不合理ヒーローショー「例えば世界中の人間が幸せになったとする」
桜庭の言葉は唐突だった。それは桜庭が泥酔しているという事実があったとしても、星の見える夜に雨が降るようだ。
桜庭にまとわりついたアルコールの匂いは普段の彼からは考えられないほど重く、濃い。その理由の大半は俺にあって、原因は目の前の酒瓶だ。頂き物の酒はアルコール度数の高さに反して量が多く、それでいて飲みやすかった。調子に乗ったのは俺で、俺からコップを取り上げて代わりに酒を飲んだのが桜庭だ。桜庭はたまに俺の前で気を抜くものだから、気がついたら男二人でソファーに沈み込んでいた。水を飲もうと立ち上がろうとすれば桜庭は瞼をあけて、唐突に口をひらいて言ったのだ。
前提の言葉だったから続きを待った。桜庭は酒でおぼろげな目をこちらに向けて言った。
「君は、どうするんだ」
どうするって、何をだろう。わからないけど、いまは水を取りに行った方がいい。そう思うのに桜庭から目をそらせず、かといって返事もできずに俺は質問に質問を返す。
「どうするって、何をだよ」
酔いはとうに醒めていた。桜庭はどうだろう。会話の不条理さはそのまま酩酊の深度のような気はするが、その言葉は脈絡のなさに反して真剣だ。
望んだ返答ではなかったのか、それきり桜庭は黙り込んでしまった。やはり、水が必要だ。酒に強い翼はここにいなくて、そういえば、なんで翼はいないんだっけ、ってアルコールから抜け出したばかりの脳で考える。きっと翼には家族がいて、きっと帰りを待たれていた。そんなところだろうか。最近は桜庭と二人でこうして俺の家で酒を飲み交わすことが少なくないので、ちょっと自信がない。
「水を取ってくるから待ってろ。桜庭、かなり酔ってるぞ」
「……そうやって、人を助ける。君はきっと自分が水を飲む前に僕に水を飲ませる」
八つ当たりのような、不満げな声だった。そうしてもう一度聞いてくる。君は、どうするのか、と。
「……そりゃ、喜ぶだろ。不幸な人がいなくなるんだから」
そんな世界がこないことはわかっているけど、夢を見るならそういう未来を望みたい。桜庭も同じ気持ちだと思っていたが、どうやらそうではないらしい。
「僕は困る」
「……なんで」
「君が、正義のヒーローだから」
桜庭が何を言いたいのかさっぱりわからなかった。わかるように言ってくれよ。そう白旗を挙げれば桜庭は自虐的な笑みを浮かべて告げた。
「ヒーローは不幸な人を助ける。ヒーローは悪を裁く。わかるか? 幸せな世界に君の存在意義はない」
その言葉は俺を突き刺したりしない。衝撃よりも、驚きよりも、感心してしまう気持ちが勝った。言いたいことはわかったが、そう言われたら答えはひとつだ。
「俺は喜ぶよ。ヒーローになりたくて救うわけじゃない。救いたいからヒーローになりたい。それだけだ」
「知っている」
言い聞かせるような俺の言葉にもう一度だけ桜庭は笑う。普段の笑みとも、ステージ上で浮かべる笑みとも違う。これは俺にだけ見せる笑みだ。こんな悲しいものが、俺と桜庭にとっての『特別』なのだろうか。
「僕は君が好きで、君の幸福が好きだ。君の幸福は、他人のなかにある」
「……桜庭の口から、好きって言葉が聞けるとは思わなかったぜ」
「酔っているからな」
そう言う桜庭の目は冷たくて、目の前の人間に水を与えようとしていたことを忘れていた。返答なんてしなかったけど桜庭も答えなんて望んでいないようで、ただ酒の匂いのする息を吐いて、うっそりと呟いた。
「僕はヒーローの君を好きになった」
こわい、とも。つらい、とも。桜庭はそういう感情をひとつも口にしない。好きという言葉さえ機械的で、ただ淡々と事実だけを伝えていく。
「人助けをする君が好きだ。君が良い行いをしていると気分がいい。君が悪を許さないとき、なぜだろうな、僕が誇らしい気持ちになる」
理想、と桜庭は口にした。
「君には君であってほしい。……ヒーローでない君なんて、見たくない」
子供みたいなわがままだ。桜庭のわがままは可愛いものだけど、今回ばかりは毛色が違う。それでも、こんな仮定の話に振り回されて、生涯口にすることなんてなかっただろう、好き、という言葉まで吐き出してしまった桜庭は、ひどく愚かで愛おしかった。
「……じゃあ、大丈夫だ」
そっと頭に触れる。普段はそれを振り払ってくる手はぐったりと投げ出されたままだ。
「……世界中の人が幸せになる日なんて、こないからな」
わかってる。だからこの手の届く範囲は助けたい。俺はそういう弁えたヒーローで、たったひとりの人間すら救えなかったこともある。それでも最良を選び続けているつもりだった。それなのに、桜庭はまた、自分勝手に理想を押し付ける。
「それもいやだ」
「は?」
「君が全員を救わないなんて、いやだ」
「……はは、どうしろって言うんだよ」
世界中が幸せになるのは、俺の幸福がなくなるようで嫌。
世界中が幸せにならないのは、理想の俺じゃないから嫌。
桜庭らしくない支離滅裂な発言に困り果てていると、桜庭は悲しそうに呟いた。
「世界中を幸せにしろ」
「言われなくても。それで俺がヒーローじゃなくなっても、俺が死ぬわけじゃないんだ」
静かな静かな癇癪を宥めるように口にする。こんなにもめちゃくちゃを言われているのに、苛ちも嫌悪感もそこにはなかった。
もしかしたら、桜庭はわかっていたのかもしれない。どんなわがままも俺が受け入れてしまうことを。でも、きっと気づいていない。俺が桜庭を、桜庭が思ってるよりもずっと好きだってこと。
「それがお前の好きな俺じゃなくても、仕方ないんだ」
夢を叶えるとフラれるなんて、なんか変な話だ。そもそも絶対に叶うことのない前提が馬鹿げている。それなのに、俺は真剣だった。
「頑張るよ。世界中、幸せにするからさ」
だから、まずは目の前の男をどうにかこうにかしなければならない。いい加減水を持ってこようと立ち上がると、その脛を弱々しい力で蹴られる。
「世界中幸せにしろ。そうしたら、僕は意地でも不幸になってやるから」
「……また妙なことを」
「僕は無理矢理にでも不幸になってやる。ずっと、救うために奔走してみせろ」
君は僕を見捨てない。そう宣言して今度こそ愉快そうに桜庭が笑うから、俺も釣られて笑ってしまう。例えば兄弟に親を取られてしまった子供のように、自分の不幸を振りかざして癇癪を起こす子供のような頬をつまんで、楽しそうな目を見て告げてやった。
「桜庭の隣には俺がいて、翼がいて、みんながいる。不幸になんてなれると思うなよ」
そういう暴力的な身勝手さもヒーローの一部だ。他人を幸せにするということは他人の不幸を奪うということだろう。世の中には不幸が必要な人間もいる。そういう存在にとってみれば、正義のヒーローは厄介者でしかない。
「きっと幸せになるしかないと思うぜ? 桜庭が俺を好きなように、俺だって桜庭が好きなんだからな」
そう、哲学的な問答に流されかけていたけれど、これはどう考えてもハッピーエンドの物語だ。自覚した感情の受け入れ先は完璧な形で存在していて、そこに幸福があるのは揺るぎない。
それなのに。
「は……? なんで僕が君を好きになるんだ……」
「はぁ……? なんでって、言ってただろ!? さっき!」
「言ってない。……頭に響くから大声を出すな。そんなことより、水をくれないか……」
「そんなことってお前……」
どうやら、問答の最中に酔いが醒めてきたらしい。桜庭は一言、水、と呟いて目を閉じてしまった。いそいで水を取って戻ってみれば、当人はすやすやと眠っているから脱力してしまう。
「頭がいいのに、バカなんだな」
頭を撫でる。髪の毛がさらさらとしている。桜庭は目覚めない。俺は桜庭のための水を飲み干した。
「世界中が幸せになんて、なるわけないだろ」
それでもがむしゃらに足掻く姿が、どうしようもない彼のお気に入りらしい。目を潰されても、腕をもがれても、そんなこと言われたらきっと俺は何度でも立ち上がる。
「俺はずっと、桜庭の大好きなヒーローのままだよ」
俺の幸福は他人の中にある。言い当てられた気もするし、何もかも的外れな気もして、喉が渇く。もう返事を聞くことのない哲学のことは一旦忘れて、もうひとつの気がかりを口にした。
「……俺のこと、好きなんだよなぁ……」
桜庭が忘れてしまうなら、一方的に秘密を暴いてしまったようなものだ。桜庭が勝手に言ったことだけど、そもそも泥酔させたのは俺だし。
水をもう一杯飲もう。立ち上がろうとしてもつれた足はなんだか妙に現実的で、この歪んだ夢みたいな時間が明日にどう尾を引くのかを考えて少しだけ笑ってしまった。