共犯関係 ぐちゃぐちゃだった僕の意識がクリアになって、痛みとか、匂いとか、温度で我に返る。
最初に脳裏をよぎったのは、あーあ、やっちゃった、って言う他人事みたいな単語だ。僕を抱きしめたままのマユミくんは僕の頼りない肩に顔を埋めている。現実逃避というよりは、なにかを繋ぎ止めるようにしっかりと、僕を掴んで離さない。
綿毛みたいな、ふわふわした存在じゃないよ。言おうとしてやめた。たまに、ぴぃちゃんじゃなくてマユミくんと一緒に居るときに、どっか飛んでっちゃいたくなるのは本当だから。
マユミくんの部屋は、ここに踏み入れたときみたいな正しさとか、道徳とか、そういうものを失っていた。今日僕たち二人がシアタールームじゃなくてこの部屋を選んだのには理由があって、そのわけを明言できないまま事に及んでしまったのがさっきの話だ。有り体に言えば僕らはセックスをした。それだけなのに僕は限りなく満たされて、たったひとつの物事が終わっただけなのに、ひどく、寂しかった。
感情の水槽があるとしたら、そこに大きなものを沈められたんだと思う。それが存在している間は水槽が満タンになって幸せだったのに、引き抜かれたらそのぶん水位が減って、からっぽ、みたいな。
僕しか求めてなかったら、こんなことしなかった。僕しか知らないことなら、きっと秘密にして終わったと思う。でもマユミくんは僕の想像の外でしっかりと僕を求めていて、僕がこっそり調べたようにはしたない不道徳を身につけていた。まったく、スマホひとつでなんでもわかる時代は怖ろしい。ぼんやり、マユミくんの検索履歴が低俗な単語で汚されていくのはとても憐れで愉快なことだと思案する。僕が思うマユミくんの美徳は正しいことだし僕が気にくわないのもまたこの一点であったから、それは憐れで、愉快なことなのだ。
マユミくんの部屋には何があって何がないんだろう。何があるかもなんて、何が出来るのかなんて気にもせず、ソファじゃなくてベッドの上で僕らは口づける。辿って、分け合って、全部飲み込んじゃう。マユミくんがくだらないことを言う前に、マユミくんと半分こした息を吐く。
「マユミくんが止まれないなら、いいよ」
僕の背中はもうスプリングのしっかりとしたベッドに沈んでいて、マユミくんはほとんど僕に覆い被さっていた。僕の呼吸を阻害していたのはマユミくんの唇だけど、その気になれば彼の手は僕の息の根を止められる。
マユミくんの瞳が揺れる。「百々人は?」と聞かれたから無視をした。返答のない部屋に、耐えかねたような声が満ちる。
「……止まれると言ったら?」
また質問に質問を返してる。らしくないこの言動は僕にだけ与えられたものだ。それでもこの後に及んで僕の言葉を待っているなんて横行際が悪くてとっても無粋だ。マユミくんらしい、とも言える。
「僕は、さみしいかな」
だから好きにして。そう言う前に正しさから逃れた手が僕のネクタイを外して、シャツのボタンを外して、躊躇いなく僕を暴いていく。この時、僕らの利害──いや、そんな言い方はよそう。僕らの気持ちはひとつだった。
たっぷりと焦らされた。いろんなとこを触れて、キスをたくさんしてもらった。僕らは臆病で、心配性で、笑っちゃうくらい不安だったから、準備ってやつをちゃんとしてなかった。だって、そんなことしたら、そんなことを打診したら、何かが終わると思っていたから避けていた。人生、勢いが大切なのだ。
だから苦労した。唾液とか、先走りとか、そういうので何とか慣らして、あとは我慢。痛いとか、苦しいとか、そういうのはよくわかんなかった。脳内に快楽とはまた違う物質が満ちて、僕は限りなく幸福だったのを覚えている。気持ちいいとか悪いとかはビックリするくらい些細なことで、僕は想像よりも強く僕を掴む手とか、どろっどろの欲望に濡れた目とか、追いすがるような声とか、僕を満たす熱とか、そういうものに脳をガンガン揺さぶられてなんにもわかんなくなっていた。熱い、って思ったらマユミくんが全体重を僕に預けてきて、ああ、終わったんだってわかった。
で、終わってみればこの惨状だ。二人分の白濁が散ったシーツと汗だのなんだのに汚れたぐちゃぐちゃの服が『現実』という台本を突きつけてくる。興醒めだ。
だけどそのままでいいわけがない。これは明日にでも洗濯しなければいけないし、こんな洗濯物が僕が泊まった日に生まれたというのは問題だろう。
マユミくん、と名前を呼んだ。マユミくんは同じように僕の名前を呼んで、額にキスをしてからだを離す。熱源が離れて、冷たい。
「……ごめんね、マユミくん」
醒めた頭を満たしたのは後悔だった。謝りたいことはそれなりに多い。シーツを汚してごめんなさい。マユミくんの部屋でしてごめんなさい。セックスして、ごめんなさい。
「百々人は悪いことをしていないだろう」
嫌だったか、とまっすぐに告げる視線になんだか後ろめたくなる。言っちゃおうかなって、そういう気分になっちゃった。粘膜を重ねた相手に、ちょっと甘えとかそういうのがあった。
「……僕の家、誰もいないんだ。誰も帰ってこないから、僕の家でやればよかったな、って」
「……そうか」
マユミくんは僕の手にそっと触れて、僕の言葉を待っていた。
「旅行とかじゃないよ? もう、ずっと帰ってこないんだ。……あ、生活できるお金はもらってるから心配しないでね。僕が言いたいのはそういうことじゃなくて……僕の家なら、汚し放題だったのに、って話」
汚し放題で、洗濯機は回し放題だ。どう考えても、僕の家でするほうが合理的なのに、僕はそれがとても嫌だった。
どうしようもない。一度堰を切った言葉が止まらない。
「だけどね、僕の家にマユミくんを入れたくなかった」
マユミくんは僕の家にきたことがない。それは親の不在を知られたくないからで、ただもうひとつ、僕の胸の奥に絡まるような理由があった。
「……ごめんなさい。ワガママなんだ。……キミを家に招いたら……キミが一度でも僕の家に存在してしまったら……僕はきっと、マユミくんがいない僕の家に、耐えられなくなる」
ごめんなさい。そう吐き出したら言いたいことはなくなった。マユミくんの表情は見れなかったけど、俯いた僕をあたたかい腕が抱きしめる。
「百々人は、悪いことをしていないだろう。だから謝るな」
謝るな。力強い声が告げる。なんか、これだけでいいなって思っちゃったから不思議だ。聞かれたらのらりくらり答えるつもりだったけど、言わなくてもいいやって、そう思った。
しばらくずっとくっついていた。息を吸うとマユミくんの匂いで脳がくらくらする。うっとりして、ちょっとムラムラして、さっきまでのいやらしいことを思い出して、思考は汚れたシーツへと辿り着く。
「……どうしようね」
マユミくんから少しからだを離せば、もう意識を掠めるのは生々しい、性の匂いだ。
「……風呂場で、洗ってくるか……?」
「乾くかなぁ。友達が泊まった夜にいきなり干されてるシーツ……僕の考えすぎ?」
アウトだと思うんだよなあ。マユミくんも同じ考えみたいで、僕らはまた頭を悩ませる。
「明日の朝一、僕の家で洗濯してこようか?」
最良の提案だったと思う。しかし、その言葉にマユミくんは気がついたようにスマホを弄りだした。
「……マユミくん?」
返事の代わりに差し出されたのはチカチカと光る液晶画面で、そこにはこの辺りのマップが映っている。
「コインランドリーに行こう。ここは24時間営業らしい」
徒歩20分。そう告げてマユミくんは立ち上がる。汚れた自分自身を見下ろして、タオルを濡らしてくると宣言して部屋を出て行ってしまった。
「……それが一番いいかなぁ」
僕は自分のスマホに手を伸ばす。午前一時の少し前。完全に条例違反だけど、まぁいいか。
***
僕らを隠す夜にお礼を言いそうになって我に返る。そもそもこんな真夜中じゃなければ、僕らは大手を振って出歩けるのだから。
まぁ精液まみれのシーツを運搬しているわけだから、太陽の下も後ろめたいか。ビニールには包んだけど、いつもはレッスン着とか着替えとかシューズとかが入っているマユミくんのスポーツバッグに情事の痕跡が隠匿されているのはちょっと笑える。この中にはシーツのほかに僕の服も入っているので、僕はマユミくんの服を借りていた。彼の持っている服の中ではダボダボのものを選んだつもりだが、マユミくんはあまりオーバーサイズの服を着ないらしい。僕はぶかぶかの服をよく着るから、なんだか落ち着かない。
会話は終始、僕を気遣うマユミくんの声で構成されていた。単純に僕は何を話していいのかわからなかったし、喉も少し痛かったから黙ってた。
「……からだは痛くないか?」
痛いよ。素直にそう言えばマユミくんは眉を下げるから僕は笑う。
「痛いけど、幸せだよ」
僕の言葉にマユミくんは少し微笑むが、すぐにまたしょんぼりとした表情になってしまった。
「……どうしたの? マユミくん」
なんか、シェパードがチャウチャウになったみたい。僕の冗談にマユミくんは一言、無理をするなとそう告げた。
「……無理って? 僕が無理に会話してるって思うの?」
「そういうことじゃない……ただ、百々人の声が掠れてるから」
ああ、そういうことか。メンタルとかじゃなくて物理的にね。確かに喉も痛かった。でも、こっちはちょっと気恥ずかしい。これだけ喉がかれてるってことは、僕は相当大きな声を出してたってこと、のような気がしてる。マユミくんの部屋はシアタールームじゃないけど、防音ってどうなんだろう。
「コンビニに寄るか? のど飴とか……」
「大丈夫だよ。……補導されてもおかしくないんだから、ランドリーだけ行って、ちゃっちゃと帰ろう」
そう歩を早める僕の手をマユミくんが握る。きっと縋っているわけじゃない。彼の手は不安を伝えるためじゃなくて、いつも誰かの不安を取り除くためにあったから。
これはつまり僕が心配されてるってこと。
「僕たち……悪いこと、してる」
気がつく。僕はいま、街灯の光にすら後ろめたさを感じている。
「していない。……俺たちは愛し合っただけだ」
「条例違反だよ。いま、真夜中なんだから」
さっと手を振り解いて僕は一歩先を歩く。曲がり角で、立ち止まる。道を知っているのは、マユミくんだけだったから。
***
コインランドリーは趣があった。貫禄もある。もっと簡単に言えば寂れてる。
四角くて大きな洗濯機が壁一面に並んでいて、ドラム式って言うのかな、家の洗濯機と違って側面に洗濯物を入れる場所があった。なんだか目みたいなそれがびっしりと並んでいるものだから、ちょっと怖くて僕は夜を意識する。
安っぽい蛍光灯が簡素な机と固そうな椅子を照らしていた。洗濯機の並びを縫って、ひとつだけ小さな本棚がある。そこには古びた漫画雑誌が居候のようにのさばっていて、チカチカとした明かりに照らされる日を待っている。
「……両替機はどこだ」
僕がぼんやりとしている間にマユミくんは洗濯物を放り込んで部屋をきょろきょろと見回していた。シーツたちが収められた洗濯機を見ると、硬貨の投入口がある。ここにお金をいれるんだなって思った時には、もうマユミくんが両替を終えて隣に立っていた。
一枚、二枚、三枚、百円玉が吸い込まれていく。ちか、と点ったランプに従ってスイッチをいれれば、大げさな音を響かせて洗濯機は動き出した。
「百々人、座ったらどうだ?」
まだ彼は僕のからだを気遣っているらしい。年期の入った椅子を気にかけるマユミくんに従うように、僕は漫画雑誌を数冊手にして近寄った。
テーブルに雑誌を積み上げて椅子に座る。真向かいじゃなくて、隣にマユミくんが座る。
「……こういう週刊誌ってさ、途中からだとどこから入っていいかわからないよね」
どの漫画も途中だから、そこに至るまでの物語を知らない僕には手が出せない。だから読む気も起きなくて、戯れに雑誌を並べて僕は問い掛ける。
「表紙のアイドル、誰が一番かわいいと思う?」
「……言ったら妬くか?」
「僕が妬くとしたら、言わない?」
「妬くのなら言う。僕が一番だろうと、問い詰めてくれるなら」
望んでくれ、と一言マユミくんは呟いた。でもね、それは難しいんだよ。一番を望むのって、僕にはちょっとハードルが高い。
「……マユミくんは妬く?」
「ん?」
「そうだなぁ。僕はこの子が好みかな」
「……俺に似ていない」
「あはは。それはそうだよ。柔らかそうだから選んだだけだし」
別に、こんな子好きでもなんでもないよ。言う前に僕の呼吸は近づいた唇に飲み込まれた。外でこんなに情熱的なキスをするなんてマユミくんらしくない。真夜中の、ちょっと日常とは離れた場所に高揚しているのだろうか。
唇が離れる。一気に息が熱くなっちゃって、僕のだかマユミくんのだかわからない唾液でてらてらと光る唇に欲情しそうになった。ああ、きっと悪いことをしてる。思ったこと、そのまま口にした。
「……やっぱり、悪いことしてる」
「……していない」
僕はどうしても後ろめたくて、マユミくんは頑なだ。ゴウン、ゴウンという音が脳内をざらざらと擦って、夜と手を組んで判断力を奪っていく。
「……証拠隠滅」
視線で洗濯機を指す。事件の痕跡が丁寧に落とされて、なかったことになるのを僕らはリアルタイムで見ている。
「僕ら、共犯だ。奪ったお金を分けたり、一緒に死体を埋めたり、そういうのに似てるかも。ねぇ、僕らはもっと仲良くなれそうじゃない?」
同じ秘密を共有するのは仲良くなる一番手っ取り早い手段だ。付き合っていることは内緒。キスしているのも内緒。こうやってどんどん秘密は増えて、膨らんで、手に負えなくなって、僕らを離れられなくするんだ。
「悪いことはしていない。間違ったこともしていない」
頑固なマユミくん。僕らにはきっとこういう一生わかりあえないものがある。
「悪いことじゃないなら、間違いじゃないなら……なんでこうやって、消さなきゃいけないのかな」
わかってる。そんなの誰に聞いたってわかりっこないことをわかってる。こんなの暗黙の了解でいいはずなのに、マユミくんは律儀に謝罪した。
「すまない」
なにに対しての「すまない」なんだろう。でも、そんなことを聞くほど野暮じゃない。そんなことを聞くほど、子供じゃない。
「……今度は僕の家でしよっか。なんだかね、繋がった今なら……マユミくんを家にいれても大丈夫な気がするんだ」
きっと寂しくなることはわかってる。僕はマユミくんのいない部屋にため息を吐いて、マユミくんの欠片を探して、諦めたようにシーツを洗濯するんだろう。それでもなんとかなる気がした。ふたりだった時間があれば、ひとりでも大丈夫だと言える気がした。
「大丈夫。ううん、来てほしいな。僕の家に」
不在は存在したことの証明だ。一度思い切り傷ついてみたい。その圧倒的な存在で、僕のくだらない部屋を荒らしてみせて。マユミくんへの願いはいつだって、少しだけ破滅願望が滲んでしまう。
「……もしも俺の不在に耐えきれなくなったら……いや、少しでも悲しくなったら呼んでくれ。すぐに行く。何度でも、いつだって」
それなのにマユミくんはいつでも傷を塞ぎに来るという。電車で、バスで、タクシーで、スーパーマンみたいに駆けつけると。
「……僕の家、なんにもないけどいいかな?」
「百々人が居る。十分だ」
「なんにもないから、えっちなことくらいしかすることないかも」
「……もし、シーツを汚したら」
どうしようもなく悲しい夢を見た子供のように、マユミくんの指先が僕の手に触れた。
「俺が帰ったあと、ひとりで洗濯させたりしない。そんな悲しいことはさせない」
イメージする。なかったことになるひとつの証明をふたりで見守る朝を。消した先から何も間違っていないと、口付けを交わすからっぽな家を。
「一緒に証拠隠滅、してくれるの?」
「ああ」
共犯だからな。そうマユミくんは呟いた。
いつのまにか洗濯機の音は止んでいる。太陽とは違うあたたかい匂いが満ちていて、シーツはきっとぴかぴかになっちゃって、それを惜しむように僕らはもう一度キスをした。