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    85_yako_p

    カプ入り乱れの雑多です。
    昔の話は解釈違いも記念にあげてます。
    作品全部に捏造があると思ってください。

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    85_yako_p

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    秀百々が海に行きます。夢の中の話だけど流血描写あり。(2022/02/06)

    ##秀百

    海とイルカの作り方。 夢を見ていた。夢だとわかる夢だった。指一本、言葉ひとつままならないなかでこの美しいものをただ享受できる、そういう安寧をさざなみが連れてくるような、そういう類の夢だった。
     海岸を歩いている。視線を右に向けると見える景色は夢らしく真っ白に断絶された空間だった。そうして左足を見つめると、寄せては返す穏やかな波がローファーにはじかれながら、履いた覚えのない真っ白な靴下を濡らそうと笑っている。
     制服の裾が海風でなびく。遠くの水平線が、飴玉みたいな太陽を匿っている。朝のようで、昼のようで、時から切り離されたような時間だった。俺はこれを表す言葉を知らないけれど、夕暮れでも夜でもないことはわかる。
     ふと見ると、手ではなく声が届く距離に百々人先輩がいた。しゃがんで、指先で何かを弄びながらそれを海に浸している。見慣れたパーカーの袖が水面に触れないか、それがやたらと気になった。
    「百々人先輩」
     夢の中の俺は彼に声をかけ、近寄る。百々人先輩は視線をあげると、なぜだか一言、「ありがとう」と零してうっすらと笑った。
     百々人先輩の足下に何かが散らばっている。秘密を隠すように、少しだけ砂に埋もれている。それでも存在は明確で、俺はそれきりなにも言わなくなってしまった百々人先輩から視線を移して、意識を向けた。
     それは絵の具だった。美術の時間に使うような水彩絵の具だ。きっとわかる人には違いがわかるんだろうけど、俺から見たら全部が同じ青に見える印をひとつだけつけて、まとった砂粒の力できらきらと瞬いていた。
     視線を戻す。百々人先輩が持っていたのは筆だった。青い絵の具のついた筆で、その色を海に溶かすようにしてぴちゃぴちゃと遊んでいる。よく見ると百々人先輩がいる周辺だけ海の水は透明で、それを海と呼ぶのはためらわれた。水晶の中身のような液体が青に色づいて、じわじわと広がって、海になっていた。
     きれいだと、そう伝えたかった。口を開く寸前、ぽた、という水滴の音を聞く。
     百々人先輩の首から、血液が流れていた。
    「百々人先輩」
     驚くほど薄情な声が彼を呼ぶ。彼は立ち上がりかけたが、瞬間、ばしゃ、とプールに飛び込んだときのような音がして、百々人先輩の首元が一気に裂けて、おびただしい量の血液が噴き出した。他人事のように、俺はズボンに付着した赤黒い液体を意識する。
     引き延ばされた時間が終わったかのように、百々人先輩のからだ──亡骸、なのだろうか──がぐらりと揺らいで上半身が海になりきれなかった透明な水面に落下した。そうして、いままでのように青く染められるはずだった水はじわじわと、真っ赤に染まっていく。
     変化を、ただ見ていた。海の青が茜色に染まって、それが太陽に辿り着いてオレンジに灯る。青に侵されることのなかった陽光が、オレンジジュースとトマトジュースを混ぜたような色になった。
    「……夕方だ」
     俺の関与することのできない俺が呟く。目の前に広がる海は夕暮れの海だった。朝日では持ち得ない穏やかな熱量で、俺と百々人先輩を柔らかく染めていく。
    「百々人先輩、もうこんな時間ですよ。帰りましょう。ね?」
     なんだか、聞き分けのない子供に言い聞かせるような声色だった。百々人先輩は何も言わず、その赤にも青にもなりきれない紫陽花を希釈したような瞳をただ開いている。
    「帰っちゃいますよ? いいんですか?」
     卑怯な物言いだ。つれない表情だ。ダメだと思うのに、あろうことか俺は百々人先輩に背を向けて歩き出す。
     嫌だと言えたら、俺は俺を止められたのだろうか。視点はいつの間にか変わっていて、俺はどうしようもない俺と倒れた百々人先輩を交互に見ていた。薄情で、軽薄で、夢だとわかるような、ただ美しいだけの夢だった。

    ***

     夢で見た俺そのもののような、見慣れた、素っ気ない天井が、朝日に滲んでぼんやりとした部屋の空気に佇んでいる。夢だ、と一言呟いて、俺はカーテンを勢い良くあけた。
     あんな夢を見た理由はわからないけれど、百々人先輩が夢にあらわれた理由はなんとなしに想像がつく。きっと、昨日百々人先輩から来たトークのせいだ。スマホをつけてトークを遡る。少し指でなぞるだけで、百々人先輩の言葉は簡単に過去から俺に語りかけてくる。

    『アマミネくん、明日デートしようよ』
     唐突な誘いだった。それに、これが届いたのはグループラインではなく俺だけだった。俺は鋭心先輩を思い出していたが、なんだか口にするのは憚られて別の言葉を返す。
    『いいですよ』
     明日はレッスンも生徒会の仕事もない。デートという単語には特に言及せずに返事を返す。ただ遊びに行くことをデートと呼ぶ文化が存在することを知っていた。いくつか言葉を交わし、俺は問い掛ける。
    『何時に待ち合わせしましょうね。どれくらいでつきますか?』
     ぽこ、と数秒で返事はくる。
    『朝の八時』
    「……え?」
     学校あるでしょ。そう返すために指先を動かしている間に、また言葉が届く。
    『こなくてもいいから』
     スタンプも絵文字もない、見慣れないトーク画面だ。なんだか面食らって見直した画面の上のほうには、『花園百々人』の文字がある。
    『学校あるでしょ』
     ようやく、打てた。既読はずっとつかなかった。

    「夢じゃないんだよな」
     トーク画面を見て、息を吐く。やっぱり既読はついていなくて、燃え上がるような海よりも現実感のないトーク画面を見つめて少しだけ呆然とする。
     今日はレッスンも生徒会の仕事もない。それでも当たり前に学校はあって、きっと俺は数学で当てられて、体育の時間はバスケでそこそこ活躍して、授業で少しでも退屈になったら横目でずっと人が座らなくなってしまった親友の席を眺めるんだろう。
     そうやって起きるであろうこと全てを羅列していったら、わりとくだらないな、だなんて思ってしまった。そうして、今日八時の待ち合わせに行かなかった時のことを考える。
     百々人先輩はずっと待っている。駅前の人混みに紛れて待っている。無関心な他人のカバンがたまに脇腹とかに当たって、秋に近づいた風は少し冷たくて、それでもスマホを手に取ることもなく、ただぼんやりと冬に怯える木々を眺めている。かさかさと、老いた木々が揺れる。ぼんやりと、そういうことを理解する。わかった気になっている。百々人先輩がこない可能性なんてひとつも考えず、ただ彼の孤独について考える。

    ***

    「あ、ほんとにきた」
    「……それはあんまりじゃないですか?」
     あろうことか俺を見つけた百々人先輩の第一声はこれだった。制服ではなく秋服を身に纏った俺を見て「そのパーカーいいね」だなんて笑う。
    「デートだからオシャレしてきましたよ」
     夢とは違い、百々人先輩も私服だった。そりゃ補導されるかもしれないから制服は着られないんだけど、百々人先輩の私服はあまり見慣れない。でもいつものようにシルエットのわかりにくいオーバーサイズの服を着ていて、それはとても似合っていた。
    「どこ行きます?」
     言いたいことはそれなりにあった。まず、どこに行くか俺たちはなにも決めていないこと。俺たちが学校をサボっているという事実。話題としてはこれくらいになってしまうけど、俺にはいくつかの感情がある。
    「ふふ、アマミネくんのことサボらせちゃった」
     俺の言葉を聞いているのか、俺の言葉は雑踏に紛れたのか、なにひとつ返さずに百々人先輩は楽しそうに口にした。にこ、と口角を上げて、見慣れた人懐こい表情を俺に向ける。
    「……わかってるなら、」
     俺は文句が言いたかったんだろうか。それとも会話を進めたかったんだろうか。それとも、何も言わずに手を引いてどこかに行きたかったんだろうか。そういうの、なんにもわからずに口にした言葉は、ぐう、と鳴った腹の虫に阻まれた。
    「……あはは、お腹減っちゃった」
    「百々人先輩、朝ご飯食べてないんですか?」
    「なんだかおなか減らなくて。でもアマミネくんの顔見たらおなかすいちゃった」
     それでも食事に行こうだなんて、百々人先輩は言わなかった。それどころかどこに行くかなんて、どこに行きたいかなんてひとつも言わない先輩に俺は近くのファストフード店に行こうと提案をした。

    ***

     俺は朝ご飯をしっかり食べたから一番大きいサイズのポテトとコーラを頼んだ。百々人先輩はよっぽとお腹がすいていたんだろう。バーガーをみっつに大きなポテトと乗せたトレイに、バランスを崩しそうな高さの紙カップを置いて、しっかりとした足取りでテーブルまで戻ってきた。
     百々人先輩はおいしそうにそれを食べていて、俺はスマホを弄っていた。百々人先輩が俺を呼ぶから視線をあげたら、まだ彼のバーガーはひとつ残っている。
    「デートなのに、つれないね」
     百々人先輩が俺の目の前にポテトを一本差し出して言う。俺はそれに歯を立てて、言い訳にも不満にもならないように気をつけて声を出した。
    「デートスポット探してるんですよ。なんにも決めてないんですから」
     中間地点だからと選んだこの駅にめぼしいところはなかったから、それなりに遠出をすることも考えている。遠くても、いいと思っていた。だってまだ九時にもなってない。
     なんとなしに、カラオケだとかゲーセンだとかは候補から外していた。補導される可能性があるし、なんだかそれはもったいないと感じたからだ。
    「海が見たいな」
    「え?」
     どきりと心臓が跳ねた。目の前で飛び散る血液と、海を染める夕暮れがちかりと目の奥で光る。
    「定番じゃない? あ、アマミネくんの行きたいところがあればそこでいいよ」
     百々人先輩は一度目を伏せて最後のバーガーに手を伸ばす。噛み付けば、上唇にケチャップがついて真っ赤になった。からだから離れた赤黒い血液には程遠い、太陽を受けて育ったトマトの色だ。
    「……海、行きましょうか」
    「いいの?」
    「もちろん。学校サボって海に行くなんて、ちょっと青春っぽいじゃないですか」
     俺はコーラを飲み干して百々人先輩の手の辺りをぼんやりと見る。この人は食べるのが早くないけど想像よりも遅くない。俺は経路を調べて、有料特急があることを伝える。有料特急に乗りたいとはしゃぐ百々人先輩のためにネット予約でチケットを確保して、自分たちのためだけに用意された席でこの人となにを喋るのだろうかと他人事のように考えた。

    ***

     目的地までの時間に話すことはたくさんあった。思ったよりも、アイドル活動の話はしなかった。
     例えばどのファストフード店のポテトが好きか。てりやきバーガーはありかなしか。カラオケにはよく行くほうか。いま体育でなにをやっているか。学生には大人が思うよりやることが多くて、抱えきれないくらい話題がある。だから、聞かずに済んだ。どうして学校をサボったんですか、だなんて。
    「デートってよりもお見合いみたいですね。ご趣味はなんですか、みたいな」
     代わりに冗談を言う。百々人先輩は楽しそうに笑っただけで、唐突に話題を変えた。話題、ですらなかったのかもしれない。それくらい唐突だった。
    「アマミネくんが来てくれて、よかった」
     ちょっと嬉しかった。こういう、あなたがいてよかったいう言葉は普遍的な殺し文句だと思う。でもそれを享受する代わりに、俺は少し意地悪を言う。
    「鋭心先輩じゃ、絶対にサボってくれませんからね」
     俺のことも、百々人先輩のことも、一度に傷つけるセリフだ。いくらでも取り繕えるはずなのに、百々人先輩は仕返しのように温度を失った声を返した。
    「うん」
     それだけじゃないよ。ふっと百々人先輩は窓の外を見る。俺から目を逸らしたんじゃなくてこの流れていく景色が見たいんだろうと思わせるような、そういう瞳をしていた。
    「マユミくんは正しいからサボってくれない。ぴぃちゃんは忙しいから誘えない」
     俺も窓の外を見る。田舎だなって思うけど、本当の田舎はもっと寂れているんだろう。アンタは例えプロデューサーが暇でも誘えないでしょ、だなんて、冷たい気持ちが少しだけ浮かんだ。
     振り切るように違うことを言う。俺は冗談のつもりだったけど、それらどう思われても仕方の無い言葉だった。
    「俺だって学校があったんですけどね」
    「でも、来てくれたじゃない」
     だから嬉しいの。消えそうな声はまぼろしに似ていた。
     既読もつけずに朝の八時に駅前にいたとき、どんな気分だったのか聞いてみたらよかった。口を開く前に到着を告げるアナウンスが繰り返されて、俺はなんだか意地悪を言っただけような気分になった。

    ***

     秋の海には初めて来たかもしれない。木々のない空間では秋の証明は心許なくて、存在しない人並みは夏ではないことだけを告げている。
    「靴、砂が入りそう」
     言うが早いか百々人先輩は呆気なく素足になった。丁寧に脱いだスニーカーに靴下を突っ込んで、それでも海に近づくではなくただじゃれるように足下の砂を蹴散らしている。
     俺は靴も脱がずにそれを見ている。なんだか、そのほうが穏やかだった。今朝見た夢のせいであまり海には近づいてほしくなかった。昼ご飯にしようと駅の売店で買った食べ物と飲み物を入れたビニール袋が、海風にかさかさと音を立てる。
    「お腹減らない? 大丈夫?」
    「少し。でもまだ食べなくてもいいかなー、って感じです」
     正午までまだ時間がある。きっと学校で授業を受けていたら空腹だっただろうけど、ずっと座っていたからそこまでお腹は減っていない。そもそも、車内でいくつかお菓子を食べていた。
    「僕もいいかな」
     あらかた砂を散らした百々人先輩が少しだけ歩く。海と呼べない空間から、海としか言えない空間の、ちょうど真ん中くらいに立つ。砂浜のちょうどいい位置だった。
     海を見ればいいのに百々人先輩は俺を見ていた。俺が距離を詰めると、感情の読めない声でさっき聞いたセリフを口にした。
    「アマミネくんが来てくれて、よかった」
     柔らかい視線だった。夏の死骸のような太陽光を背にして、まぼろしのように立っていた。
     夢のようだ。そう思った。
    「……そう言ってもらえるなら、来た甲斐がありました」
     今度は意地悪を言わなかった。手の届く距離で瞳を見つめて、言えなかった言葉を紡ぐ。
    「……どうして、学校をサボったんですか?」
     傷つける気はなかった。夢に浮かされていたのかもしれない。言いたくないなら言わなくていいですよ。俺が逃げる前に百々人先輩は目を細める。
    「……今日ね、修学旅行なんだ」
    「え?」
    「みんな海にいるの」
     声はいつもみたいに微笑んでいた。でも表情は笑顔と泣き顔の間を彷徨っているみたいな、そういうぼやけた輪郭をしている。
    「……どこに?」
     マヌケな質問だ。
    「九州。いまごろイルカ見てるよ」
     律儀な答えだ。黙っていてくれたら、こんな話はおしまいでよかったのに。
    「ここにイルカがいたらいいのにね。アマミネくんと見てみたい」
     なんだか脳がぐらぐらした。修学旅行に行かない人、本当にいるんだ。俺は目の前の寂しい人を差し置いて親友のことを思い出す。座る人間を忘れた机がカーテン越しのちろちろと揺れる光でぼんやりと光る。
    「……百々人先輩に来てほしかった人、いたと思いますよ」
     考え得る限り最悪の言葉だった。これを伝えるべき相手は絶対に百々人先輩じゃない。もちろん、アイツに言えるわけもないのに。
    「うん」
     クラスメイトから離れて、亡霊のような存在になってしまった百々人先輩は言う。俺も、鋭心先輩も、プロデューサーだってこの人の居場所なのに、いまの百々人先輩はアイドルでもなんでもなくて、ただ学校をサボっただけの高校生だったから。
     百々人先輩。そう投げかける声が震える。当たり前みたいに、無視された。
    「……お金払うの忘れちゃって」
    「……は?」
    「修学旅行のお金払うの忘れちゃって。めんどくさいなーって後回しにしてたらこうなっちゃった」
     自業自得、と百々人先輩は笑う。乾いた笑いだった。修学旅行ってそういうものだっけ。保護者がなんとかしてるだけで、俺が知らないうちに集金とかしていたんだろうか。
     それなら、百々人先輩の保護者はなにをやっているんだろう。
    「で、修学旅行って行かない人は学校行かなきゃダメなんだって。でもなんか、それもめんどうで」
     つらつらと百々人先輩は言葉を並べる。一度口にしてしまったことを流すように、さざなみと混じり合う声色が俺の発言を阻む。ままならない夢を一枚挟んだみたいな空虚があって、百々人先輩の言葉がうまく入ってこない。目の前の人間がなんだか、とても脆い生き物に見える。
    「……おしまい」
     百々人先輩はそう言って、俺の沈黙を置き去りにするように海へと歩き出した。自分でも信じられないような力で、俺は百々人先輩の腕を取る。
    「……痛いよ」
    「……行かないでください」
     散らばった青い絵の具。染まる海。覚えていない百々人先輩の表情と、それを照らす茜色。
    「靴は脱いだから、平気だよ」
     百々人先輩は俺の手を振り解かなかった。命綱のように握っていたから、振り解けなかったのかもしれない。
    「平気じゃないです」
     声が、滲んだ。
    「……百々人先輩が、死んじゃう」
    「……は?」
     自分がバカなことを言ったと気がつくのに時間はかからなかった。百々人先輩は呆気にとられた一瞬後、大きく口をあけて笑う。
    「……ふふっ、あはは! なぁに? それ」
     おかしい、と百々人先輩は笑い続ける。俺だっておかしいと思ったけど、笑うことができなかった。目元がすこし熱くて、喉がちょっとだけつかえた。
    「ふふ、僕が海に入って、そのまま死んじゃうと思ったの?」
     俺は百々人先輩をずっと掴んでる。百々人先輩は空いている手で俺の頭をそっと撫でた。
    「……修学旅行に行けないくらいで、死んじゃったりしないよ」
     あたたかい声だった。俺の婆ちゃんが出すみたいな、そういう声だった。どうしようもないね。ありがとうね。そういう声だった。
    「……イルカが見れなかったくらいで、死んじゃったりしないよ」
     その言葉を境に、さざなみの音が戻ってくる。よせて、かえして、何度か繰り返して俺はやっと息を深く吐いた。
    「……何泊ですか?」
    「え? 三泊四日だけど」
    「俺、明日も明後日もサボっていいです。海でも、山でも、どこでも行きましょう」
     鋭心先輩が正しいなら、プロデューサーが忙しいなら、俺は正しくなくていいし、いくらでも暇になったっていい。
    「……ひとりで行くことになるよ。僕は明日からマジメに学校行くからね」
     すっと、繋がっていた指先が離れた。百々人先輩が動いたからかも知れない。俺が指先に力をいれるのをやめたからかもしれない。
    「海、見よう?」
     今度こそ百々人先輩は海に向かって歩き出した。俺はそれをとぼとぼと追う。ざくざくと、足下の砂が鳴る。
     百々人先輩の足を、波が濡らした。
    「……百々人先輩のこと、少し怖いんです」
     近寄って、距離をゼロにする。百々人先輩の背中に額をつけて打ち明けた。百々人先輩の表情は見えなくて、体温から伝わる肺の動きはゆったりと一定のリズムで動いている。
    「違う。怖いより、もっと思うことはあるんです。好きだし、大事だし、信じてる。それなのに怖かったんです。よくわからなくて、なんだか怖かった」
    「……うん」
     俺の声も、百々人先輩の声も、波にさらわれてしまいそうだ。誰もいない海に俺たちはたったふたりきりだった。
    「でも、いまは違うんです」
     残念そうな、楽しそうな声で百々人先輩が返す。
    「……もう、怖くない?」
     俺の手は宙ぶらりんだから振り向くことも離れることもできる。俺の表情なんて簡単に暴けるのに百々人先輩はそのまま続ける。
    「……もう、わかっちゃった?」
     首を振る。自然と、額を押し付けることになる。
    「わからないです。でも、思うんです。わからないから、俺はきっとなにもわからないうちに百々人先輩を傷つける」
     こういうの、もう間違いたくない。喉の奥がざらざらと乾いてく。
    「それが、すごく怖いんです」
     吐き出した息が震えた。吸って、吐いて、また吸って。しばらく繰り返していたら百々人先輩が思いついたように喋りだした。
    「……今日、アマミネくんが来なかったら買い物に行くつもりだったんだ」
    「……はい」
     俺の相づちなんて聞いてないんだろうな、って、ぼんやりと思う。
    「羽織るものが欲しくて。あとズボンも見たかった。お昼ご飯の目処だって、ちゃんとついてた」
    『こなくてもいいから』
     無機質な文字列を思い出す。あれは正しく真実だった。こんなにも情けない自惚れなのに、少しも恥ずかしくなかった。
     だって百々人先輩は、俺が来てよかったって言ったから。
     ふいにバランスが崩れる。振り向いて、しっかりとこちらを見た百々人先輩が言った。
    「イルカが見れなくても、海になんてこなくても、僕は死んじゃったりしないよ」
     だから心配しないでって、百々人先輩はそう言った。自惚れないでって、そう言われた気がした。
    「僕はアマミネくんになんて、傷つけられたりしないよ」
     疑うとか、信じるとか、そういうことを考える前に、何も考えずにその幸いを受け入れる。そうして、ひとつの呼吸を置いて、無性に寂しくなってしまった。
    「……傷つくときは」
    「うん」
    「俺で傷ついて。俺の言葉で、態度で。それ以外で傷つかないで」
    「……言ってること、めちゃくちゃだね」
     わかってる。こんなの間違ってる。子供の癇癪よりもひどいワガママを俺は言っている。傷つけたくなくて、それはきっと怖いからで、でも怖いのは傷つけそうだからで、そういうループが百々人先輩にぶっ壊されて、そうなった瞬間に、がれきの中によくわからない感情を見つける。そうして見つけた感情に、百々人先輩はトドメを刺す。
    「無理だよ」
     俺は返事をしなかった。ただじっと、百々人先輩を見つめて、何かが伝われって祈ってた。百々人先輩はしばらく俺を見つめたあと、ふっと溜息を吐く。
    「……冗談だよ。ひどいこと言って、ごめんね?」
     嘘だ、って泣き出すことも出来ずに俺は口にする。
    「俺が百々人先輩の感情を動かせないのは、嫌です」
     これは愛じゃない。これが恋なら、恋なんてろくなものじゃない。それでも恋なんてどうしようもなくてろくでもないものだと言われれば、これは確かに恋なのかもしれない。
    「……だったら、喜ばせて」
     イルカを見せて。そう言って百々人先輩は俺に背を向けた。ぱしゃ、と百々人先輩が波打ちぎわを蹴り上げる。青かったはずの海が透明な雫になって宙を舞う。
     俺も海に突っ込んで、水面を蹴り上げる。海水がスニーカーに染みこんで、あっという間に靴下がずぶ濡れになった。
    「……靴、脱げばよかったのに」
    「ほんとですよ」
     知りたかった。今日俺がここにきたことは、アンタを傷つけてはいないか。もしもこの気持ちが恋なら、アンタの心はどう動くのか。
     ドラマのようにはいかない。突拍子もなく強い風は吹いたりしない。タイミングは、自分で探すしかない。
    「……そろそろ、お昼食べましょうか」
    「そうだね。お腹すいてきたかも」
     水に浸していた足を引き上げて、百々人先輩は砂浜の真ん中に戻る。濡れた足には砂粒がべったりとまとわりついていた。
     
     
    「夢を見たんですよ」
     カツサンドを食べながら、言うつもりのなかったことを言う。
    「百々人先輩が海を作ってたんです」
     百々人先輩の喉が動くのを、少しだけ見る。
    「……きれいでした」
     夢で見た海を思い出す。その青色も、茜色も、どちらも等しく美しかった。
    「すごいね。僕、神様みたい」
     夢のすべてを知らない百々人先輩はからからと笑う。おにぎりのビニールを番号順にめくりながら、ぽつりと言う。
    「僕は」
     うまくめくれなかったビニールに巻き込まれて、海苔がちぎれているのが見えた。
    「マユミくんに来てほしかっただなんて、一言も言ってないよ」
     来てくれてよかった。もう百々人先輩はそう言ってくれなかったけど、俺はその言葉をふわふわと思い出していた。
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