キスの日だからといって 本日はキスの日らしい。
なので、俺はキスの日を理由にキスがしたい。
今日は思春期がそんな不毛な連想ゲームに囚われる日なのだが、今日という日はそれ以上の意味を持っている。今日は鋭心先輩の誕生日だ。
インターネットってよくない。こんな情報を知らなければ、少なくとも今日の俺はいい子の後輩でいられたはずなのに。よりにもよって、恋人の誕生日がキスの日だなんて。
でもそんな不埒な感情は、事務所で行われたささやかなパーティに置いてきたはずだった。鋭心先輩を祝うパーティが終わって、俺たちは鋭心先輩の家で三人だけのお祝い延長戦。そこにしつけのなっていない後輩は舌を出す余地もない。そのはずだった。それなのに。
『あ、僕忘れ物しちゃったみたい』
思い出すのは百々人先輩の言葉。こんなセリフを言ったくせに、カバンの中身も見ずに百々人先輩は言ったんだ。
『取りに戻るよ。だから……うん、一時間。一時間くらいかかるから、待ってて』
そう言って、ふわりと身を翻して百々人先輩は呆気なくいなくなってしまった。残された俺たちは顔を見合わせて確認しあう。
『……気を使われましたね……?』
『……そのようだな』
百々人先輩にはこういうところがある。俺たちが付き合ってるのを知ってから、こうやって度々俺たちをふたりきりにしてくれる。そのたびに俺はありがたかったり申し訳なかったり寂しかったりするんだけど、今日は素直に喜ぶことにした。だって、今日は鋭心先輩の誕生日だから。昨日から電話を繋いで日付が変わったら一番にお祝いをしたし、今日の終わりだって電話をしようと約束してる。それでも、やっぱり実際に会ってふたりきりになれるというのは何者にも代えがたい幸せだった。
だからいい子でいるつもりだった。んだけど、シアタールームでくつろぐうちに考えてしまう。キス、したい。
一時間ってどれくらい長いんだっけ。いつもはどんなきっかけでキスしてたんだっけ。そんなことを考えていたら、ふと思い出したんだ。そういえば今日ってキスの日なんだ、って。
言い出そうか。どうしようか。正直、自分の誕生日がキスの日って言われるのはどうなんだろう。でもこれはかなりスムーズな導入だと思うんだよな。ただ、先輩がそういう気分じゃないかもしれなくて──わからない。天才の頭脳を持ってしても、わからない。
俺があれやこれやと考えている間、先輩は何をしていたんだろう。気がついたら先輩は俺の横に腰掛けていて、明日の天気を話題に出すように口を開いた。
「そういえば、今日はキスの日らしいぞ」
「へっ……あ、そ、うなんですよね」
「ああ。なんでも日本で初めて映画でキスシーンが公開された日らしいな」
映画が好きな鋭心先輩が知っていてもおかしくない知識だが、それを恋人の前で、それもふたりっきりのときに言うのはどうなんだ。俺は思春期真っ盛りだというのに。
「……鋭心先輩、そういうこと言われると……ちょっと期待しちゃうんですけど」
「ん?」
先輩が俺の髪に触れる。指先で弄ぶ。楽しそうに笑うから、きっと今日はもう勝てない。
「……キス、したいです。キスの日だし、いいでしょ?」
「……ダメだ」
すっ、と鋭心先輩の手が離れていく。若干のショックを受けていた俺の唇に、鋭心先輩の指先が触れた。
「キスの日だから、は寂しいな。キスの日以外はしてくれないのか?」
鋭心先輩は大型犬みたいなくせに、ネズミをオモチャにする猫のように俺を翻弄して遊ぶ。降参の白旗の代わりに、口を開けてその人差し指に軽く刃を立てた。
「……しますよ、いくらでも。ダメなの?」
「ダメなものか」
がっちり噛み付いて動けなくしてやればよかった。俺の甘噛みから指を引き抜くどころか、指を俺の口内まで進入させて上顎をなぞってくる。ぞくりと震えた背筋を無視して鋭心先輩は、毒としか思えないような甘い声をこぼす。
「恋人なんだ。……キスをするなら、理由なんてひとつでいいだろう」
するりと指を引き抜いて、今度は子供にするように俺の頭を撫でてきた。腹が立つけど、胸がひどく甘い。このまま手のひらの上で転がされてしまいたい。それでも歯がむずむずするものだから、油断しきったその喉元に噛み付いてしまいたい。
でも、なにより今は触れていたい。
「……キスしたいから、キスさせてください」
「もちろん」
そう言って鋭心先輩は目を閉じた。そっと唇を重ね合わせて舌でぺろりと舐める。受け入れるようにうっすらと開いた唇から舌を潜り込ませて、無抵抗──あるいは奉仕される王様のようにのんびりとしている舌を絡め取った。
「んっ……」
鋭心先輩の頬を両手で包んで夢中でキスをしていたら、鋭心先輩が俺の耳に指を滑らせてくすぐるように撫で上げる。キスの熱と背筋を震わせる甘い刺激に負けないように、この男の余裕を剥がすべくもっと深くに潜って呼吸を飲み込んだ。余裕があるなんてズルい。めちゃくちゃになっちゃうなら一緒がいい。
どれくらいキスしてたのか、わからないけど息がもつれて呼吸が荒い。じっと見つめた若草色の瞳はうっすらと滲んでいたが、弧を描いた目元がそれをしたたかに、艶っぽく彩っていた。
「……あと三〇分くらいか。どうする? オセロでもやろうか」
「ホント……今日のアンタ、意地悪ですね。キスしましょうよ」
百々人先輩に見せられない顔にしてやる。そう宣戦布告をすれば、鋭心先輩は困ったように眉を寄せる。
「……キスの日に生まれたのも考えものだな」
「……いまさら逃げるんですか?」
「逆だ。……俺の恋人は、キスの日にはキス以上のことをしてくれないようだからな。物足りない」
そう言って俺の額にくちづけをひとつ。たくさんキスをしようかと微笑む男に言いたいことはたくさんあるはずなのに、天才の俺は言葉ひとつ出てこなくてただ目の前の男の名前を呼ぶ。
「……鋭心先輩……!」
「ん? どうし、」
た、と言葉を紡ぐまえに押し倒した。喉元はきっかりと着込んだ制服がガードしているから、代わりに露出している耳たぶを噛む。
「今日のアンタ……本当に腹立つ……!」
「からかいすぎたか。悪かった。……こういうじゃれあいが出来る人間が初めてで……そのうえ相手は恋人で、俺は誕生日だ。浮かれているんだ。許してくれ」
そういって、鋭心先輩が幸せを振りまくように笑った。時計を見て、きれいな唇を開く。
「……あと二〇分だと、キス以上のことはできそうにないな」
「時間制限があるのに煽るなんて、鬼ですよ……」
「……なら、泊まっていくか?」
夜は長い。そう挑発的に目を細める鋭心先輩の手を取って、指を絡める。親指の腹をやわやわと撫でて耳元で囁いた。
「……キスの日だからって、キス以上のことしちゃいけないなんてこと、ないですもんね」
自然と近づいた俺の耳に吐息をかけて、鋭心先輩は「ああ、」と一言呟く。あと二〇分でいい子に戻らないといけないのに、心臓がずっとうるさくて困ってしまった。