完全犯罪 ベッドに沈み込んでいた。一分か、一秒か、それよりもっと長くか、一瞬か。
ふ、っと浮上して、まずは自分のからだを確かめる。どこも溶けてなくて、どこも欠けてなくて、どこもくっついちゃってない。こうやらないと、完全に百々人先輩と離れられたのかがわからない。
素肌に触れると潜り込んだ気分になる。舌が絡むと境界がわからなくなる。噛み付けば胃の中に押し込めた感覚があって、喘ぎ声を聞くと脳内が百々人先輩にジャックされる。そうやってからだの感覚が形を保てなくなるくらいドロドロになっちゃって、最後には証明のようにくっついてひとつになってしまう。
そうやって繋がると、ちょっと離れたくらいじゃわからない。百々人先輩に触れて、自分のからだに触れて、そこでようやく俺たちが別々の生き物だって、わかる。
吸って、吐いて、酸欠の脳に酸素を送る。百々人先輩も全力疾走したあとみたいな荒い息を吐いて、隠れていた瞳を俺に向ける。赤にも青にもなれなかった紫陽花のような視線に捕らえられて、そこに映る自分に安堵した。
アマミネくん、と名前を呼ばれる。隣で寝転んでいた百々人先輩はからだを少しだけ起こして俺の胸に耳を当てた。鼓動の音を辿るみたいに呼吸して、普段よりも掠れた声で呟く。
「……証拠の残らない殺人の仕方、知ってる?」
「は?」
内容が噛み砕けなかった。さっきまでセックスしていたはずの人間が、いきなり殺人の仕方について話し始めたんだから当然だ。
「……いや、ピロートークにしては物騒すぎませんか?」
「知らないんだ。天才なのに」
百々人先輩はいたずらが成功した子供みたいに笑った。そうなると俺は引き下がれなくて、必死に頭を回転させる。
「えっと……例えば凶器を氷にするとか。そうすれば凶器は溶けて残らない。あとは事故死に見せかけたり……」
「はずれ」
百々人先輩の指先が俺の手の甲を滑る。そのままゆっくりと手を繋いで、百々人先輩は俺に触れるだけのキスをしながら囁いた。
「僕らみたく、ひとつになっちゃえばいいの」
百々人先輩は俺に乗っかってからだを密着させた。頬が頬に触れて、胸が胸に触れて、反対側同士で鼓動が鳴る。足と足が絡んで、露出した臓器が触れあった。百々人先輩の接触は性的なものではなかったと思う。それこそ言葉通りに溶け合うことが前提の、侵食に似た体温だった。少しだけ感じた怖さみたいなのが心臓を突き飛ばして、脳がそれを勘違いして恋を深める。下腹部に血が集まるのを認識して、頭の中の冷静な部分が呆れていた。
「呼吸も一緒になって」
百々人先輩が意図的に合わせているのか、偶然の一致なのか、それとも本当にひとつになっちゃったのか、わからない。吸って、吐いて、吸う。神様が指揮をしたみたいに、完璧にタイミングが合う。
「体温も一緒になって」
その感覚は知っている。一番熱いところに突っ込んで、ぐちゃぐちゃになったところから熱が伝播して広がっていく感覚だ。掴んだ手首と手のひらが同じ温度になって、離れた唇が同じ速度で冷めて、心臓で暴れる血の色まで同じになるような、くらくらするような感覚を思い出す。
「鼓動も一緒になって」
抱き合えばどうしても反対側で動く心臓も、呼応するみたいに同じリズムを刻んでいた。俺の心臓はいま、少しだけ早く脈打っている。俺に覆い被さっている百々人先輩も、余裕そうな言葉の速度に似合わずに俺と同じリズムを刻んでいた。
「……ひとつに、なって」
「……ひとつに、なって?」
少しだけ間があった。百々人先輩が一回だけ深く息を吸ったから、一瞬、俺と百々人先輩のリズムがズレる。その時を待っていたかのように、突然百々人先輩が大声を出した。
「わ!」
呼吸が止まる。冬のかじかんだ手で心臓を握りつぶされたような衝撃だった。こんなの、ほとんど裏切りだ。ひゅっ、と呼吸が細くなって喉の奥が引き絞られる。大きく身震いした俺を見て、百々人先輩が少しだけ笑った。
「……完全にリズムが一致しているときに、こうやっていきなりリズムを乱すと……乱された相手は死んじゃうんだって」
百々人先輩が俺から離れて、俺の隣で体育座りになって俺を見下ろしている。俺も起き上がって、なんとか頭を働かせて言葉を吐き出した。
「……俺、いま殺されかけたんですか?」
「まさか」
百々人先輩は自分の爪を見ていた。そのまま口元に手を当てて、考え込むように目を伏せる。
「ってか、こんな……こんな簡単に、人って本当に死ぬんですか?」
そんなわけない、って言えなかった。ひとつになる、その感覚が皮膚全体にこびりついていた。そこから引き剥がされて、暴力的に切り裂かれるような衝撃のイメージが背筋を辿ってひんやりと肺を焼く。死んじゃうかもしれない。そう思った。
「知らない。聞いた話だから、わからないよ」
何か結論は出たのだろうか。百々人先輩は唇から手を離して、その指先で俺の胸に触れる。
「ひとつになるの、こわくなった?」
きっとこの頼りない人差し指から俺の鼓動は全部伝わっている。ひさしぶりに、この人のよくわからないところを見て怖くなった。理解して、した気になって、こうやって抱いて俺はこの人を傷つけないと決めて、ようやく恐怖は消えたと思っていたのに。
怖いもの見たさ、って言葉が浮かんだ。好きになったから怖くないんじゃなくて、怖かったから近づいただけなのかもしれない。
「……怖く、ないです」
それでも、俺はそれを認めるわけにはいかなかった。怖いのは嫌だ。でも、それよりもわからないのが嫌だ。だって、わからなかったら、きっと俺はこの人を傷つけてしまう。
それだけは、嫌だった。
「信頼してるから。百々人先輩は俺を殺さない。ひとつになったって、心臓を止めてしまえる距離にいたってアンタは俺を殺さない」
怖い。怖くない。好き。嫌いじゃない。信頼してる。愛してる。全部本当で、全部実態がない。本当が全部殴り合って、結局『好き』が残るんだから、もうどうしようもないじゃないか。
「……違うよ、アマミネくん」
百々人先輩が俺の手を取った。俺の手のひらを自分の心臓に押し当てて、百々人先輩は試すように笑う。
「キミが、僕を殺せるの」
吐息の深さ。心臓のリズム。晒した体温。俺に向けられていたはずの凶器は、俺がそのまま手にしていた。
「殺されるかも、じゃない……殺せるんだよ。僕のこと」
掴まれたままの手が心臓から離される。そのまま手のひらは百々人先輩の頬に導かれて、されるがままに彼の頬をそっと撫でた。
「……こわい?」
俺の手の温度を確かめるように百々人先輩が目を細める。屈託のない微笑みだった。安心しきったように俺の体温を感じて、うっそりと息を吐く。
「……アマミネくんは、こわい?」
なにがだろう。形なき殺人のことだろうか。俺が手にした凶器のことだろうか。それとも、目の前の男のことだろうか。どれだって、答えは一緒だった。
「……怖くない」
触れていた頬をそのまま引き寄せて自分の気持ちをうやむやにするようにキスをした。百々人先輩はそういうのを全部受け入れて、舌を触れあわせて甘ったるい声を出す。数秒だけ絡まって、また離れる。唇の熱だけがおんなじだ。
「怖くない。……もしも怖くたって、言えるわけない。そんなの認めるわけないじゃないですか」
百々人先輩は少しだけキョトンとしたあと、どうして、と首を傾げた。不出来な兄弟を見守るような目で、柔らかく俺のことを見ていた。
「だって、俺に『怖い』って言われたら……アンタ、寂しいでしょ」
ああ、やっぱり俺はわかった気になっている。そうであれと願ってる。それでも百々人先輩は一言、「ありがとう」と言って笑った。
「ねぇ、僕らは本当にひとつになれるのかな」
遠くの方を見るような口調だった。ずっと向こうには日の沈まない国があるって本当かな、っていう疑問と同じ色をしていた。
「……なっちゃったら、百々人先輩がいなくなっちゃうじゃないですか」
「自分がいなくなるって考えないの、すっごくアマミネくんらしいね」
からからと百々人先輩は笑って、ベッドに寝転んだ。横になって、胎児みたいに丸まって、眠そうな声で独り言みたいに呟く。
「本当にひとつになれたら、殺してみてもいいよ」
「絶対にそんなことしませんよ」
「本当にひとつになれたら、何だってあげちゃう。そういう、そういうことなんだよ。なれっこないって知ってるけどね、なっちゃったら……それくらい、」
百々人先輩は俺を無視して雨音のように囁いた。俺はそれが気にくわなくて、百々人先輩のほっぺたをきゅう、と引っ張る。
「あみゃみねふん、ひひゃい」
指を離す。百々人先輩は「冗談だよ」と笑い、全部をひっくり返すみたいに言った。
「人を殺しちゃ、いけないんだよ」
当たり前を口にして、百々人先輩は眠ってしまう。俺はぽつんと残されて、百々人先輩の寝息を聞いていた。N