いいこでいたいの 鋭心先輩に穴が空いた。それも、ふたつ。
ひとつは俺の記憶に、ひとつは百々人先輩の記憶に繋がっていたものだから、鋭心先輩からは俺たちの記憶がさらさらと流れ出してしまう。カップケーキに乗った銀色の玉のようなそれは必死に集めようとしても触れた瞬間に溶けてしまうから、拾い集めて戻すことも叶わない。
さて、どうしたものか。数日の後、プロデューサーがちょうど穴を塞げそうなパーツを持ってきた。珍しいものだからひとつしかないと、申し訳なさそうに告げて手のひらを広げてみせる。
探せばまだどこかにあるかもしれません。プロデューサーは希望的観測を口にしたあと、俺と百々人先輩を交互に見て黙ってしまった。気持ちはわかる。当事者は俺と百々人先輩だから。
俺は、俺のことを忘れないほうがいいんじゃないかと思う。だって、連絡とかの取りまとめは主に俺がやるし。それでもそう言い出せなかったのは単純に、それは鋭心先輩の中から百々人先輩が消えていい理由にはならないからだ。それなのに、百々人先輩は柔らかく口にする。
「アマミネくんに繋がってる穴を塞いで」
「……百々人先輩はそれでいいんですか?」
「うん。だってそっちのほうがいいと思うから」
そう言われると否定も肯定もできない。ただ、百々人先輩の意志を尊重するしかないだろう。
鋭心先輩に似合わない鈍色のパーツを穴に押し込んだ。カチリという音がして、それはきれいに収まって穴をしっかりと塞いでくれた。
なので、毎日百々人先輩は鋭心先輩と「はじめまして」をする。
一緒にいる間は忘れない。でも一緒にいなければどんどん忘れていって、一晩寝たらからっぽだ。鋭心先輩はしっかりしているから必要なことはノートにまとめて『花園百々人』をなんとか捕まえようとしているが、百聞は一見に如かず、やはり実物とメモ書きは違うのだ。
百々人先輩はいつもの人懐こい笑顔を浮かべて、今日も鋭心先輩に笑いかける。
「はじめまして、マユミくん。よろしくね」
レッスン室に向かう途中、鋭心先輩とすれ違う。俺はちょっと遅れてきて、鋭心先輩は用事で早く帰るそうだ。入れ違いになった鋭心先輩のほうを見送れば、床には銀色の痕跡が散らばっていた。
レッスン室には百々人先輩がいて、なんだかひどくぼんやりとしている。きっと、さっきも同じように「はじめまして」をしていたんだろう。
百々人先輩は俺に気がついたらふにゃりと笑った。そこから二言、三言と言葉を交わす。ふと百々人先輩があまりにも愛おしそうに「マユミくん」の話を出すから、俺は言葉を遮って思っていたことを伝えてしまう。
「ねぇ百々人先輩。アンタ、やっぱり鋭心先輩のこと……」
「あのねアマミネくん。いま僕、すっごい気が楽なんだ」
「え……?」
話を遮った俺の声を遮る、安堵に満ちた声色が流れていく。俺は散らばった銀色の製菓材料を思い出す。
「僕は取り繕うのがうまいから、初対面の印象って抜群にいいの」
そんなことないって言ってやればよかった。アンタ、わりと最初からちょっとよくわからなくて怖かったよ、って。
「マユミくんは毎日僕を忘れるから、僕がこんなどうしようもないやつだってバレる前に、全部リセットされる。もう僕はね、マユミくんに嫌われる心配をしなくていいの」
僕は絶対にマユミくんに見捨てられることがない。そう言って彼は無邪気に笑う。
「だから、気が楽」
きっと真実なんだろう。でも、楽なことと幸せなことはイコールではないはずだ。
「……それ以上の関係になれないんですよ」
「……それ以下の関係にならないんだ。良いことだよ」
それにね、と百々人先輩は口を開く。名前のわからない宝石みたいな瞳が、とろんと瞬いた。
「毎回マユミくんが見せる、今生の別れみたいな顔──結構面白いよ」
まるで愛されてるみたい。百々人先輩はそう呟いて目を伏せた。きっとこの人は恋をしている。直感的に、そう思った。