ももいろドロップ 頼れる人間を考えたとき、真っ先に浮かんだのは秀の顔だ。一寸遅れてプロデューサーのことも考えたがすぐに考えを打ち消した。結局は誰を選ぼうが変わらないのだが、俺には少しの後ろめたさがあったから秀を選んだのかもしれない。そんなことをぼんやりと考えながら、スマホを取り出して秀に電話をかけた。
コール音がなる。一度、二度、三度。
『はい、もしもし』
「もしもし。秀か? 俺だ、鋭心だ。いま大丈夫だろうか」
『平気ですよ。どうかしましたか?』
「頼みたいことがある。駅に向かえるか?」
『大丈夫ですよ』
よかった。秀がダメだったらプロデューサーや連絡先を交換した事務所の誰かに頼むことになる。思ったよりも自分が安心したことに気がついて、やはり自分にはやましい気持ちがあったのだと知る。
「それなら、百々人を迎えに行ってくれないか? 百々人はいま事務所までの道がわからないんだ。……俺が行けたらよかったんだが」
『……え? いや、百々人先輩は道知ってますよ』
何回百々人先輩が事務所に来たと思ってるんですか。半ば呆れたような声に、一瞬息が詰まる。なんだか責められている気持ちがあった。どうしようもなく、後ろめたい。
「……忘れているんだ。俺が間違えて、そこの記憶も食べたから」
「……は?」
「俺は記憶を喰うんだ。では、頼んだぞ」
秀が何かを言いかけたが通話を切った。俺も用事を済ませて事務所に向かわなければならない。早く、この会話を、秀の記憶を喰わなければ。
***
「相談がある」
鋭心先輩は俺にだけそう言った。わざわざ百々人先輩がいない時を狙ってだ。
「俺に、ですか?」
「そうだ」
「……俺にだけ、ですか?」
「そうだ」
そう言われ、俺は鋭心先輩の家へと招かれた。相談をするのは事務所の屋上でも、ファストフード店でも、俺の家でもダメらしく、俺は家具と言うよりも調度品と言った方が相応しい椅子に腰掛けて、出された果物にフォークを突き刺している。
「……で、相談ってなんですか?」
誰にも聞かれるわけにはいかない会話なのだろう。少し、緊張して喉が渇く。誤魔化すようにぱくりと食べた桃は食べたことのないくらい甘くてみずみずしい。
「少し突拍子もない話になるが聞いてくれ。まず前提なんだが……俺は記憶や、それに付随する心を食べる」
「……はぁ」
ドッキリだろうか。だから会場が指定されていたのだろうか。俺は天才だけど、まだ芸能界のルールというものが捉えきれていないので動揺した。この場合、どう振る舞うのが正解なんだろう。
「ドッキリではない」
心を読んだように鋭心先輩は言う。きっと誰もが思うことだから当てられたことに衝撃はないが、この人はたとえドッキリでも嘘を吐くとは思えない。
「……胸ポケットを見てみろ」
「え?」
突然の指示に脳が止まり、ただ命令を受けた指先が胸ポケットを探る。すると、そこから出てきたのは一枚の紙だった。
「えっと……これ、俺の字……ですよね?」
書いた覚えのないメモだ。だけどそこには俺の字で、『鋭心先輩は記憶を食べる。ドッキリではない。天峰秀』と書いてある。
「覚えがないだろう。その記憶は俺が食べた」
「……マジですか」
「俺の話を信じているだろう。秀がこうすれば『俺なら、これで信じる』と言ったんだ。……そこの記憶も食べたから、覚えてはいないと思うが」
「……なんというか、ありえない話なんですけど、納得しかけてます……」
筆跡は完璧に俺のもので、紙は俺の胸ポケットから出てきている。どうにかすればレッスン中に紙を入れられたかもしれないが少なくとも俺の服に誰かが触れた記憶は無いし、なによりここまで大がかりなことをして、こんな信憑性もないことを言うメリットは少ないように思えた。
「……ちょっと信じがたいので、仮として、って感じでいいですか?」
このおとぎ話が前提の悩みとはなんなのだろう。妥協案を提示すれば、鋭心先輩はあっさりとそれを承諾した。
「構わない。……本題に入る」
雰囲気が変わる。もともと背筋の伸びている人だから目に見えた変化は少ないが、わずかに表情がこわばった気がした。
「……百々人が、俺を好きになるんだ」
「……は?」
惚気、だろうか。
「それも、何度も」
「ちょっと待ってください、話が全然見えないんですけど」
む、と鋭心先輩が視線をあげて俺を見る。俺は初めて、鋭心先輩が視線を下げていたことに気がつく。
「えっと、百々人先輩は鋭心先輩を好きなんですね?」
「違う。いまは好きではない。……ただ、きっとまた百々人は俺を好きになる」
また、という言い方が引っかかった。確証のないまま、俺はもう一枚くらい入っていないかとポケットを探る。
「……また、って。なんなんですか?」
鋭心先輩は記憶やそれに付随する心を喰う。
「もう六回も百々人は俺を好きになっている。そのたびに俺は、俺のことを好きだという記憶を喰っているんだ」
「……それが、相談ですか」
「ああ。俺はどうしたらいいのかわからない」
言葉が返せなかった。俺の与り知らぬ所で百々人先輩は鋭心先輩を好きになっていたんだ。しかも、六度。そして、そのたびに鋭心先輩はその恋心を食べている。
「……どうして?」
なぜ、食べてしまうんですか。口に出せなかった言葉の意味は正しく伝わったのだろうか。
「……違うな。俺は、何をすべきかはわかっているんだ。ただ、……苦しいと、聞いてほしかったのかも知れないな」
鋭心先輩が自嘲気味な笑みを浮かべる。最近はふわりと笑うことも増えたが、まだまだ鋭心先輩の笑顔はレアなんだ。それをこんな、寂しい笑みで埋めないでほしい。
「……結局、相談じゃないんですね。何をすべきだとわかっているんですか?」
思いの外、冷たい声が出た。苦しいと言った彼に寄り添う気持ちよりも、勝手に結論を出している先輩に子供のようにイラついていたんだろう。
「俺は百々人の記憶を喰う。これからもずっとだ。……それが、やるべきことだろう」
「……それが、苦しいんでしょう? だったら、なんで」
こういうの、嫌いだ。苦しいのに限界まで笑って、壊れるか、壊すかって選択肢しか残さないやつ。アイツは壊れる前に俺の手を離したけど、鋭心先輩はきっとボロボロのまま、壊れたことにも気づかないで突っ立っているタイプの人間だ。
百々人先輩が好きなら受け入れれば良い。付き合う気が無いなら、食べてなかったことにするか、断ればいい。どう考えても主導権を握っているのは鋭心先輩だ。なにより、鋭心先輩は人の大事な『心』を、もう六度も食べている。
何が苦しいのか、口にする前に鋭心先輩がぽつりと口にした。
「百々人が、泣くから」
「……え?」
「百々人が泣くんだ。俺を好きだと言って笑う。好きになってごめん、と笑う。そうして……どうしよう、と泣くんだ」
六度、と呟いて鋭心先輩はひとつ呼吸をした。溜息にも満たないそれは震えていた。
「……理由は、わかっているんですか?」
「聞いた。百々人は打ち明けたことも忘れているがな」
ぽつ、ぽつ、壊れたシャワーのように鋭心先輩は話し始める。
「好きでどうしようもないと。言わずにはいられなかったと。……だが、それではアイドル活動に支障が出ると吐き出して、追い詰められたように、泣いた」
泣くつもりはないと言うように泣いた。迷子の子猫を見つけてしまったときのような、途方に暮れた声で鋭心先輩は声を出す。
「……『ぴぃちゃん』のために、ですか」
「……百々人が芸能活動に固執していることは知っているつもりだ。百々人の一番は……よりどころは俺ではない。だから、食べた」
「……それで終わりのはずだった。ですよね?」
「そうだ。でも、百々人は俺を好きになる。何度も、何度も」
鋭心先輩は悲しそうな目をしている。でも、その影に慈しみのような優しさが見えた。匙加減ひとつでどうとでもできる、力を持った人間の慈しみだ。
「……すまない、結論は出ていたな。たんなる弱音だ。……気晴らしに映画でも見ていくか?」
そう言って立ち上がりかけた先輩を睨み付ける。
「……俺の記憶、食べるつもりですか?」
「覚えている必要はないだろう」
「勝手に完結しないでください。まだ話は終わってません」
行儀は悪いが、フォークを鋭心先輩の方に向けた。俺の記憶を消すつもりなら、攻撃も辞さないという意思表示だ。
「鋭心先輩は百々人先輩のことをどう思ってるんですか?」
瞬間、若草色の瞳が揺らいだ。鋭心先輩は息を吐いて、口元に手を当てて絞り出すように言葉を紡ぐ。
「…………わからないんだ」
「六度、告白をされても?」
「……情けないことに、わからない。俺は自分自身のことを、何も知らない」
脳内にいくつかの単語が浮かぶ。『最強の生徒会長』『眉見の二世』『ユニットメンバー』『百々人先輩の好きな人』。そのどれもがこの人に取って、本質ではない。
「……秀は、俺が人間だと思うか?」
「……え?」
答えに詰まった。俺はきっと、鋭心先輩を悲しませた。何も変わらない口調で話し出した鋭心先輩だけど、きっと傷つけた。
「俺は人間だ。そのつもりで生きてきた。そう育てられたし、百々人に告白されるまで記憶を喰ったことはない」
「……鋭心先輩は人間でしょう」
数秒遅れて、いまさらのように俺は訴える。先輩の言葉は、俺への返答にも、独り言にも聞こえた。
「人間の定義とはなんだろうな。こんな力を持っている存在を人だと言えるか? いままで記憶を喰ったことはなかったが、そういう手段を常に手のひらに隠して生きてきた。なにかがあっても、完全にどうにかできる手段を持って生きていた存在だ。……それは人間から逸脱していないか?」
「それは……」
「俺は、人なのか?」
声色は平坦だ。訴える力も、責め立てる労力も、媚びる甘さもない。
でも、間違えてはいけないことだけはわかったから、口にする。
「人間です。鋭心先輩は、人間ですよ」
「……すまない。話が逸れたな……忘れてくれ」
「忘れさせることができるんでしょう? でもきっと、鋭心先輩は何度も『忘れてくれ』って言ったはずです。……それじゃ、ダメなんですか?」
「だが、俺は百々人の記憶を喰った」
「だからアンタは苦しんでる」
しばらく沈黙が肺に満ちる。俺は桃を囓ってから、もう一度口を開く。
「記憶を喰うとか喰わないとか、そういう話じゃないでしょう。告白されたら受けるか断るかです。じゃないとどっちも前に進めないと思います」
頭を整理する。これは単純な恋バナだ。ここにいるのは自分の気持ちがわからないだけの、ただの人間だ。
「鋭心先輩は手段を持っているからこんなことになるんです。自分の気持ちがわからないなら素直にそう言って、待っててもらえばいいじゃないですか」
「……手段を持っているなら使うだろう。告白を受けても断っても、百々人は困る。俺は百々人を困らせたくない」
「だったら手の内を晒して話し合えばいい。百々人先輩の苦しみは百々人先輩のものでしょう? それは鋭心先輩が背負うものじゃない……奪っていいものじゃない」
アンタはちょっと変わってるだけの、たんなる人間だ。
「奪う前に、話し合ってください。抱えていたいのか、手放してしまいたいのかを。……俺に相談しても、もう何にも出てきませんよ」
言葉を吐ききって、俺は最後の桃を食べた。鋭心先輩はしばらくぼんやりとしていたが、意を決したように立ち上がった。
「……七度目があったら百々人と話し合う。……礼を言う。ひとりではこんな風に思えなかった」
送っていく、と鋭心先輩が言うから俺も立ち上がる。おじゃましました、と言って玄関に向かう鋭心先輩についていった。
広い家だから玄関までの距離がある。鋭心先輩が始めた桃の話に適当に相づちを打って──突然振り向いて手を伸ばしてきた鋭心先輩に思い切り体当たりした。
「っ……!」
「そんなことだろうと思いましたよ。俺の記憶、食べる気でしょう」
しりもちをついた先輩に跨がるようにして体勢を固定する。鋭心先輩がどうやって記憶を食べるのかわからない以上あまり近寄るのは得策ではないが、いまはそれよりも優先したいことがあった。俺は怒ってるって、伝えたかった。
「アンタ、一回記憶を食べたからって諦めすぎなんですよ」
「……なにを」
「人間でいることをですよ」
諦めたような翡翠の双眸を睨み付ける。眉見鋭心が死ぬとしたら、きっとこういうシーンなんだ。
「ねぇ、鋭心先輩はきっと優しすぎるんです。手段があったら人の為に使わずにはいられない」
「俺はそんなたいそうな人間ではない」
「俺の目には、優しい人に見えます」
記憶とはどんな味なんだろう。このやりとりを喰らうとしたら、きっと俺の記憶は苦くて食べれたものじゃないはずだ。
「……なら、これは優しさだ。俺は秀の記憶を喰う」
「俺が忘れたら、アンタの悲しみは誰が覚えてるんだよ!?」
広い廊下は俺の怒鳴り声を呆気なく吸い込んで、静けさを取り戻す。なんだか、俺が泣いてしまいそうだった。
「……いなくならないでください」
ぎゅ、と詰まった喉の奥から声を絞り出した。耐えきれなくなって俺は鋭心先輩の胸元に額をくっつける。俺と変わらない、人間の体温が伝わってきた。
「……俺はここにいる。俺はアイドルで、お前のユニットメンバーだ。結果が出るまでいなくなることはない」
「記憶を喰われたら、俺の中の鋭心先輩が消えるんです。ようやく弱みを見せた、あの、寂しい顔をした鋭心先輩が」
消えないで。消さないで。
結局鋭心先輩が本気を出したら、俺なんか呆気なく組み伏せられて記憶を喰われて、喰われたことすら忘れて生きてしまうんだろう。だから結局こんな命乞いみたいな真似でしか、俺は俺の中の鋭心先輩を守れない。
「……食べない」
「誓って」
「信用されてないな……約束する。今後、秀の記憶は絶対に食べない」
秀の記憶は、と言った。この人は嘘を吐かない。
「百々人先輩の記憶は?」
「それをどうするかを話し合う。全部打ち明けて、二人で決める」
ぽんぽんと鋭心先輩が背中を叩いてくれた。これは記憶を喰うとか喰わないとかの話じゃなくて、純粋にこの男の優しさだ。
「……それがいいと思いますよ。どうにもならなくなったら、また相談してください」
鋭心先輩から離れて立ち上がる。すっと体温が離れて、人間の証明が霧散する。
「先輩の悩みも、苦しみも、絶対に覚えていますから」
鋭心先輩に手を差し伸べる。先輩は俺の手を取って、ありがとう、と呟いた。
***
「相談がある」
鋭心先輩は俺にだけそう言った。わざわざ百々人先輩がいない時を狙ってだ。
「俺に、ですか?」
「そうだ」
「……俺にだけ、ですか?」
「そうだ」
俺はちゃんとこのやりとりを覚えている。あの日の鋭心先輩の体温も、苦しみも全部覚えている。
「百々人と話し合った。……俺は七度目の恋を食べた」
す、っと体が冷えた。浅くなった呼吸を取り繕うように声を出す。
「……話し合った結果、ですよね?」
「信用がないな……そうだ。俺たちはちゃんと話し合った」
「よかった。一方的に食べるのと、ちゃんと説明するのは違いますからね」
話を聞くに、やるべきことは変わらないらしい。鋭心先輩は記憶を食べる。鋭心先輩が記憶を食べることも、百々人先輩が鋭心先輩を好きなことも──二人が話し合ったことも、全部。
「……話し合った記憶も、食べたんですね」
「ああ、百々人がそう望んだんだ」
百々人先輩が望んだというのはなんだか腑に落ちた。あの人はたぶん、俺たちよりも余裕がない。きっとたくさんは抱えることができない。俺は少し寂しかったけど、それは聡明な判断だとわかっていた。
「……百々人先輩が自分から食べてくれと言ったなら、それでいいと思いますよ」
わからないけど。なんて、口には出さないけど。
「俺が自分の気持ちに気がつくまで、記憶を食べて続けてくれと言われた。ただ……」
「……ただ?」
そんなに困ったように笑わないでほしいのに、鋭心先輩の貴重な笑顔はまた浪費された。
「101回目の告白までに、返事を決めてくれと言われた」
「それは……ロマンチックですね。いいじゃないですか」
そんな歌かドラマがあった気がする。どっちですっけ、と問えば、映画ではないはずだと返された。
ふ、と鋭心先輩が呼吸を止める。鋭心先輩の視線がそっと伏せられて、重たく唇が動いた。
「百々人は、101回も泣くんだな」
そうだ。百々人先輩は何度も泣く。そのたびに鋭心先輩はその涙を拭うこともなく、彼の恋を喰らう。
「いいと思います。二人で決めたことなんだから」
きっともう鋭心先輩は俺に相談することはないんだろう。鋭心先輩は律儀に涙を数え、恋を飲み込んで、自分の気持ちを探し続ける。
「……それに、案外鋭心先輩がもっと早く自分の気持ちに気がつくかもしれないですよ」
そうなってほしい。切に願う。寝癖なら何度でも俺が教えられるけど、こればっかりは天才にもどうにもできない。
「……努力する。百々人にとって、何が最善かを、」
「二人にとって、ですよ」
本当に、この人は大概だ。まぁ、大概と言ったら百々人先輩も大概だ。強くて弱い人と、弱くて強い人。俺から見たらお似合いだけど、それだけじゃうまくはいかないんだろう。
一息ついて、出されたフルーツに手を伸ばす。今日出されたのはさくらんぼだった。これも俺がいままで食べたさくらんぼのなかで一番おいしい。
ふと思う。記憶に味はあるのだろうか。恋する心は、どんな味がするんだろうか。