなくて、俺はまた存在があやふやな悪夢をイメージする。

     ピンク色って言ってた。先輩の夢には色があるんだなぁって思う。俺はあんまり色のついた夢は見ない。というか、夢ってあんまり見ないかも。
     検索に引っかかったアニメーションは確かに悪夢のようだったけど、ああいうものを鋭心先輩は恐れるんだろうか。そこに音はあるんだろうか。
     鋭心先輩はなにが怖いんだろう。たとえば夢で俺や百々人先輩が死んだりしたら、それを悪夢と呼んでくれるんだろうか。
     そういう、わかりやすいものに恐怖してくれればいいのに。たとえば俺と百々人先輩の死に怯えたと打ち明けてくれたのなら、俺たち二人はそれを笑い飛ばして、そっと肩に触れて、優しい言葉をかけることができる。でも相手がピンク色の象じゃあどうしようもない。誰に言ったって雑な慰めくらいしかもらえないだろう。ましてや鋭心先輩は、なんの慰めも望んでいないのだ。誰にも気づかれず、そんな様子もなく悪夢に囚われる鋭心先輩は妙に好ましかった。よろしくない。他人に興味を抱くルートとして、これはいただけない。

     夢のことを考えても、きっと夢なんて見ないで眠る。そんな眠りの淵で、俺は鋭心先輩が今日どんな夢を見るのかと他人事みたいに考える。
     何色の夢を見るのか考える。優しい夢を祈る。でも、それ以上にうんとひどい悪夢を望んでしまう。
     わかりやすくて絶望的な夢がいい。夢の中では親も俺も百々人先輩もプロデューサーもみんな死んじゃって、家は燃えて、怪獣は跋扈して、都市は滅びて、宇宙人に追いかけまわされて、崖から突き落とされて、地面に叩き付けられる直前に目を覚ませばいい。そういう夢を見て、それを俺に教えてくれたらいい。確証はないけれど、きっとそうなれば俺は正しく優しい振る舞いができる。俺は自分が間違っていると思ったことはないが、本当に正しくなれるなら、それはこういう瞬間なのだと感じていた。
     誰にも言えないような薄暗い気持ちで眠りにつく。きっと夢は見ない。そういえば、彼を夢に見た事なんてない。

    ***

     変化は目に見える形になって表れた。レッスン室に現れた鋭心先輩の頭から、ちょこんと寝癖がはみ出ている。
     それを見た俺は何故だかひどく動転してしまい、咄嗟にこれは隠さなければならないものだと直感して呼吸がひっくり返ってしまった。別にたいしたことのない綻びでも、それが鋭心先輩にくっついていると俺の心はどうしようもなくざわついてしまう。カバンからヘアワックスを取り出して、鋭心先輩に駆けよって、有無を言わさずそのまま鏡の前に引き摺っていく。事態が飲み込めていない先輩に「寝癖」と一言呟いて、はねている髪を指で押さえてみせた。鏡越しに自体を事態を理解した先輩はぺたりと腰を下ろして、俺につむじを晒してくれた。
    「珍しいですね。寝不足ですか?」
    「いや……どうやらまた悪夢を見ているらしくてな。目覚めがよくない」
    「悪、夢」
     どきりとした。危ないと思う。危ういと思う。
    「どんな、」
    「いや、相変わらず覚えていない」
     鋭心先輩のために手のひらに伸ばしたヘアワックスで指先がべたべたになっていく。油膜を隔てて、彼に触れた。
    「……うまく言えないが、感情だけが残っているんだ。怖くて、つらい」
     秩序からはみ出した毛束をきゅっと掴んで押さえつける。心臓がばくばく鳴っていた。知った気になっていたけど、本当と想像は違う。悪夢が怖いって本人の口から聞いて、何故か背筋が粟立った。正しくて、凛としていて、正体のハッキリとした人が悪夢でうなされているんなんて、考えただけでも不条理で、どうしようもなくちぐはぐで、あんまりにも倒錯的だ。
    「……子供みたいで気恥ずかしいな。忘れてくれ」
    「別に、恥ずかしいことじゃないでしょ。ほら、悪い夢って人に話すといいって言うし」
     だからもっと話して、とは言えなかった。ただ無言で髪を整えながら、鋭心先輩を『正しい形』に整えていく。
     自分の指で鋭心先輩が正しくなっていくのは気分がよかった。鋭心先輩になにかをしてあげられることって少ないから、こういう貴重なシーンでは、無性に誇らしい気持ちになる。先輩は整えられていく自分自身を見ながら、俺にいつも通りの声で問い掛けてきた。
    「秀は悪夢を見たりするか?」
    「俺ですか? 俺は見ないですね。そもそもあんまり夢って見ないかも」
     意識が少しだけ逸れる。俺はあまり夢を見ない。見たとしても印象に残る夢を全然見ないから、どんな夢を見ているのかもわからない。俺にとっての悪夢ってなんだろう。もしも夢の中で親友が死んだりしたら俺は泣きながら目覚めたりするんだろうか。そんな夢を見たら、俺は鋭心先輩にそれを打ち明けるんだろうか。
    「はい、できましたよ」
    「ありがとう。手間をかけたな」
     手間だなんて、そんな。それに、これは俺がやりたいからやったんです。なんでかわからないんだけど、誰にも見られたくなかったから。ねぇ、ほんと、気をつけてくださいよ。
     実際に口にしたのは「手間だなんて、そんな」の部分だけだったけど、俺は百々人先輩やプロデューサーが鋭心先輩の寝癖を見ていなくてよかったなって思ってた。ぼんやりと理由もわかってて、ああ、よくないなぁって口の中が苦くなる。
     百々人先輩が来てレッスンが始まっても、なんだか喉がずっと熱い。
     俺はきっと鋭心先輩の苦しさに目を奪われていて、そのくせに不思議と辛くも悲しくもない。血を見て、ああ、赤いなぁ、だなんて呑気に考えているような、ガラス越しの不道徳を彼に向けている。
     まっすぐに伸びる歌声とか、凛とした立ち振る舞いだとか、意外とノリのいいところとか、お気に入りの部分はたくさんあったはずだった。でもそういうビー玉に似た宝物にひびが入ったのに、悲しみもせずにその傷に映るきらきらとした反射光に惹かれている。彼が俺の手で傷つくことがないからって、不条理な傷を愛でている。

    ***

     最近、鋭心先輩に悪夢を見たかと問いかける回数が増えた。
     先輩はかなりの頻度で、当たり前に悪夢を見たと言う。内容はいつも覚えていなくって、たまに赤かったとかぐるぐるしていたとか、そういう抽象的なイメージをぽつりと口にしてくれた。
     先輩が悪夢を見ていない日は安心する。優しい気持ちになって、ほっとする。でも悪夢を見たと言われると、なんだかいけない気持ちになる。やましいことなんてひとつもないのに後ろめたくて、妙に甘ったるくて、なんだか心の持て余している部分が慰められるようで手に負えない。
     どうにもならないものが、どうにかなっちゃってる。でもそれは鋭心先輩を決定的に損なうことはできなくて、その一点だけで彼の傷は俺の人間的な欲求を煽ってしまう。
     好きな食べ物とか、思い出の映画とか、直近のテストの点数とか、そういうの、全部どうでもよかった。ただ、先輩がどんな顔をして目覚めるのか、それだけが知りたかった。

    ***

     友人の家に泊まるっていうのは親友としかやったことがなかった。まぁ今回の相手は先輩で、場所もビジネスホテルだからお泊まり会って感じはしないけど。
     別に泊まり込みをするほど翌日が早いだとか遠いだとかはない。ましてや、仲がよいわけでもない。明日は俺たち三人にレッスン以外の予定がないだけの、たんなる日曜日だ。防災訓練みたいなもので、予定のないときに一度体験しておいて慣れておくために、プロデューサーがホテルを取ってくれたのだ。
     ツイン二部屋でいいですか? とプロデューサーに聞かれた時に、俺は咄嗟に三人部屋がいいと答えていた。口に出してから気がついたけど、俺は鋭心先輩の寝顔が見てみたかったんだと思う。あわよくば、彼が悪夢にうなされているところが見てみたかった。決定的な、下心があった。
     プロデューサーはそんなことに気がつくはずもなく、毎回三人部屋が取れるとは限らないと前置きして部屋を確保してくれた。一人はエキストラベッドになるとのことだが、それくらいは問題ない。年功序列ということで、俺がそこで寝ればいい。
     お泊まり会、もとい予行練習でも俺たちはいつも通りだった。俺はよこしまな考えが浮かんだり消えたりしていたけど、百々人先輩や鋭心先輩はいつも通りだった。ホテルの近くのレストランで食事をして、部屋ではダンスの確認が出来ないから少し公園で踊って、お腹が減ったから牛丼を食べてホテルに戻る。そういえば、とテレビをつけたら輝さんが脇役で出演しているドラマは終わってた。
     大浴場で裸の付き合いデビューを果たし、お約束通り牛乳を飲んでから部屋に戻る。あとはそれぞれが宿題だの台本だのSNSだのをチェックしていたら、あっという間に日付が変わる寸前だ。
     それぞれが眠るタイミングを計りかねてるなかで、やはりきっかけになったのは鋭心先輩の声だった。日付が変わるから眠るぞと言う至極真っ当な意見に俺たちふたりは賛同して消灯。百々人先輩の要望で豆電球はつけっぱなしだけれど、俺は別に明るくても暗くても眠れる。鋭心先輩も同じだったようで、真っ先に寝息が聞こえてきた。
    「修学旅行みたい」
     百々人先輩は笑っていたけど、修学旅行ほど話題のネタがあるわけじゃない。それでも愉快なのはなんでだろう。
    「恋バナでもしますか?」
     よく考えなくても、俺はこの人のことも、とっくに寝ちゃった人のことも、なんにも知らないんだよなぁ。
     賞キラーとか、眉見の二世とか、もうそういう距離感じゃいられないんだ。有名生徒会長にはちゃんと中身があって、人間をしていて、こうやって夜中に小さな声で会話をしたりもする。
    「アマミネくんは好きな子とかいるの?」
    「いないですよ。百々人先輩は?」
    「いないよ。マユミくんはいるのかな」
     全然心臓が跳ねないのが不誠実だと思った。毎晩布団の中で一番考えてる人間の好きな人になんて、俺はこれっぽっちも興味がないんだ。
    「いないんじゃないですかね」
     どうだろうね。そう呟いて百々人先輩はあくびをひとつした。寝るね、って呟いて、それっきり。もう時計の針の音しか聞こえない。
     どれくらい経ったんだろう。スマホもつけずにずっとぼんやりとしていた。ぼんやりと鋭心先輩のことを考えて、ピンク色の悪夢をイメージして、同じ部屋で眠る人のことを猛烈に意識する。たっぷりと時間を置いてから、俺は立ち上がる。
     百々人先輩は眠っていた。普段の笑顔とか、愛嬌とか、そういうのがすっぽ抜けた死人みたいな顔がある。百々人先輩がなにかを抱えているんだろうなってのはうっすら感づいていて、俺から見ていてもこの人は傷ついていて、どこかが欠けているように思える。助けるべき、守るべき人間なのではないかと、予感がする。
     それなのに、どうして俺はあんなに大丈夫そうな人の、どうしようもない傷が気になるんだろう。ゆっくり、足音を立てないように動く。鋭心先輩もちゃんと眠っていた。横を向いて、ほんの少しだけ丸くなって眠っている。意外だなって思う。なんだか幼く見える。少しだけ、弱く見える。
     かがんで目線を合わせたら、呼吸の浅さが目についた。前髪が額に散らばっていて眉間にしわが寄っている。たったそれだけなのに、初めてこの人に触れてみたいと思ってしまった。
     頬に触れる。そっとなぞった目尻は濡れていた。水滴が指先にくっついて、滲む。頬も濡らさず、わかりにくく、静かに彼は泣いていた。
     目の前でヒーローの首が跳ね飛ばされたみたいな衝撃だった。でも、どこかで期待していた。俺が一生かかっても見ることの出来ない鮮やかな悪夢に、いまこの人は囚われているんだ。
     こんな感情は間違ってるってわかるんだけど、じゃあ正解ってなんなんだって言われたらお手上げだ。寝癖になるまえの髪の毛を撫でて、投げ出されていた手を握る。誰一人聞いちゃいないのに、うんと優しい声を出した。
    「先輩、大丈夫ですよ」
     なにが大丈夫なんだろう。正論を返してくれる人はどこにもいないから、うわごとのように口にする。
    「大丈夫。大丈夫、に、なれればいいですね」
     先輩はどうして悪夢を見るようになっちゃったんでしょうね。本当に俺たちのせいだとしたら、どうしよう。どうしようも、ないんだけど。
    「大丈夫。俺はここにいます。いる、けど、それは欠片も役に立たなくて、先輩の悪夢は色で満ちていて、そこに俺はいない。もしも夢の中に俺が現れたって、悪い夢は止まらない」
     結局この一点に関してはなんにも大丈夫じゃないくせに、それなのに鋭心先輩はあまりにも『大丈夫』なのだ。大丈夫な人は怖くない。この人は俺に害されることはない。
     明日には忘れてしまう夢で、傷ついた事実だけを残して、誰からも損なわれることなくこの人は存在するんだろう。そんなどうでもいい傷が、どうして心を掴んで離さないんだろう。
    「……おやすみなさい、先輩」
     ベッドに戻って考える。自分が介入しない危うさに、どうしてここまで心が揺れるんだろう。どうせ夢なんて見ないくせに、色彩を望んで目を閉じた。

     やっぱり夢は見なかった。鋭心先輩は夢の内容を覚えてなかったし、きっと自分が泣いていたことにも気がついていない。
     鋭心先輩の知らない鋭心先輩のことを俺が知っている。気分が良かった。そのはずなのに、胸がざわざわして落ち着かなかった。

    ***

     なんてことない日に夢を見た。色彩の鮮やかな、きれいな夢だった。
     俺は水面に立っていた。果てしない水平線の他には何も見つからない場所にいた。足下には海のような深い青が波打っているのに、沈み込んだりはしない。歩くのもバカらしくなるほどなにもない世界だった。ただ、数歩先に鋭心先輩の制服が落ちていて、その周辺には赤い花びらが散っている。
     制服を着て横たわった鋭心先輩の肉体すべてが真っ赤な花弁に変わってしまったかのようだった。ぺちゃんこになった制服と、そこに詰まった花びらを見て、本当に俺は鋭心先輩の夢を見ないんだなぁと感慨深くなる。戯れに拾い上げた花びらは指の熱で溶けて生臭い血になった。
     俺はこういう鮮やかな傷に執着しているんだろうか。きっと、くだらないことだと思うんだよな。好きなとことか、尊敬できるとことか、嫌いなところだってちゃんとあるのに、どうしてこんな痛々しいものに魅せられているんだろう。たとえば百々人先輩と鋭心先輩の二人を天秤にかけたら、その秤はきっちりと平等を示すはずなんだ。でも、百々人先輩が傷ついてたら、俺はこわい。たぶんちょっと泣きたくなって、狼狽えて、必死に手当てするんだと思う。それなのに、鋭心先輩の傷をきれいだと思うのはなんでなんだろう。掬い上げた手のひらいっぱいの花びらは全て血液に変わってしまったけど、変わらずに真っ赤で、美しかった。

    ***

    「鋭心先輩が夢に出てきましたよ」
     別に百々人先輩を避けたわけじゃないけど、百々人先輩がプロデューサーの手伝いについていくまで俺はこのことを黙ってた。
     事務所のソファで向かい合った鋭心先輩はなにやら興味深そうだったので、その出演が制服だけだったと言うべきか迷って、違うことを言う。
    「死体でしたけど」
    「お互い、ろくな夢を見ないな」
     本当は死体じゃなくて血液だったし、ろくな夢どころか美しい夢だった。それでも寝た気がしないのは悪夢と一緒らしくて、俺は返事の代わりに生あくびを返してしまう。
     それを俺がスプラッタな悪夢を見たと勘違いしたのだろう。鋭心先輩は優しく、諭すように言う。
    「少し目を閉じているといい。眠れなくとも、多少は回復する」
    「……じゃあ、お言葉に甘えて」
     優しい言葉に甘えて目を閉じる。ソファに体重を預けて、ぼんやりと考える。
     俺は別に鋭心先輩に苦しんでほしいわけじゃないし、あんな血を流してほしいわけでもない。それなのに彼の悪夢を望んでしまうのはどうしようもない悪徳で、ここにたとえば、うつくしさだとか、愛おしさだとか、そういうものを持ち込むのは反則だ。それでも俺はあの夜に呼吸をか細くして泣いていた鋭心先輩を忘れられないし、その感情をカテゴライズするとしたら笑ってしまうくらいチープなラベリングしかできないことも察している。恐怖ではないから惹かれたのだし、憎悪であるはずもなくて、憐憫は似合わないものだから、そうなるとこれはどうしようもない。
     これが恋なら、恋なんてろくなもんじゃないな。でも16年間の生涯で一番相応しい言葉が『恋』なのだから、どうにもこうにも救いようがないよなぁ。
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